ロード・マーシャル時事報告場

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近況報告

2015-08-30 13:08:20 | Weblog
ここ最近思いついたネタをショットガン式に書き記してみる。


ガンジーの非暴力運動について

今の日本共産党や左の人たちは、
ガンジーの非暴力運動は永遠にわからないだろうな。


芸術の価値について

東京オリンピックのロゴが騒動になっている。
私はほとんど芸術には疎いが、それゆえに昔、ピカソのあの絵の価値などについて友人に質問したことがあった。友人曰く、
「その人のそれまで積み重ねてきたこと(感性も含む)が価値になっているのではないか」
とのこと。そうであるならば、「パクリ」によって作られた作品はほとんど無価値になるのではないか。
とはいえ、「インスピレーションを与えられて(当人の)芸術を完成させる」ということを勘案するに事態はややこしく、やはり芸術は私にはあまり向いていないと感じる次第である。


悪の虚像

何回も言っていることではあるが、「ヒトラー=悪」という考えは、思考停止以前に非常につたない考えであり、それ自体が「第2のヒトラー」を選出する基盤になりうるという点において、非常に危険である。


ホリエモンと障害者

ホリエモンが障害者の社会への参画に、効率という観点から否定的な意見を示したようである。たしかに、「効率」を求めるのならばそれは正しいが、我々は「効率のために」生きているのではない点を注意しなければならない。「効率」は「使うもの」であって、「使われるもの」ではないのだ。また、障害と一口に言っても、その方向から程度は極めて多彩で定義づけが非常に難しい(スペクトラムである)。真に「普通」という平均的人間像は虚像であるし、どのような人間も「同一でない」という意味において差異が発生し、その差異は線引きによって障害へと認定されうる。一障害者として諸君に注意しておかなければならないことは、「自分は違う」という考えでいると、実は単に気づいていないだけである場合があり、またいざその時に認められなくて余計に悪化するということである。私が言うんだ、間違いないぞ。


効率主義派生

今後の日本の政情を考えるに、老老介護、または移民、もしくは不景気(実感の伴わない経済)により、効率主義が台頭してくると予言する(ちなみに、民族の血に対して効率主義を実施したのが、ナチスである)。歴史は繰り返す。この状況を打破するには、ベトナム戦争当時のアメリカ国内の政情から学べるものがあると考える。その意味では、「日本はアメリカの50年後を行っている」。


食品を中心とする天然物至上主義について

現代科学による安価・美味・大量生産を社会問題と関連付けて批判し、すたれ行く伝統に警鐘を鳴らし、最後に天然物と記せば、その主張をする人にとっては満足なのだろうか。しかし、たとえば伝統一つとっても、「変わらないものはない」のであって、それを批判することは保守ではなく懐古である。そのような人間は発達障害の私と同様、固執しやすい考え方を持っているので、上記「ホリエモンと障害者」の項目で挙げた「気づいてないだけの障害群」であるので、このような主張に賛同してしまう人間は今後の社会において注意が必要である。


合目的的について

植物の組織の構成などを観察するに、これらは黙々と合目的的活動(すなわち増殖)をしている。贔屓目に見れば、人間は個体レベルでは非生産的行動をとる者もいる。これは「多様なラインナップで激変する環境に対処する」生存戦略における、ただの揺らぎであろうか、それとも人間特別のことなのであろうか。案外人間以上の知性となると、発達しすぎて絶滅したサーベルタイガーの牙のように生存に不利なのかもしれない。そういう意味で進化論的観点から考えると、人間以上の知性を持つ宇宙人というものは存在する可能性が低いといえよう。人間がこれ以上「進化」しないのも、そこに理由があるかもしれない。もちろん、現段階ですでに「異質な存在」として今後淘汰される可能性は(「人間が環境破壊をしている」というたちの悪いプロパガンダ以前に)、十分にあると思われる。


社会システムについて

人間が発達させた社会システムで特筆すべき点があるとすれば、人間は社会システムのみならずそれを部分部分に細分化して維持運用する「為の」行動で生活の糧を得ている個体もある、という点であると考える。その意味で共同体的にシステム維持によって生活の糧を得ることは人間の特殊性といえるのかもしれないし、蟻の階級構造と役割のように、またはライオンの狩りの群れの役割のように、ただ単に「複雑の度合いが違う」だけであって、やはり生物界において一般的な例の一つに過ぎないのかもしれない。


テレビ番組について

最近の視聴者受けの良いテレビ番組に、「日本すごい!日本人すごい!」と褒め称える番組が多い気がする。昨今の政情と勘案して、ナショナリズムが捗るな。少々暴走気味であるし、暴走すれば国家社会主義が実現してしまうのだが。
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断捨離

2015-08-23 13:53:30 | Weblog
部屋の整理をしていたら、大学時代の講義内容が出てきた。
さっと見返してみても案外レベルの高い講義内容であり、これを複数、しかも遊びやアルバイトとも両立をさせていたことを考えると、実は私のレベルは高いのかもしれぬ。
もちろん、頭に残っているものといえば、「江口教官」が「エロ教官」に見える、と同期内ではしゃいだことや、数理生物学の教授が、数理的に「パチンコ依存症と財布の事情の相関」を語っていたとか、そんなものであるがな。

ただ、生物学的には「忘れる」ということも一つの「適応」の仕方であるし、また別の見方をすれば、今の我々があるのは(生物学や講義内容を落ち着いて見返せるのは)結局当時の勉学あってこそである点などを勘案するに、あの時の勉強はムダではなかったし、様々な失敗と成功を経験したということは非常に良いものであると思う。あと、若さってすばらしいな。今やトップページだけ、それも文字化けしているが、当ブログも本来は「ホームページ」だったしな。「3日で作るホームページ」という本まで出てきて懐かしく思った次第である。

過去を整理すると、思い出に捉われ、なかなか作業が進まないのはよくあることであるが、本日只今を持って、不必要なものの処分ができたので良しとする。いらない本をブック・オフで売りさばいてきたのだが、その査定中ふとDVDコーナーによってみると、映画「コンタクト」と「グラディエーター」があった。
「ゴジラ vs ビオランテ」だけでなく、中高生時代に観た、「コンタクト」は私の科学を学ぶ上での倫理的基礎を、「グラディエーター」は私の私自身の認知の仕方について、非常に影響を受けた作品である。落ち着いたらもう一度観てもいいかもしれぬな。

「コンタクト」は日本人の描写が変、とか、「グラディエーター」は冒頭の戦闘シーンが大雑把、というような批判もあるが、核心はそこではなくて、きちんと本題に沿って鑑賞すれば、やはり「良い作品」といえるであろう。ただ、「グラディエーター」でもっとも影響を受けた(共感した)人物が「コモドゥス」である点は微妙ではある(とはいえ、コモドゥスの「幼さ」があって初めて奥行きが出来る作品でもある)。

同時に、「トラフィック」もないかと探したが、残念ながらこちらはなかった。トラフィックは、最後の野球場のライトのシーンの少し前、麻薬に手を染めた娘を持つ麻薬取締局長官が会見で、
「この戦争は根絶させなければならないが、そんなことをすると、世界中の数千万の家庭内で戦争をすることになる、私は、家族と戦争など、できない」
と発言してしまうシーンも印象的であった。しかし、それでも「やらなければならない」問題であるという見方や、その言葉は敗北を意味してしまうとか、あるいはそういう状況を作り出してしまう麻薬は恐ろしいとか、そういう敗北や恐怖に対する現実を捉える、といったいろんな見方が出来る点も「トラフィック」が優れた映画である所以である。

科学者は今一度「コンタクト」を、
ドキュメンタリー好きは「トラフィック」を、
ロード・マーシャル様の稚拙さが知りたい者は「リディック」ではなくて「グラディエーター」を観ることを勧める。
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フォン・ブラウンと一方通行

2015-08-22 12:01:54 | Weblog
まずは以下の動画を見ていただきたい。

【MAD】鳥の詩(ドイツ空軍)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm983758

ドイツ軍がロケットやジェット戦闘機に注力したのは理由がある。

第一次大戦で敗北したドイツは砲などの軍備に厳しい制限がかけられていたため、「条約外」の新兵器、ロケットに注力したのである。

以下、人類が月に到達するまでの流れ。

フォン・ブラウン
「月に人類を運ばせたい・・・お金ないけど研究するぞ」

ドイツ軍
「砲に制限がかけられている・・・どうしたら・・・。
 おっ、ロケットという分野があるんだな」

両者の利害が一致
ドイツ軍の支援によりフォン・ブラウンを中心としたロケット研究が本格化。

対戦後半
「報復兵器」V1、V2が完成、実戦にて運用。

戦後、ペーパークリップ作戦(ドイツの技術者獲得作戦)によりアメリカがフォン・ブラウンを獲得。

ドイツ技術者冷遇されるも(元ドイツ人は機密資料を見れなかったが、当時の機密資料の中にはV2の設計図もあり、フォン・ブラウンは自身が設計したロケットの設計図すら見れなかった)、冷戦の激化によりアメリカの威信をかけたアポロ計画が発足。

フォン・ブラウン悲願の有人月探査成功。


様々な境遇の中、信念を貫いたフォン・ブラウン博士の勝利であろう。

なお、自分の願望のためには兵器開発も厭わないその姿勢は時として「マッド・サイエンティスト」として非難されるが、
自身の確固たる信念のもと、それを達成したことは、技術者の生き方としては間違っていないと思う。

なお、同様にソ連が獲得した技術者の末路は、察したほうがよい。

おまけ1

V1(巡航ミサイルの始祖)に対する意見
否定的
飛行機でも迎撃可能であり、あまりにも稚拙な誘導装置故に効率は良くなかった
肯定的
爆薬を投射するコストが低く、「迎撃可能」なためにイギリス空軍はV1迎撃に戦力を割かねばならず、戦略上有用足りえた

V2(弾道ミサイルの始祖)に対する意見
否定的
「迎撃不可能」故に、V2を阻止するには欧州大陸のドイツ軍を駆逐する必要があり、結果ドイツの敗北を早めた、コストが高すぎた
肯定的
既にドイツ空軍による攻撃が絶望的な中、迎撃不可能なV2の存在は「当時のドイツ」では、有用であった。

おまけ2

時々、当ブログでも紹介している「とあるシリーズ」の一方通行さんであるが、現実的に考えると、彼を倒すのに大がかりな装置はいらない。

「TOS-1 ブラチーノ」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3498979

を一方通行に向かってぶっ放せばよいだけである。

もちろん、火力などはすべて「跳ね返されてしまう」だろう。
しかし、大切なことを忘れてはいけない。
「TOS-1ブラチーノ」の弾体は、サーモバリック爆薬で構成されているのである。
サーモバリック爆薬とは、燃料気化爆弾のようなものととらえてもらえれば手っ取り早い。
これはすなわち、
「周囲の酸素を一瞬で消費」してしまうことを意味する。
よって、「熱や衝撃波」は跳ね返せても、「無いもの」はどうしようもないのである。
そういうわけで、現代科学で一方通行さんは倒すことができる。
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ドーラ(砲)の必要性

2015-08-20 17:44:36 | Weblog
ドーラ(砲)は、ドイツが開発した世界最大口径の砲である。

参考検索画像

しかし、アメリカなどの「戦勝国ドキュメンタリー」においてすら、

「なんでこんなバカでかい砲を開発したの?」

という問いへの答えに

「ナチスの科学力は世界一だったことを証明したいから」

と答えているあたり、いただけない。

実はマジノ要塞を攻略するための「必要性」があった武器なのにな。

じゃあ、そんな砲でなければ破壊できないような要塞をなんでフランスは持ったの?
そのフランスに対して、ドイツはこの砲以外でどんな行動をしたの?

といった疑問を次々と紐解いていくと、「正しい歴史認識」になるんじゃないだろうか。

なお、日本のテレビ・アニメの内容ほど当てにならないものもないので、そこのところも注意したい。

日本の架空戦記
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#q=%E6%97%AD%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%89%A6%E9%9A%8A%E3%80%80%E4%BA%88%E5%91%8A&hl=ja&tbm=vid

アメリカの架空戦記
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26749885

柔道の描写にすら違和感を覚えるのだ、日本の架空戦記なんて本当にトンデモ理論なんだろうな。
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大切なこと

2015-08-17 00:52:46 | Weblog
本日は2007年就活以来の(個人的に)大事なことを書き記したい。

どこから話せばよいだろうか。

やはり、すべての始まりである「ゴジラ vs ビオランテ」から順番に語っていくのが書きやすいだろう。

私が初めて観た映画が、「ゴジラ vs ビオランテ」であった。
これはゴジラシリーズの中でも内容的に高い評価がされている作品であり、それ以降の「児童大衆向け」とは異なった、極めて現代社会に対するメッセージ性の高い内容であった。

私は大きく影響され、現在に至るまで、私の道徳・知識・興味はすべてこの作品に根源を持っているといっても過言ではない。

私は、生物学が好きである。

生物学とは、生物を対象にした科学の総称であるが、その中でも、今はやはり、純然たる知識欲から提供されるものを好んでいる。

生命は私のロマンであり、人生のテーマである。

その意味でも、実はウルトラマンにしろゴジラにしろ仮面ライダーにしろ、プリキュアにしろ、「子供向け」の作品は、確かに「ちゃち」かもしれないが、なお私の例のように、人々に人生的レベルでの影響を与えるに足る、礎となりうる。したがって、製作者、スタッフ一人ひとりには、大きな意味があるし、是非そのことを忘れないで、「大いに(できれば落ち着いた意味で楽しんで)注力」してこれからも作品を作っていってほしい。

「ゴジラ vs ビオランテ」がすでに当時示した通り、また「生命倫理」が提唱するように、生物学は社会や哲学との親和性も非常に高い(生命倫理本来のテーマ(技術の使用と倫理)からはずれるが、それでもなお親和性は高い)。

今や私も、落ち着いて生物学が好きであるといえるようになった。

大学理学部生物学科に入学したとき、学科長が、

「みなさんは4年という期間の間に、様々なことを学んでもらいます。
 しかしそれでもおそらく、4年後に、ようやく「生物学の概観」が判るくらいだと思います
 そこからはみなさんさらに勉強してください」

という様な事を発言していたが、今振り返ってみると、確かにその通りであったと痛感する。
理学部生物学科は、おそらく就職などの将来を考えるに絶望的とすら言われる分野である。
しかしそれは相対的価値観の問題であって、純粋な探究心と生物に関する興味があれば、知識とアプローチはかけがえのない財産になる。
私の大学の生物学科自体、生物学に対して分子・遺伝から生態・数理まで幅広い分野を網羅していたこともあって、かけがえのない大学時代であったと思う。
大学生の本分は「モラトリアム」や「自我形成」である、ということもよく聞くが、もちろんそれらも重要であるし、さらに言えば、各々が選んだ学問の分野の勉強それ自体も大変に重要である。
そして私の場合、理学・生物学の勉強はそれ自体が非常に有意義であった。
大学において、同じ分野で勉強を共にした多くの友人たち、高校生あがりたての我々に対して熱心かつ惜しみなくに教鞭を執ってくれた大学をはじめとする先生方、思春期において私の懲りない生物学的知識のアプローチに対して様々な角度から議論してくれた中高時代の友人、そしてこの純粋な興味・探究心を否定せず多大な援助を行いながら伸ばしてくれた両親に感謝である。

さて、少し話は戻る。
中学高校ではよく、テスト・受験対策として生物学が捉えられ、「生物学は暗記科目」という言葉をよく耳にする。
これについては、高校時代から異を唱え、「理解する学問」であると言っていたが(それは理学的アプローチであった)、今でもその意見は変わらない。
およそすべての学問・芸術と同様に、生物学もまた重要な事項であり、これを「点数対策」にまで「割り切る」ことは大変にもったいないことである。

生物学は、科学的アプローチで我々自身を理解する学問であり、様々な学問に応用・発展させることが可能である。

「知識の量・テストの点数」は関係ない。そんなものは、後で回収することが可能だ。
好奇心と想像力さえあれば、(他の学問と同じように)生物学は、少なくとも私が経験した理学的アプローチにおいては、たくさんのことを教えてくれ、理解をもたらす。

私自身、実は大学受験時代、生物学は模試で全国1位はよくとっていた。東大の問題もスラスラ解けたし、おそらく「生物学オリンピック」も金賞が普通に射程圏内として納められる知識量・解読能力を持っていた。
しかし今振り返ってみると、そのような「額面の評価」はあまり重要ではない(もちろん「誇り」を持つこと、「目指すこと」も重要ではあるが)。
私自身が当時もっとも誇れることは、そのような知識量ではなくて、「菊の組織培養」を成し遂げた、という実験室においてはすぐにできる簡単な事なのである。
家庭にしかない道具を使って、学校の理科室の設備もクラブも使わずお小遣い以外のほとんどの援助もなく成し遂げることは、多大な努力と多くの失敗・経験・工夫が必要であったが、その好奇心・探究心さえあれば、実は十分なのだ。知識は、それらさえあれば自ずとついてくる。たとえこの「実験」が成功しなかったとしても、そのアプローチ・情熱が真に重要なのである。

さて、ここまで長々と「生物学は素晴らしい」と書いてきた。
もちろん、全部の学問を網羅することは、それこそ不可能であるし、個人により好き嫌いはあるであろう。
だからこそ、私は今回の日記で、「参考」程度でいいから生物学について興味を持ってもらえれば幸いである。
これまでは、生物学の門戸についての個人的解釈を語ってきた。これからは他の学問への応用例を示す。

今現在、国立科学博物館においては、「生命大躍進」という特別展示をやっているという。そこから派生して、NHKの番組で「人が人」足りえた理由を特集でやっていたらしい事を知った。
「“人”がヒトではなく“人”足りえる理由」は(「ヒト」は分類学的に人間を指す言葉であり、それらは種名でしかない)、この地球において、史上唯一「文明を持っている」事だという。
おそらく、「文明」に限らず、道徳でも、基礎的な哲学でも、さらには「社会」にしろ、この概念は漠然とした「前提」となっていると思う。
ここに、生物科学のアプローチを応用してみたいと思う。

よくこのブログで紹介している「偶然と必然」は、「分子生物学者」のジャック・モノーが著した本であり、その内容はすでに生物学では「古典的基礎」であるが(出版1970年)、その要約内容だけで、我々は社会・哲学・道徳に対して極めて挑戦的なアプローチを試みることができる。

科学においては“自然”も“ヒト”も「目的を持っていないと」(すなわち客観的に)考えられている。科学の分科である生物学は、我々人間の「特別」をいともたやすく奪い去ってしまうのだ。

生物学は一つの疑問を呈することが出来る。

「はたして我々が持っている理性や文化や文明は、「特別」なのだろうか」と。

結論から言うと、生物学的には我々は人間の持つ文明や理性や道徳と、その他の動物の持つ本能や習性や群れにおける社会性との間に、明確な違いを見て取ることはできない。

これは(我々の「崇高な意識・理性あふれる精神」を否定することは)、実は恐ろしいことである。
人間と動物・植物・微生物の間に明確な差は無いのである。
「なぜ人を殺してはいけないか」といった「そのあたりに詳しい分野」の回答もすべて無意味になってしまう。
文化も風習も信仰も道徳も、すべて「人間特別」ではない。
いやむしろ、ヒトも微生物も、いや生き物と物体との間の壁も、すべてなくなってしまう。
そもそも、自然は「方向・目的をもってはいない」。すべては客観的で無目的である。

これを認めれば、倫理も人間の存在意義も全て消えてしまう。
それは、直接的な「生きていても意味なんてない」というレベルの問題ではなく、もっと深淵から断ち切られることを意味する。

ジャック・モノーはこの恐怖を「(神との)盟約を断ち切る行為」と表現し、多くの哲学者や科学者が「盟約を維持しようと試みようとして、誤った理論に迷い込んでしまう」としている(有名どころでは「創造的進化論」)。だが、我々は、いやむしろ生物は、さらにはこの世は「特別」ではない。

これまでかなり生命倫理的に過激なことを書いてきた私でも、ふと立ち返るとこの「盟約の解除」に恐怖してしまう。
いやむしろ、そこまで落とし込まなければ、「科学者」としてのレベルではないのだろう。今やっと私は一人前の科学者になったばかりのレベルである。

生物学はしかし無情にも我々の意味を消してしまう。
むしろ調べれば調べるほど、すべては無情な、「物質的なやり取り・法則だけの反応」に落とし込まれてしまう。
神経生物学は我々の意識を、数理生物学は我々の行動と過程を、遺伝学は我々の愛や感情すらも、いやむしろもっと様々な方面から、淡々とした「事実」を提供してくれる。

全ては計算上の理論式と値の大小、化学と物理学の結果であり、「それ以上の意味はない」のである。


ここが考えどころである。生物学(科学)は、我々から特別な神秘性を奪い去った。
ここで、「生きても意味がないし我々の存在には意義がない」とするのは、トートロジーであるし、「でも我々は“社会”と呼ばれる概念を持っていて、そこで“生活”するうえで何らかの意義がである」とするのも“都合の良い”考えである。

ジャック・モノーの言葉を借りれば、「我々はこれを認め生物学の知識を応用した“王国”の再建」が必要であるとして、「王国と奈落」という章を割いている。

もちろん、ジャック・モノーがいかに思想哲学にも明るかったとはいえ、彼の「再建理論」は思想哲学の専門家からみれば稚拙なものであった。

しかし、そのアプローチ自体は、大変に有効な手法であり、これを応用すれば思想哲学におけるブレーク・スルーも可能であると私は考える。

「この先は自分自身の目で」という形になってしまったが、たとえば今回紹介した、“古典的生物学の手法を要約して紹介したにすぎない”、「偶然と必然」という本1冊だけで、思想哲学の根底を揺らがしかねない「提案」ができるのである。

リチャード・ドーキンスは遺伝学を中心としたアプローチから、より過激に主張を行っている(「利己的な遺伝子」「遺伝子の川」…我々は「遺伝子の乗り物」に過ぎないし、遺伝子も「物質の反応の結果」に過ぎない、我々の行動も思考も理性も進化もすべては、計算上の値の“現実”に過ぎない)。

遺伝・数学的な生物学のアプローチが、「進化論」などの「解釈の後付け」単にしているだけでなく、「予測を証明」したことは、遺伝学・数理を中心とした生物学の、哲学に対する大きな「成果」であり「破壊」である(アリの巣の“支配者”は「働きアリ」か「女王アリ」か、という疑問に対して、簡単な数学を用いたアプローチで結果を予測し、その後実際の調査を行って、「予測」が「正しかった」ことを証明した)。

私個人の所見であるが(私は分子細胞生物学専攻者であるが、どうも興味は遺伝(進化)や生態・数理生物学のほうにあるようである)、いくつかの面白いアプローチの素案を持っている。

たとえば、「闘争・残虐」と「平和・理性」といった両方になぜ人々は興奮し流され、時には歓喜すらしてしまうのか、といった、時には政治学的な領域も数理生物学を用いれば簡単にアプローチできると思う。この問題は単に「道徳」だけで解決・解釈・完結するのは明らかに無理である。数理生物学を用いたアプローチ結果を用いて「もう一つの方向での理解」をするだけで、物事は焦点を絞って議論していくことができるし、「積極的準備」すら可能であるかもしれない。

もう一つ似たような例を出せば、「多くの人がイメージを共有のできる道徳的理想を持ちうることができるのに、なぜ現実は性悪説的社会なのか」、といった法哲学的な領域にも数理生物学的にアプローチをすれば、大変簡単に科学的「答え」が出てきて、道徳・性善説・性悪説という学問領域へフィードバックし・応用することができると思う(既に「競争と復讐と協力」は大学講義において紹介される数理生物学的基礎テーマである)。

これらは「闘争と道徳(統計と生物哲学)」とでも言えばいいのだろうか、いつか簡単に研究して所見を書いてみたいテーマ足り得る。

先ほど紹介した「偶然と必然」だったり、または、生物学の中の数理生物学という一学問領域を少しかじっているだけの私でも、このような「アイデア」はたくさん出てくる。

もっと大きな領域である「生物学」、「科学」を、理解すらしなくても、その「アプローチの傾向」だけでも知っていれば、非常に多くの他学問への「応用」が出来るのである。

学問は一つ一つが非常に重要である。
それは一つの分野だけで完結させるのはもったいない。
他分野の学問を応用すれば、それはその分野においてはブレーク・スルーになり得る。
私は生物学が好きだが、これ一つを持っているだけでも、非常に有効な手法になりえる。
「試験のための学問」に落とし込んでしまうには、もったいない。

参考文献「偶然と必然」
下記urlは本の紹介と目次
http://www.msz.co.jp/book/detail/00428.html
我流に解釈して本日記に記述している。
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シガテラ(ムカデ人間)

2015-08-11 08:56:18 | Weblog
「ムカデ人間」を知ってからというもの、
シガテラの化学式がもうムカデ人間にしか見えない。

シガテラの化学式
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ciguatoxin.svg

さて、この前「戦争立法を廃案に追い込もう」という共産党のチラシがポストに入っていた。
しかし、「ストップ戦争!!」と言いながら、その実行手段が上記のような「言論闘争」という矛盾について。
どうせ共産党などの勢力が政権を取ったら「反対勢力」は「反社会的」とみなして規制するくせにな。
有史以来共産党はそうでなくちゃ。
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鳥に見る進化の解釈と、若者について

2015-08-09 17:25:12 | Weblog
鳥類はぶっちゃけて言うと、「下痢」を常にしている。

これは、高校などで進化を学ぶ上では、

「少しでも体重を軽くするための、適応」

と称される。
このように、生物は「合目的」的に、確かに「究極の形」に「進化」しているといえる。
しかしここで、「だから神が創造された」などというID論を出すのはお門違いである。

先ほどの例をさらに考察してみよう。
そもそもなぜ、「糞は我慢できる」のか?

それは、生物が陸上において移動などの活動をする際、
常に下痢の状態であれば、簡単に捕食者に追跡され捕食されてしまうからである。

すなわち、「便意の我慢」は、太古の昔に祖先が天敵から行方を眩ませるために適応的に進化した産物なのである。

このことを考えれば明白なように、鳥類はその意味においては(空を飛ぶから関係ない、という意見はもちろんあるにせよ)、「不適切な退化」をしてしまっているのである。

つまり、物事には「上下」があるのではなく、ジャック・モノーが提唱しているように(これも古典的生物学ではあるが)、「偶然による揺らぎが淘汰を経て必然へと至る」結果に過ぎないのであり、これに更なる解釈を付け加えようという試みは、アリストテレス以前の時代への懐古主義に他ならない。


次の議題である。

「若者を戦争に参加させない」というのは、左の人の常套句に成り果ててしまっているが、誰が若者に限った話をしているというのだね?

このことからわかるように、この言葉は「若者」という「弱者」を利用した政治的闘争であり、その意味で左は極めて利己的な老害集団といえよう。
以下の動画を見れば、このような「弱者をダシにしている者の勢力」がよくわかろう。
【特別講座】不正規戦争の理論

ちなみに、本当に戦争や大政翼賛会的であるのならば、若者は当然のこと、老人も女性も参加が前提である

国民の嵐をなめてはいけない。農具だけでも現代戦はできるのである。
新しい高額な兵器ができるたびに「軍国化が~」と言っている輩は、それこそ本当に「戦争を知らない」のであって、同じことを言うならば、「鍬や鎌も軍国化の象徴」として禁止すべきなのである。もちろん、トラクターは戦車の意味になるので禁止である(ベルサイユ条約当時、ドイツは農業用トラクターと偽って戦車の研究開発を行っていた)。

私も右だし、共産党は左であって、それはそれでお互い主張しあうことは結構なことである。
ただ、私も彼らも、「その拮抗を含めた中庸的状態」で「叫んでいる」のであって、実際それを推し進めたらどうなるのかを判っていない点が始末に負えない。

8月9日、長崎原爆の日に記す。

追記
進化の解釈と同様、左の人が「軍隊持ったら戦争をする」というのも一つの解釈であり、同時にそれは「軍隊持ってるから侵略されない」という解釈にも結び付くことは、明白である。
コメント

対話という名のボディーランゲージ

2015-08-06 18:12:42 | Weblog
本日は広島において原爆の日である。
黙祷。

さて、よく理想主義者などが

「周辺諸国とは対話を通じて平和を守れる!」

みたいな事を言っている割には、保守勢力に対して、

「てめぇらとは対話できない!」

と、簡単に「対話」をあきらめている限り、絶対かの奴らに政権を渡してはならぬ。

さて、ニコニコ静画(マンガ)において、「見ただけで死ぬ化け物」がとある漫画で登場していた。

目しかない、サウロンが見たらどうなるのだろうな。
やはり、パラド=ドゥアが崩壊して、サウロンは消滅するのだろうか。
サウロンだって一時期は「死人占い師」だったのにな。

ナズグルの首領、アングマールの魔王はどうであろうか。
いや、彼もまた「人間の男」に殺せないのであって、化け物ではどうしようもあるまい。

サルマンは、中の人がすでに死んでおるし、サウロンの「上司」、「モルゴス」も「心臓を貫かれて死ぬ予定」である。

案外指輪勢は弱いな。

パランティーアで交信してみれば、案外大丈夫かもれぬな。
コメント

スメアゴルのツイッター

2015-08-04 19:02:04 | Weblog
北方領土をロシア民間人に分配する法案をロシアが可決したが、日本の左翼は感涙しているのか、意図的に無視しているのかのどちらであろうかな。
憲法九条で日本国土が守れなかった、「稀有」な例に違いない。

さて、標記の件であるが、おそらくスメアゴルが言う言葉はツイッター的にただ一つ。

それは、

「おいしいお魚」

でもなければ

「いとしいしと」

でもない。そうただ一つ。

「フォロー・ミー」

である。
ネタを知らぬものは、「ロード・オブ・ザ・リング ~二つの塔~」の最後の台詞を参照するといい。

追記
北方領土の事をして、左翼よろしく無視を決め込むのもいけないが、
かといって右翼よろしく「全ての領土を日本人のもとへ」と「なりすぎる」のも、あまりよくはない。
それはすなわち「国家社会主義」である。
コメント

いじめと国防?

2015-08-02 17:24:12 | Weblog
よく、「いじめられる側にも問題がある」という発言をするバカがいるが、そういうやつは、発達障害についてどの程度理解しているのね。
というか、あれだ、その理論を拡大してみると、
国防において「攻められる側にも問題がある」
ということになる。

左翼大歓喜の瞬間であるな。

もちろん、第二次大戦で中立を宣言して見事に「道路」にされた
オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、
さらには自国の分割についての会議に参加すらさせてもらえなかった、
チェコスロバキア、
ひいては輸送ルートの邪魔が出来る(連合国側の見方)、防衛(枢軸国側の見方)に必要、というだけで蹂躙された
ノルウェー、スウェーデン、
なおかつ、「ゲルマン的に」または「ソビエト的に」自国のものであることは明らか、という主張で消された、
メーメル、エストニア、ラトビア、リトアニア、
挙句「サンクトペテルブルクに近いから、というかモスクワに近いから」という理由で戦争された、
フィンランド、
もはや、「アーリア人的にドイツのもの」として熱狂的に併合された
オーストリア、
というか、現在進行形で人種交代(計画的虐殺による)、
チベット、
等の国家にも原因があるということであるな。

この理論をヨーロッパで言うのは、フランスの都市ヴィシーでフランス人に、
「ナチス恭順者!!」と叫ぶぐらいに危険な行為なので、注意しておこう。

しかし、この理論を応用すれば、
韓国北朝鮮、中国共産党や中国国民党、に日本が戦争をしたのは、
「された側にも問題があるし」、日本がその後アメリカ合衆国を中心とした連合国に戦争を吹っかけたのも、
「吹っかけられた側にも責任がある」、ということになるのであろう。

右翼歓喜の瞬間であるな。
いや、本来は左翼が、あれ?

「それとこれとは違う」

という人間は、複雑な背景や事象を単なる「それとこれ」に当てはめる白黒思考の発達障害的馬鹿であるし、
どこがどう違うのかといえば「規模」程度、言えても「まやかし」しか言えないあたり、本当にアホである。
たぶんそういうやつらが共産主義に傾倒するのだろうな。

ほうら、北朝鮮から「きれいな」核が飛んでくるぞ。「世界人民」感涙の「原爆感動」であるな。

さて、ひとしきり殴り書きしたが、厳密に考えると、
ナチス等の「ファシズム=右翼」という考えは誤りであり、またこの疑問を提起することは戦後世界の絶対のタブーである。
系図的にも、指導内容的にも、ファシズムも左翼も実は同系列であり、
それが単に「国粋主義」と結びつくだけで右左を付けるというのは、ずいぶん虫のいい話である。

実際、ファシストの起源ムッソリーニは共産主義者であったし、ナチスの正式名称は「国家“社会主義”ドイツ労働者党」である。

ファシズムが真に左翼と対立するのであれば、それこそ「東方生存権」等と言わずに、「棲み分け」が出来たのであって、
それが出来なかったということは、一つの大地に似たような勢力が二つ存在した、からに他ならない。

まあ、こういうわけで、「いじめられる側にも責任がある」という発言は、全体主義の際たるものであり、
良く考えれば昨今「ストップ暴走政治!」と言いながら言葉的ゲバルトやってる左翼と実になじむものであり、
全体主義という思想自体が根底にすでに「平等」の名の下の暴力左翼的勢力である。

何が言いたいかというと、「いじめられる側にも~」と抜かす輩は、根本的に全体主義と左翼主義を併せ持っているので、徹底的に弾圧されるべきである。
何か奴らが叫んだら、「いじめられる側にも責任があると思う」と答えておけば良かろう。
彼らも彼ら自身の主張が叶って、きっと歓喜の涙で瞳が濡れているに違いない。

本日の結論
「戦争法案ストップ」→ストップして中国に攻撃される→「いじめられる側にも責任がある」
「戦争法案ストップ」→ストップしないで独立を保つ→「いじめられないため」の左翼の主張する根本的平和主義
「戦争法案ストップ」→ストップしないで国民総動員法が可決→「いじめられる側にも責任がる」
「戦争法案ストップ」→ストップしないで周辺国に侵略→「いじめられる側にも責任がある」
つまりどの道を通っても、「やられる側に責任がある」という理論なのであるな。どれが一番マシか判ろう。左翼以外なら。

自身の都合の悪いものをことごとく「左翼」扱いして批判する。
そうか、いいものだな。
これが、「レッテル張り」か。
文句があるのあら、「そちら側にも責任がある」。
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