ロード・マーシャル時事報告場

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大切なこと

2015-08-17 00:52:46 | Weblog
本日は2007年就活以来の(個人的に)大事なことを書き記したい。

どこから話せばよいだろうか。

やはり、すべての始まりである「ゴジラ vs ビオランテ」から順番に語っていくのが書きやすいだろう。

私が初めて観た映画が、「ゴジラ vs ビオランテ」であった。
これはゴジラシリーズの中でも内容的に高い評価がされている作品であり、それ以降の「児童大衆向け」とは異なった、極めて現代社会に対するメッセージ性の高い内容であった。

私は大きく影響され、現在に至るまで、私の道徳・知識・興味はすべてこの作品に根源を持っているといっても過言ではない。

私は、生物学が好きである。

生物学とは、生物を対象にした科学の総称であるが、その中でも、今はやはり、純然たる知識欲から提供されるものを好んでいる。

生命は私のロマンであり、人生のテーマである。

その意味でも、実はウルトラマンにしろゴジラにしろ仮面ライダーにしろ、プリキュアにしろ、「子供向け」の作品は、確かに「ちゃち」かもしれないが、なお私の例のように、人々に人生的レベルでの影響を与えるに足る、礎となりうる。したがって、製作者、スタッフ一人ひとりには、大きな意味があるし、是非そのことを忘れないで、「大いに(できれば落ち着いた意味で楽しんで)注力」してこれからも作品を作っていってほしい。

「ゴジラ vs ビオランテ」がすでに当時示した通り、また「生命倫理」が提唱するように、生物学は社会や哲学との親和性も非常に高い(生命倫理本来のテーマ(技術の使用と倫理)からはずれるが、それでもなお親和性は高い)。

今や私も、落ち着いて生物学が好きであるといえるようになった。

大学理学部生物学科に入学したとき、学科長が、

「みなさんは4年という期間の間に、様々なことを学んでもらいます。
 しかしそれでもおそらく、4年後に、ようやく「生物学の概観」が判るくらいだと思います
 そこからはみなさんさらに勉強してください」

という様な事を発言していたが、今振り返ってみると、確かにその通りであったと痛感する。
理学部生物学科は、おそらく就職などの将来を考えるに絶望的とすら言われる分野である。
しかしそれは相対的価値観の問題であって、純粋な探究心と生物に関する興味があれば、知識とアプローチはかけがえのない財産になる。
私の大学の生物学科自体、生物学に対して分子・遺伝から生態・数理まで幅広い分野を網羅していたこともあって、かけがえのない大学時代であったと思う。
大学生の本分は「モラトリアム」や「自我形成」である、ということもよく聞くが、もちろんそれらも重要であるし、さらに言えば、各々が選んだ学問の分野の勉強それ自体も大変に重要である。
そして私の場合、理学・生物学の勉強はそれ自体が非常に有意義であった。
大学において、同じ分野で勉強を共にした多くの友人たち、高校生あがりたての我々に対して熱心かつ惜しみなくに教鞭を執ってくれた大学をはじめとする先生方、思春期において私の懲りない生物学的知識のアプローチに対して様々な角度から議論してくれた中高時代の友人、そしてこの純粋な興味・探究心を否定せず多大な援助を行いながら伸ばしてくれた両親に感謝である。

さて、少し話は戻る。
中学高校ではよく、テスト・受験対策として生物学が捉えられ、「生物学は暗記科目」という言葉をよく耳にする。
これについては、高校時代から異を唱え、「理解する学問」であると言っていたが(それは理学的アプローチであった)、今でもその意見は変わらない。
およそすべての学問・芸術と同様に、生物学もまた重要な事項であり、これを「点数対策」にまで「割り切る」ことは大変にもったいないことである。

生物学は、科学的アプローチで我々自身を理解する学問であり、様々な学問に応用・発展させることが可能である。

「知識の量・テストの点数」は関係ない。そんなものは、後で回収することが可能だ。
好奇心と想像力さえあれば、(他の学問と同じように)生物学は、少なくとも私が経験した理学的アプローチにおいては、たくさんのことを教えてくれ、理解をもたらす。

私自身、実は大学受験時代、生物学は模試で全国1位はよくとっていた。東大の問題もスラスラ解けたし、おそらく「生物学オリンピック」も金賞が普通に射程圏内として納められる知識量・解読能力を持っていた。
しかし今振り返ってみると、そのような「額面の評価」はあまり重要ではない(もちろん「誇り」を持つこと、「目指すこと」も重要ではあるが)。
私自身が当時もっとも誇れることは、そのような知識量ではなくて、「菊の組織培養」を成し遂げた、という実験室においてはすぐにできる簡単な事なのである。
家庭にしかない道具を使って、学校の理科室の設備もクラブも使わずお小遣い以外のほとんどの援助もなく成し遂げることは、多大な努力と多くの失敗・経験・工夫が必要であったが、その好奇心・探究心さえあれば、実は十分なのだ。知識は、それらさえあれば自ずとついてくる。たとえこの「実験」が成功しなかったとしても、そのアプローチ・情熱が真に重要なのである。

さて、ここまで長々と「生物学は素晴らしい」と書いてきた。
もちろん、全部の学問を網羅することは、それこそ不可能であるし、個人により好き嫌いはあるであろう。
だからこそ、私は今回の日記で、「参考」程度でいいから生物学について興味を持ってもらえれば幸いである。
これまでは、生物学の門戸についての個人的解釈を語ってきた。これからは他の学問への応用例を示す。

今現在、国立科学博物館においては、「生命大躍進」という特別展示をやっているという。そこから派生して、NHKの番組で「人が人」足りえた理由を特集でやっていたらしい事を知った。
「“人”がヒトではなく“人”足りえる理由」は(「ヒト」は分類学的に人間を指す言葉であり、それらは種名でしかない)、この地球において、史上唯一「文明を持っている」事だという。
おそらく、「文明」に限らず、道徳でも、基礎的な哲学でも、さらには「社会」にしろ、この概念は漠然とした「前提」となっていると思う。
ここに、生物科学のアプローチを応用してみたいと思う。

よくこのブログで紹介している「偶然と必然」は、「分子生物学者」のジャック・モノーが著した本であり、その内容はすでに生物学では「古典的基礎」であるが(出版1970年)、その要約内容だけで、我々は社会・哲学・道徳に対して極めて挑戦的なアプローチを試みることができる。

科学においては“自然”も“ヒト”も「目的を持っていないと」(すなわち客観的に)考えられている。科学の分科である生物学は、我々人間の「特別」をいともたやすく奪い去ってしまうのだ。

生物学は一つの疑問を呈することが出来る。

「はたして我々が持っている理性や文化や文明は、「特別」なのだろうか」と。

結論から言うと、生物学的には我々は人間の持つ文明や理性や道徳と、その他の動物の持つ本能や習性や群れにおける社会性との間に、明確な違いを見て取ることはできない。

これは(我々の「崇高な意識・理性あふれる精神」を否定することは)、実は恐ろしいことである。
人間と動物・植物・微生物の間に明確な差は無いのである。
「なぜ人を殺してはいけないか」といった「そのあたりに詳しい分野」の回答もすべて無意味になってしまう。
文化も風習も信仰も道徳も、すべて「人間特別」ではない。
いやむしろ、ヒトも微生物も、いや生き物と物体との間の壁も、すべてなくなってしまう。
そもそも、自然は「方向・目的をもってはいない」。すべては客観的で無目的である。

これを認めれば、倫理も人間の存在意義も全て消えてしまう。
それは、直接的な「生きていても意味なんてない」というレベルの問題ではなく、もっと深淵から断ち切られることを意味する。

ジャック・モノーはこの恐怖を「(神との)盟約を断ち切る行為」と表現し、多くの哲学者や科学者が「盟約を維持しようと試みようとして、誤った理論に迷い込んでしまう」としている(有名どころでは「創造的進化論」)。だが、我々は、いやむしろ生物は、さらにはこの世は「特別」ではない。

これまでかなり生命倫理的に過激なことを書いてきた私でも、ふと立ち返るとこの「盟約の解除」に恐怖してしまう。
いやむしろ、そこまで落とし込まなければ、「科学者」としてのレベルではないのだろう。今やっと私は一人前の科学者になったばかりのレベルである。

生物学はしかし無情にも我々の意味を消してしまう。
むしろ調べれば調べるほど、すべては無情な、「物質的なやり取り・法則だけの反応」に落とし込まれてしまう。
神経生物学は我々の意識を、数理生物学は我々の行動と過程を、遺伝学は我々の愛や感情すらも、いやむしろもっと様々な方面から、淡々とした「事実」を提供してくれる。

全ては計算上の理論式と値の大小、化学と物理学の結果であり、「それ以上の意味はない」のである。


ここが考えどころである。生物学(科学)は、我々から特別な神秘性を奪い去った。
ここで、「生きても意味がないし我々の存在には意義がない」とするのは、トートロジーであるし、「でも我々は“社会”と呼ばれる概念を持っていて、そこで“生活”するうえで何らかの意義がである」とするのも“都合の良い”考えである。

ジャック・モノーの言葉を借りれば、「我々はこれを認め生物学の知識を応用した“王国”の再建」が必要であるとして、「王国と奈落」という章を割いている。

もちろん、ジャック・モノーがいかに思想哲学にも明るかったとはいえ、彼の「再建理論」は思想哲学の専門家からみれば稚拙なものであった。

しかし、そのアプローチ自体は、大変に有効な手法であり、これを応用すれば思想哲学におけるブレーク・スルーも可能であると私は考える。

「この先は自分自身の目で」という形になってしまったが、たとえば今回紹介した、“古典的生物学の手法を要約して紹介したにすぎない”、「偶然と必然」という本1冊だけで、思想哲学の根底を揺らがしかねない「提案」ができるのである。

リチャード・ドーキンスは遺伝学を中心としたアプローチから、より過激に主張を行っている(「利己的な遺伝子」「遺伝子の川」…我々は「遺伝子の乗り物」に過ぎないし、遺伝子も「物質の反応の結果」に過ぎない、我々の行動も思考も理性も進化もすべては、計算上の値の“現実”に過ぎない)。

遺伝・数学的な生物学のアプローチが、「進化論」などの「解釈の後付け」単にしているだけでなく、「予測を証明」したことは、遺伝学・数理を中心とした生物学の、哲学に対する大きな「成果」であり「破壊」である(アリの巣の“支配者”は「働きアリ」か「女王アリ」か、という疑問に対して、簡単な数学を用いたアプローチで結果を予測し、その後実際の調査を行って、「予測」が「正しかった」ことを証明した)。

私個人の所見であるが(私は分子細胞生物学専攻者であるが、どうも興味は遺伝(進化)や生態・数理生物学のほうにあるようである)、いくつかの面白いアプローチの素案を持っている。

たとえば、「闘争・残虐」と「平和・理性」といった両方になぜ人々は興奮し流され、時には歓喜すらしてしまうのか、といった、時には政治学的な領域も数理生物学を用いれば簡単にアプローチできると思う。この問題は単に「道徳」だけで解決・解釈・完結するのは明らかに無理である。数理生物学を用いたアプローチ結果を用いて「もう一つの方向での理解」をするだけで、物事は焦点を絞って議論していくことができるし、「積極的準備」すら可能であるかもしれない。

もう一つ似たような例を出せば、「多くの人がイメージを共有のできる道徳的理想を持ちうることができるのに、なぜ現実は性悪説的社会なのか」、といった法哲学的な領域にも数理生物学的にアプローチをすれば、大変簡単に科学的「答え」が出てきて、道徳・性善説・性悪説という学問領域へフィードバックし・応用することができると思う(既に「競争と復讐と協力」は大学講義において紹介される数理生物学的基礎テーマである)。

これらは「闘争と道徳(統計と生物哲学)」とでも言えばいいのだろうか、いつか簡単に研究して所見を書いてみたいテーマ足り得る。

先ほど紹介した「偶然と必然」だったり、または、生物学の中の数理生物学という一学問領域を少しかじっているだけの私でも、このような「アイデア」はたくさん出てくる。

もっと大きな領域である「生物学」、「科学」を、理解すらしなくても、その「アプローチの傾向」だけでも知っていれば、非常に多くの他学問への「応用」が出来るのである。

学問は一つ一つが非常に重要である。
それは一つの分野だけで完結させるのはもったいない。
他分野の学問を応用すれば、それはその分野においてはブレーク・スルーになり得る。
私は生物学が好きだが、これ一つを持っているだけでも、非常に有効な手法になりえる。
「試験のための学問」に落とし込んでしまうには、もったいない。

参考文献「偶然と必然」
下記urlは本の紹介と目次
http://www.msz.co.jp/book/detail/00428.html
我流に解釈して本日記に記述している。
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