雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

爪と目

2013-09-02 19:06:28 | 文学
芥川賞作家・藤野可織氏が観ていた噂のホラー映画は『ゾンビ革命』(クランクイン!) - goo ニュース

今日は休みだったが、娘の友達とそのお母さんが来るというので、午後から図書館に行った。

最近ある文芸賞に応募しようと小説を書き始めていたので、その構成や資料集めを思いっきり楽しもうと思ったのだ。

が、「文芸春秋」の「芥川賞受賞作全文掲載」につられ、第149回芥川賞受賞作『爪と目』(藤野可織)を読んだ挙句、以下の雑文を書くのに費やしてしまった。

物語は、単身赴任する妻子持ちの男性Aがある女性Bと不倫関係を続けるうち、妻がある寒い日にベランダで変死し、Aが家事と育児をしてくれる女性を必要としてBとの結婚を前提とした同棲をするところか始まる。

AもBも人生自体感性を頼りに選択をつづけてやりすごすこととしか考えていないから、本来なら考えなければならないはずのAの妻が変死した理由を追及しない。

しかしAとBにとって感性的に避けられない問題ではあり、それがAのB相手の不能、Bの、Aの妻のブログを参考にした衝動買いという形で顕れる。

そしてAの娘Cも母の死を気にしているわけだが、その疑問に言葉を充てる以前に考えることさえしない(3歳だから当然かもしれないが)。Bに安物のスナックをあてがわれ、CもAやBのようになおざりかつおざなりな生活を送る。ただし母のことを思い出したくないためにベランダとそこに続く居間は避け、爪を噛むようになる。

つまりAの妻の死が気になるものの正視しようとしない3人それぞれに説明のつかない行動壁が生じるのである。

しかし彼らはやりすごすだけだからその行動壁を止めあうことも注意することもない。いってみればその行動がとめられたときに本物の血が出るわけだが、そのまま放っておく。

しかし事件が起きる。

AがBと性交できなくなって、AもBも愛人をつくるが、Bが愛人Dとの関係を面倒くさくなって終わりにしようと連絡を絶つと、Bの愛人が自宅に押し掛ける。

しかたなくBはCを圧し、居間を通ってベランダに押しやる。Bが、Cの押してはいけないスイッチを押したわけだ。

Cはベランダにいる間ずっとガラス戸を叩き続ける。この抗議は無論明確な意図で行われているわけではなく、本能的に、感性的に、自動的に行われたものだ。

しかし地雷を踏んでしまったことをもちろんBは気づかない。

Bは愛人Dと別れるためにそのアパートを訪れる。が、愛人もきっと感性的に怒りが込みあがったのだろう。Bのコンタクトを舌で奪い、眼球を傷つける。BはCのお迎えに行かなければならないのにコンタクトがなくてよくみえない。

地に足がつかない状態で、更に予想外のことに幼稚園で出くわす。Cが、噛んでのこぎりのようになった爪でほかの園児たちを傷つけたのだ。

いつもは大人しいCがそんなことをしたと知らされても、Bは自分の目のこともあって、Cの触れてはいけないところに触れたことに気づかず、いつものようになおざりに対処しようとする。

爪を噛めないように、マニキュアを塗った。これでかじらないだろうと。

それで安心しそれしかすることのないBはソファーでうとうとするが(確かに目がみえなくなればそうするしかないだろう)、そこへCがBの瞼をこじ開け、自分につけられたマニキュア部分をはがしてBの眼球に張り付けて(ひどい傷がついたことだろう)FIN。

この小説でまず目を引いたのは語りがCによる1人称であること。しかも上記あらすじからも明らかなように最終的にBとCとの(不意な)衝突に集束していくわけだからBを「あなた」と呼んでいる。

BとAとの関係や経歴がCによって語られるのはなかなか斬新だったし、最後にマニキュアの爪を貼り付け、もしかしたら失明させたのではというラストシーンで、「あなた(B) が過ごしてきた時間とこれからあなた(B)が過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなた(B) の体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた」というコメントも嘆息させた。主題は、正視とか直視、とかいうことなんだろう。中盤はリアリティのない文もなく退屈なところもあったが、後半からクライマックスまではCの語りが生き、ドキドキしながら読めた。

以下は選考委員の評。昨今ではこういうときにいろいろな見解があるなどというのだが、僕は、主題があって手法の適否、ひいては小説の良し悪しが断じられるべきだと依然考えている。

宮本輝
受賞した藤野可織さんの「爪と目」は、最近珍しい二人称で書かれていて、「あなた」と「わたし」をあえて混同させる方法を織り込んでいる。その方法論に限っては成功しているし、幼い女の子の「わたし」がじつはおとなになってからの視点によることも深読みしなくてもわかる。
だが、私は題にもなっている「爪と目」を使っての最後の場面が、単なるホラー趣味以外の何物でもない気がして首をかしげざるを得なかった。爪と目が、この小説の奥に置こうとしたものの暗喩になりきっていなくて、強くは推せなかった。
女の子の新しい母となる女に恐さがない。猟奇的な女に仕立てないままに、読むほどにうなじの毛が立ってくるような怖さを持たせてほしかったと思う。

小川洋子
 『爪と目』が恐ろしいのは3歳の女の子が「あなた」について語っているという錯覚を、読み手に植え付ける点である。しかも語り口が報告書のように無表情なのだ。弱者であるはずの「わたし」は少しずつ「あなた」を上回る不気味さで彼女を支配し始める。2人がラスト、「あとは大体おなじ」の一行で一つに重なり合う瞬間、些末な日常に走る亀裂に触れたような、快感を覚えた。広い世界へ拡散するでもなく、情緒を掘り下げてゆくのでもない方向にさえ、物語が存在するのを証明して見せた小説である。

島田雅彦
 「爪と目」は成功例の少ない二人称小説としては例外的にうまくいっている。父の愛人と娘の微妙な関係の変容を三歳児の頃から今に至るまでつぶさに観察したその記録なのだが、表向きやさしそうでいて、底意地の悪い愛人を見詰めるまなざしの物語と言ってもいい。語り手は成長するにつれ、愛人との関係を書き換えてゆく。ストーカーのように相手をじっと見つめるその目は、彼女のことを理解し、彼女に似てくる自分にも向けられている。これは父の愛人を介して描いた自画像でもあったのだ。これは文句なく、藤野可織の最高傑作である。

堀江敏幸
 冒頭の一文のねじれの余韻が、「わたしは三歳の女の子だった」という過去形を、語りの現在の土俵へと引き上げる。読者はその眩暈の中で、謎めいた母の死の後にやってきた「あなた」との砂を噛むようなやりとりに、緊張感を持って向き合うことになる。「わたし」は「あなた」との、書かれていない「その後」の対話を通じて知らない時間を生きなおし、「あなた」の半生を描くと同時に自伝をも書いているのだ。視力の弱い「あなた」の目に異物を装着する結末に吹く風は、繊細な手法とは裏腹な平明さで、過去と未来を同一線上に繋いでくれる。不透明なのに澄み切ったその線の矛盾の手触り。「わたし」と「あなた」のあいだにある聞こえていない声の帯域に、読者としての私は深く入り込んでいた。

川上弘美
 ていねいという言葉をこの小説を読んでいる間中思っていました。周到ではなく、丁寧です。その丁寧さは、小説というものに対する情愛から来るのだと思います。まだほんの少し、不自由な感じはするのです。でもきっと、更に書いているうちに、表したいことをもっともっと自在に編み込めるようになってゆく作者だと思います。

山田詠美
 韓国ホラー映画の『箪笥』を思わせる不気味な面白さ。どうせなら、もっとサイコホラーよりに徹して、小説にしかできない技を駆使して展開させていたら、映画を連想させることなどない、言葉による、そこはかとない恐怖に覆われた魅力が出たと思う。

村上 龍
 意匠をこらすというのは、リアリズムからの意図的な逸脱ということだ。物語の進行に置いて時間と空間をシャッフルする、一人称や三人称ではなく二人称を多用して書く、「語りかけ」を文章にして、かつ章ごとに文体も変える、そういった方法であり、程度の差はあるが、読む側は戸惑いと負荷を覚える。

奥泉 光
 二人称小説は時折見かけるが成功した作品は少ない。そんななか本作は、三歳の少女である「わたし」と、義母となった「あなた」との、さして長くない時間の出来事が描かれるのだけれど、主人公を「あなた」の二人称にせっていすることで、その後の母娘の長い時間にわたる関係の濃密さを予感させ、小説世界に奥行きを与えることに成功している。筋立てにややわかりにくい部分があり、ことにラストのイメージが不鮮明であるなどの疵はあるとは思ったけれど、方法の貫徹ぶりを評価し、受賞に推す声に賛成した。