12月18日の毎日は特集記事「許すな言論テロ」で、自由人権協会主催のシンポジウム「言論・暴力・ナショナリズム」などでの主な出席者6人の発言を大きく紹介している。ここで、「暴力」と「ナショナリズム」を併記したことでシンポジウムの狙いが読み取れる。つまり、「ナショナリズム=悪」と決めつけることにより、保守化(あるいは右傾化)する世論を左に引き戻そうということだ。
ところで、ナショナリズムは本当に「悪」なのだろうか。
同シンポジウム出席者の一人、作家・半藤一利氏は「ナショナリズム=軍国主義」ととらえているらしく、戦前の軍国主義と最近起きた加藤紘一議員の実家への放火事件を重ね合わせている。加藤紘一議員も出席しており、その発言は「近隣諸国と闘うナショナリズムは、国をまとめる能力があるため、古今東西の政治家が使ってきた禁じ手だ」となる。
毎日の特集は、いわゆる街宣右翼と最近の若者の保守化傾向を明確に区別せず、ひとまとめにして批判することで右傾化・保守化は「悪」であることを印象づけようとしているかに見える。
広辞苑(第3版)によるとナショナリズムの定義は、「国家主義・国民主義・民族主義・国粋主義などと訳され、種々のニュアンスがあるが、大体において国家・民族の統一・独立・発展を押し進めることを強調する主義または運動。」となっている。この定義を日本に当てはめるなら、「統一」と「独立」は除外することができるから、「国家・民族の発展を押し進めることを強調する主義または運動。」と簡略化できる。
それで、「国家・民族の発展を押し進めること」がなぜ「悪」なのだろうか。戦前のナショナリズムは国家・民族の発展を押し進めた結果、軍国主義が現れ、戦争へと結びついた。「攻撃的ナショナリズム」とでも呼ぶべき思想だった。
戦後、その反省から極端な反ナショナリズム感情が国民の間に定着し、共産党や旧社会党および「進歩的文化人」などの左翼はその感情を自らの存在基盤として利用してきた。戦前のナショナリズムの象徴だった「愛国心」、「国歌」、「国旗」を今も敵視する人々がいるが、彼らはそのような戦後の一時代の残滓を引きずっているのだ。
今もそこから抜けきれない老政治家・老評論家などは反射的に「ナショナリズム=軍国主義=悪」ととらえるわけだ。加藤紘一議員の「近隣諸国と闘うナショナリズム」という言葉もそのような文脈で理解できる。街宣右翼も戦前の「攻撃的ナショナリズム」から抜け出せないでいるのかもしれない。
最近、中国・韓国・北朝鮮は若者の間で「特定アジア」と呼ばれ、他のアジア諸国と区別されるようになった。これら3カ国における過激な反日運動や軍国主義に刺激され、新しく生まれたネット空間では反特定アジア感情がわき起こった。ここ数年の新しい現象である。ネット右翼と呼ばれる20・30代の若者の間では、団塊の世代とは正反対の右傾化・保守化が顕著であり、ナショナリズムの高まりが見られる。
老政治家・老評論家そして老ジャーナリストはこのあたらしい動きを理解できないまま、戦前のナショナリズムと同一視してしまうわけだ。
ところが、ネット右翼のナショナリズムには攻撃的色彩は全くないと断言できる。それは「防衛的ナショナリズム」とでも呼ぶべき内向きの思想であり、特定アジアとはできるだけ離れていたいという感情が中核をなしている。そこから中国に媚びるかに見える加藤紘一、山崎拓、河野洋平各議員などへの反発、在日朝鮮人への反感などが起きてくる。
「防衛的ナショナリズム」が軍国主義に結びつく可能性は全く存在しないにもかかわらず、戦前の悪夢覚めやらぬ老人達はそのことが理解できないのだ。今の若者は十分に洗練されており、戦争になれば真っ先に死ぬのは自分達だということを承知している。だから、軍国主義の復活を心配する必要はない。
戦後長い間、国家に忠誠を誓うこと、あるいは国益を論じることは、ナショナリズムであり「悪」であるとされてきた。一体そんな国が他にあるだろうか。最近の若者はようやく人間として正常な感覚を取り戻してきたのであって、それを街宣右翼と一緒くたにして「悪」と決めつけるマスメディアこそ異常である。
我が国の民主主義のお手本とされてきた米国ではどうだろう。
子供達は学校で毎朝次の言葉を斉唱させられる。
I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
これと同じことを日本の学校で実行したら、左翼の人々は何と言うだろうか。
ところで、ナショナリズムは本当に「悪」なのだろうか。
同シンポジウム出席者の一人、作家・半藤一利氏は「ナショナリズム=軍国主義」ととらえているらしく、戦前の軍国主義と最近起きた加藤紘一議員の実家への放火事件を重ね合わせている。加藤紘一議員も出席しており、その発言は「近隣諸国と闘うナショナリズムは、国をまとめる能力があるため、古今東西の政治家が使ってきた禁じ手だ」となる。
毎日の特集は、いわゆる街宣右翼と最近の若者の保守化傾向を明確に区別せず、ひとまとめにして批判することで右傾化・保守化は「悪」であることを印象づけようとしているかに見える。
広辞苑(第3版)によるとナショナリズムの定義は、「国家主義・国民主義・民族主義・国粋主義などと訳され、種々のニュアンスがあるが、大体において国家・民族の統一・独立・発展を押し進めることを強調する主義または運動。」となっている。この定義を日本に当てはめるなら、「統一」と「独立」は除外することができるから、「国家・民族の発展を押し進めることを強調する主義または運動。」と簡略化できる。
それで、「国家・民族の発展を押し進めること」がなぜ「悪」なのだろうか。戦前のナショナリズムは国家・民族の発展を押し進めた結果、軍国主義が現れ、戦争へと結びついた。「攻撃的ナショナリズム」とでも呼ぶべき思想だった。
戦後、その反省から極端な反ナショナリズム感情が国民の間に定着し、共産党や旧社会党および「進歩的文化人」などの左翼はその感情を自らの存在基盤として利用してきた。戦前のナショナリズムの象徴だった「愛国心」、「国歌」、「国旗」を今も敵視する人々がいるが、彼らはそのような戦後の一時代の残滓を引きずっているのだ。
今もそこから抜けきれない老政治家・老評論家などは反射的に「ナショナリズム=軍国主義=悪」ととらえるわけだ。加藤紘一議員の「近隣諸国と闘うナショナリズム」という言葉もそのような文脈で理解できる。街宣右翼も戦前の「攻撃的ナショナリズム」から抜け出せないでいるのかもしれない。
最近、中国・韓国・北朝鮮は若者の間で「特定アジア」と呼ばれ、他のアジア諸国と区別されるようになった。これら3カ国における過激な反日運動や軍国主義に刺激され、新しく生まれたネット空間では反特定アジア感情がわき起こった。ここ数年の新しい現象である。ネット右翼と呼ばれる20・30代の若者の間では、団塊の世代とは正反対の右傾化・保守化が顕著であり、ナショナリズムの高まりが見られる。
老政治家・老評論家そして老ジャーナリストはこのあたらしい動きを理解できないまま、戦前のナショナリズムと同一視してしまうわけだ。
ところが、ネット右翼のナショナリズムには攻撃的色彩は全くないと断言できる。それは「防衛的ナショナリズム」とでも呼ぶべき内向きの思想であり、特定アジアとはできるだけ離れていたいという感情が中核をなしている。そこから中国に媚びるかに見える加藤紘一、山崎拓、河野洋平各議員などへの反発、在日朝鮮人への反感などが起きてくる。
「防衛的ナショナリズム」が軍国主義に結びつく可能性は全く存在しないにもかかわらず、戦前の悪夢覚めやらぬ老人達はそのことが理解できないのだ。今の若者は十分に洗練されており、戦争になれば真っ先に死ぬのは自分達だということを承知している。だから、軍国主義の復活を心配する必要はない。
戦後長い間、国家に忠誠を誓うこと、あるいは国益を論じることは、ナショナリズムであり「悪」であるとされてきた。一体そんな国が他にあるだろうか。最近の若者はようやく人間として正常な感覚を取り戻してきたのであって、それを街宣右翼と一緒くたにして「悪」と決めつけるマスメディアこそ異常である。
我が国の民主主義のお手本とされてきた米国ではどうだろう。
子供達は学校で毎朝次の言葉を斉唱させられる。
I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
これと同じことを日本の学校で実行したら、左翼の人々は何と言うだろうか。
政権への批判があるとしても、それがpatriotismを損なうわけではありません。
patriotismが欠落したnationalismはあり得ませんので、両者の区別はそれほど意味があるようには思えません。