『おかあさんといっしょ』をみて愕然とした。
体操のまゆおねえさんが卒業していたからだ。
最近世の中に疎くはなったが『おかあさんといっしょ』だけはフォローしてるという自負があっただけにショックは大きかった。
しかし失恋をいやしてくれるのは新しい恋だ。
新しいおねえさんに関心を向けることにした。
大学生だけあってフレッシュで肉付きがよかった。
太っているという意味ではない。ここ2代の歌のおねえさんたちはさまになっていくにつれて体がしぼられていったがそうしたそぎおとされた感じがまだないということだ(はじまったばかりなのだから当然だ)。
僕はいつからか女性がいわゆる社会に出て労働するようになってからの変化した体形、特にそぎおとされた体形にはなぜか関心があった。
性的ではなく、なんというのだろう、男の体形と似ているというか、性的な感じのしない、肉体を持たない女性というか、単に年をとったということでもなく、それでも男性にはない何か女性的なるものが残されて、ある種女性としてとぎすまされた感じになる。
とぎすまされて鋭くなるのはいいことではあると思う一方で、その変化には何かこれまでみたことがない現代固有のリアルな現実を見たような気もしてギョっとさえする。
かつての乙女たちと会うときもそうした変化を確認してしまう。
昨日もひとり乙女に会った。
しかし昨日はご存知の通り天候が悪く、一昨日の夕方、延期しようかとメールした。
会う目的はようやく僕の書いた本が出版されたので、それを渡しがてら久闊を叙すだけだから、わざわざ嵐の中ですることはない。
しかしその夜21時半過ぎ返事が来た。今仕事を終わったところで、これを逃すと当分会えないから、どんなに雨が降ろうと風が吹こうと関係ない、ワタシは行きます、と気迫が文面からあふれ、予想外に腹をくくることになった。
そして彼女に会うと予想通りというか期待通り疲れていて(この疲れも固有の兆候だ)、彼女の判断力も以前より無駄なものが削ぎ落とされ、シンプルになっていた。
そんな彼女がまだ僕と会おうとしてくれるのはうれしかった。
大体僕と会うことにどんなメリットがあるというのだろう。
ただ僕が書いた本が彼女に役立ちそうであることはうれしかった。
仕事柄「英語しゃべれるようになるにはどうすればいいの?」とか、いわゆる和英作文ではなく、英語脳にするための手段を教えてほしいといわれるのだが、彼女にもそう訊かれたので、その答えはその本にあるといった。
簡単にいえば日本人の言語活動は単語レベルで言葉を選ぶため英語を用いるときもそうやって操ろうとする。
しかし英語というのは単語レベルで発言する言語ではなく、文レベルで発話するものだ。
膠着語ではない英語に、膠着語であるかのようにアプローチするから、いつまでたっても日本語経由の英語で、本物の英語に到達しえない。
英単語を使っても英語でないのは、そのためなのである。
そんなことを説明しながら、その更に前日に行われたあるパーティのことを思い出した。隣り合わせになったイギリス人がブルーズ好きだったためパーティであることを忘れて僕らは二人の世界を作って話し込んだ。
しかもそのパーティがよかったのは、図らずも気功の師匠がいたことだ。
二年ぶりの再会で、取り敢えずここのところこのブログでも書いた疑問事項をお尋ねした。
やはりあの宙を飛ぶ星は気のようだった(インドだったかの文献にあるそうだ)。
そして一連の話を終えると師匠が、完全に師匠を超えたわね、といってくださったが、弁護するわけではないが師匠はここのところ気功どころではなかった。
もともと女優だから映画、舞台と最近は息つく暇がない。
つい先だってまで父が大ファンだった十朱幸代の舞台に出ていたし、この前の夏は国際映画にも出演していた。
ただ昨日会った乙女は、十朱幸代を知らなかった。
体操のまゆおねえさんが卒業していたからだ。
最近世の中に疎くはなったが『おかあさんといっしょ』だけはフォローしてるという自負があっただけにショックは大きかった。
しかし失恋をいやしてくれるのは新しい恋だ。
新しいおねえさんに関心を向けることにした。
大学生だけあってフレッシュで肉付きがよかった。
太っているという意味ではない。ここ2代の歌のおねえさんたちはさまになっていくにつれて体がしぼられていったがそうしたそぎおとされた感じがまだないということだ(はじまったばかりなのだから当然だ)。
僕はいつからか女性がいわゆる社会に出て労働するようになってからの変化した体形、特にそぎおとされた体形にはなぜか関心があった。
性的ではなく、なんというのだろう、男の体形と似ているというか、性的な感じのしない、肉体を持たない女性というか、単に年をとったということでもなく、それでも男性にはない何か女性的なるものが残されて、ある種女性としてとぎすまされた感じになる。
とぎすまされて鋭くなるのはいいことではあると思う一方で、その変化には何かこれまでみたことがない現代固有のリアルな現実を見たような気もしてギョっとさえする。
かつての乙女たちと会うときもそうした変化を確認してしまう。
昨日もひとり乙女に会った。
しかし昨日はご存知の通り天候が悪く、一昨日の夕方、延期しようかとメールした。
会う目的はようやく僕の書いた本が出版されたので、それを渡しがてら久闊を叙すだけだから、わざわざ嵐の中ですることはない。
しかしその夜21時半過ぎ返事が来た。今仕事を終わったところで、これを逃すと当分会えないから、どんなに雨が降ろうと風が吹こうと関係ない、ワタシは行きます、と気迫が文面からあふれ、予想外に腹をくくることになった。
そして彼女に会うと予想通りというか期待通り疲れていて(この疲れも固有の兆候だ)、彼女の判断力も以前より無駄なものが削ぎ落とされ、シンプルになっていた。
そんな彼女がまだ僕と会おうとしてくれるのはうれしかった。
大体僕と会うことにどんなメリットがあるというのだろう。
ただ僕が書いた本が彼女に役立ちそうであることはうれしかった。
仕事柄「英語しゃべれるようになるにはどうすればいいの?」とか、いわゆる和英作文ではなく、英語脳にするための手段を教えてほしいといわれるのだが、彼女にもそう訊かれたので、その答えはその本にあるといった。
簡単にいえば日本人の言語活動は単語レベルで言葉を選ぶため英語を用いるときもそうやって操ろうとする。
しかし英語というのは単語レベルで発言する言語ではなく、文レベルで発話するものだ。
膠着語ではない英語に、膠着語であるかのようにアプローチするから、いつまでたっても日本語経由の英語で、本物の英語に到達しえない。
英単語を使っても英語でないのは、そのためなのである。
そんなことを説明しながら、その更に前日に行われたあるパーティのことを思い出した。隣り合わせになったイギリス人がブルーズ好きだったためパーティであることを忘れて僕らは二人の世界を作って話し込んだ。
しかもそのパーティがよかったのは、図らずも気功の師匠がいたことだ。
二年ぶりの再会で、取り敢えずここのところこのブログでも書いた疑問事項をお尋ねした。
やはりあの宙を飛ぶ星は気のようだった(インドだったかの文献にあるそうだ)。
そして一連の話を終えると師匠が、完全に師匠を超えたわね、といってくださったが、弁護するわけではないが師匠はここのところ気功どころではなかった。
もともと女優だから映画、舞台と最近は息つく暇がない。
つい先だってまで父が大ファンだった十朱幸代の舞台に出ていたし、この前の夏は国際映画にも出演していた。
ただ昨日会った乙女は、十朱幸代を知らなかった。