独断偏見妄言録 China's Threat

中国は人類の命運を左右する21世紀最大の不安定要因

ヒットラー暗殺計画

2009年12月22日 08時00分17秒 | 日本

ヒトラー暗殺計画は、ヒトラーの政権奪取後、単独犯と組織的なものを合わせて少なくとも43回企てられた。


ナチス政権下のドイツのような警察国家の体制下では、民衆レベルの組織的反政府運動は極めて困難であった。秘密警察ゲシュタポが国民を監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧した。その状況下で武器も持たない民衆が、強力な兵器で武装した親衛隊に抵抗する事など不可能であった。それでも政権成立当初から第二次世界大戦勃発の1939年頃までは、単独犯や小規模なレジスタンスなどによるヒトラー暗殺は試みられていた。そういった規模の方が、暗殺計画の漏洩、ナチス当局への密告の危険性が低かったためでもあろう。

しかし、大戦勃発後は暗殺防止のためにパレードはすべて中止、ヒトラーが民衆の前に姿を表す回数が減り、さらに戦局が悪化し総統大本営に引き篭もる事が多くなると、民衆による暗殺はほぼ不可能となり、実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに直接近づける少数の者に限られていった。また、連合国軍による暗殺計画も建てられたが全て失敗に終わった。


主要な暗殺未遂事件

* 1938年11月9日、スイスの神学生モーリス・バヴォー(Maurice Bavaud)は、ミュンヘン市内の軍司令官会館の前でナチスのミュンヘン一揆記念パレードが行われた際、ヒトラーを拳銃で射殺しようと試みたが、パレード見物の大勢の群集に阻まれて狙いが定められず失敗。1週間後に国境に向かう途中の列車内で無賃乗車とミュンヘンの地図とピストル所持のところを逮捕された。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所(de)で死刑を宣告され、1941年5月、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所でギロチンによって処刑された。

事件後のビュルガーブロイケラー

* 1939年11月8日、当時36歳の家具職人ゲオルク・エルザー(Georg Elser)によるビアホール「ビュルガーブロイケラー(Bürgerbräukeller)」爆破事件。

ヒトラーは1923年11月8日のミュンヘン一揆を回顧するため、毎年その日にビアホールで約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有ったゲオルグ・エルザーは、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした。11月8日午後8時、ヒトラーは予定通りにビアホール「ビュルガーブロイケラー」に到着。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時12分頃にはビアホールから出た。数分後の9時20分、爆弾が爆発し8人が死亡、63人が負傷した。負傷者の中にはエーファ・ブラウンの父親もいた。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、運良く爆発に巻き込まれなかった。エルザーは11月8日夜、スイスへの国境侵犯の疑いで逮捕されたが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される。共犯者や背後関係が疑われ、またナチによる自作自演説も流れたが、結局はエルザーの単独犯行とされている。彼はザクセンハウゼン次いでダッハウの強制収容所に収監され、大戦終結直前の1945年4月9日に処刑された。

この事件以後、爆発物の管理が厳重になり、また危うく難を逃れたヒトラーにドイツの一般民衆からの同情が集まり、その結果大掛かりな抵抗運動がやりにくくなった事は否定できない。

ズデーテン危機における陸軍のクーデター計画

1938年5月、ドイツのチェコスロバキア攻撃計画が漏洩し、ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。情勢は緊迫し、チェコ、フランス、イギリスは軍隊動員を発令、ドイツではルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長が、ヒトラーの政策に反対して辞任。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。 このような情勢下、反ヒトラーのクーデター・暗殺が計画された。ベック前陸軍参謀総長、その後任のフランツ・ハルダー陸軍参謀総長、ヴィルヘルム・カナリス国防軍情報部長、同情報次長ハンス・オスター大佐、ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン大将、装甲部隊司令官エーリッヒ・ヘプナー中将、ベルリン警視総監ハインリヒ・ヘルドルフ、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト、上級裁判所判事のハンス・ドーナニー、外務省書記局長エーリッヒ・コルトー、元ライプチヒ市長カール・ゲルデラー、牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。彼らのグループは、後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。彼らは当初、ベルリンの総統官邸に乗り込んでヒトラーの退陣を迫り、それを拒否すればヒトラーの逮捕、そして裁判又は精神鑑定にかけるような計画も立てていたが、結局は暗殺という強硬手段に訴える事になった。しかし、ヒトラーはベック参謀総長辞任の公表を遅らせ、またイタリアの独裁者ムッソリーニの調停もあり、ミュンヘン会談でイギリス・フランス両国が譲歩。ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めて戦争が回避され、クーデターは実行には至らなかった。こうしてヒトラーは政権獲得後、最も危険な暗殺の危機を免れた。

「ヴァルキューレ」計画

大戦勃発後、ドイツ軍は占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る、とカナリス国防軍情報部長がヒトラーに進言。ヒトラーはそれに同意し、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案を作るよう命令した。フロム司令官は部下の国内予備軍司令部参謀長フリードリヒ・オルブリヒト大将にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名ヴァルキューレを立案した。

国内で叛乱が起こった際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団を予備軍の指揮下に置き、戒厳令を布告して政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。発動権限は予備軍参謀長にあり、その参謀長オルブリヒト大将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後に「ヴァルキューレ」を発動し、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。

「閃光」作戦

1943年2月、スターリングラード攻防戦での敗北後、ドイツ軍はソ連軍の攻勢に備えるための作戦を(第三次ハリコフ攻防戦)立案した。この作戦に関連してヒトラーは2月17日にザポロージェに置かれた南方軍集団司令部を飛行機で訪問した。これを好機と見たカナリス国防軍情報部長はスモレンスクに置かれた中央軍集団司令部にもヒトラーが訪れるよう工作した。

中央軍集団司令官は、以前から「黒いオーケストラ」グループに参加を求められていたギュンター・フォン・クルーゲ元帥。その参謀長には同グループのヘニング・フォン・トレスコウ少将がいた。「閃光」とは、トレスコウがヒトラー爆殺のため立てた暗殺計画の隠語名である。彼は東部戦線でのナチスによるユダヤ人大虐殺に憤慨し暗殺計画をたてた。

トレスコウは副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉に爆弾を用意させ、司令部内でヒトラーを爆殺しようとしたが、クルーゲを巻き添えにすることを恐れて断念。ヒトラーを搭乗機ごと爆殺する計画に切り替え、この計画へのクルーゲの了解も取り付けた。また、国内予備軍参謀長オルブリヒト大将と連絡を取り、ヴァルキューレ作戦の発動を依頼した。

3月13日、ヒトラーは飛行機で中央軍集団司令部に到着した。ヒトラーには総統副官のハインツ・ブラント大佐が付き添っており、ヒトラーとともに総統大本営に戻る予定であった。トレスコウはブラントに、賭け事に負けたという名目で「コアントロー」酒の包みを参謀本部編成課長のヘルムート・シュティーフ少将に届けるよう依頼した。しかしこの包みは酒瓶にカモフラージュした爆弾であった。

同日午後1時過ぎ、ヒトラー搭乗機Fw200コンドルは総統大本営に向けて飛び立った。爆発を確信したトレスコウは予備軍司令部のオルブリヒト大将に連絡し、彼はヴァルキューレ発動準備を下令した。しかし、ヒトラー機が途中、乱気流を避けるため急上昇した際、時限装置として使用していた硫酸がロシア上空の寒気で凍結したため爆弾は爆発せず、ヒトラーは無事に総統大本営に到着した。計画の失敗を知り、オルブリヒトは「ヴァルキューレ発動は演習だった」として中止命令を出した。一方、爆弾の方はトレスコウがブラントに連絡し「間違えて別の酒を包んだので、その包みはシュティーフ少将には渡さないように」と依頼。翌日シュラーブレンドルフ中尉によって回収されたため計画は発覚しなかった。その際、シュティーフ少将には改めて本物のコアントロー酒を贈ったという。 

トレスコウらは、諦めずに、ヒトラーのベルリン兵器庫博物館視察時に狙いをつけ、当日の案内人で同志のゲルスドルフ大佐に計画を託した。その結果、ゲルスドルフは自爆暗殺を決意したが、ヒトラーとの接遇時間が短すぎ失敗した。

(以下省略)


以上はWikipediaからの引用でした。

なんでこんなもの引用するんかって?
特に意味はありません。
ただ何となく。

でも、これを読んで考え込んでしまいました。
暗殺という名のテロは「絶対的な悪」なのか、と。
もしも暗殺が成功していれば、第二次世界大戦は起きなかったし、数千万の人命が失われずに済んだのではないか、と。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今の日本では (deliciousicecoffee)
2009-12-22 12:40:51
今の日本で初犯なら、10年くらいで済みそうですね。
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ドイツ人のすごさ (stopchina)
2009-12-22 20:13:26
To deliciousicecoffeeさん

多くのドイツ国民が自分の命を投げ捨ててでもヒットラーを阻止しようとしたわけですが、そこにドイツ人のすごさを感じます。
 
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