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栄光の共戦譜〉第6回 1965年(昭和40年)「勝利の年」

2022年06月24日 | 妙法

栄光の共戦譜〉第6回 1965年(昭和40年)「勝利の年」2022年6月24日

  • すべては「一人」から始まる

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第6回は、「勝利の年」と銘打たれた1965年(昭和40年)を掲載する。

「1・15」中等部結成記念日
「9・23」少年少女部結成記念日
中等部員の手を取り、励ましを送る池田先生(1975年8月、東京・八王子市で)
中等部員の手を取り、励ましを送る池田先生(1975年8月、東京・八王子市で)

 1964年(昭和39年)、池田先生は、青年部幹部との協議の場で語った。
 「みんなが賛成ならば、高等部、中等部を結成しようと思う」
 日本・世界の未来を見据えたとき、学会の使命は、中学・高校生を育成する範を示すことだと、先生は考えていた。
 同年6月7日、高等部が結成を迎えた。池田先生の第3代会長就任後、最初に誕生した部となった。翌65年(同40年)1月15日には、全国各地で中等部が結成された。先生は中等部員に対し、「勤行をしっかりしましょう」「勉強をしっかりしましょう」「正しく、強く、明るい毎日を送りましょう」等の指針を贈った。
 創価の後継たちへの育成が本格化し、8月には、「少年部をつくってはどうか」と提案。9月23日、少年部結成の集いが各地で開催され、この日が、少年少女部の結成記念日となったのである。
 先生は決して、未来部員を子ども扱いしなかった。時に優しく、時に厳しく、“後継の宝”への薫陶を重ねた。
 5年後の70年(同45年)、「言論問題」の嵐が吹き荒れた。困難な状況が学会を取り巻く中にあって、先生が絆を強めたのは、使命深き未来部員たちだった。
 同年6月、未来部の代表と語らいながら、先生は「大阪事件」に言及。「民衆を守り、幸福にするために、みんな、しっかり勉強してほしい」と訴えた。
 「言論問題」の渦中、先生は記者会見でこう宣言している。「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
 後継者の育成は、学会の未来を決する。“創価の師子”たる未来部員、そして未来部出身者の成長の姿こそ、師弟勝利の証しである。

「7・15」聖教新聞の日刊化
聖教新聞を開く池田先生と香峯子夫人(1980年10月、アメリカ・マリブ研修センター〈当時〉で)
聖教新聞を開く池田先生と香峯子夫人(1980年10月、アメリカ・マリブ研修センター〈当時〉で)

 「本紙日刊は、いよいよきょうから始まりました」――1965年(昭和40年)7月15日付の本紙で、聖教新聞の日刊化が告知された。
 51年(同26年)4月20日、戸田先生が第2代会長に就任する直前に創刊された聖教新聞は、ブランケット判の月3回刊。発行部数は5千部だった。
 広布の伸展とともに、64年(同39年)9月には200万部を突破。週3回刊となっていた。この年の秋から、日刊化に向けて準備が進められた。
 当初、日刊化は翌65年10月から開始される予定だった。だが、広布の前進が加速していることから、3カ月早められたのである。
 同年6月、聖教新聞社を訪問した池田先生は、急ピッチで作業に当たる職員たちを激励した。こまやかな新聞評も行い、「聖教は、思想と哲学の電源地であり、世界最強の言論城にしていかなければならない」と聖教の使命を訴えた。
 日刊化によって、先生の言論の戦いは、さらに激しさを増した。65年元日から本紙でスタートしていた小説『人間革命』の連載回数は、週3回から週7回へと大幅に増えた。早朝や深夜に原稿用紙に向かう日が続いた。
 やがて聖教新聞の発行部数は、三大紙と肩を並べるまでに飛躍的に増加。日刊化と相前後し、「ワールド・トリビューン」「ノーバ・エラ」(後のブラジル・セイキョウ)など、各国語の機関紙誌が世界各地で誕生し、“思想と哲学の光”は世界に広がっていった。
 「日本中、世界中の人に読ませたい」――この戸田先生の熱願を継いだ池田先生の激闘によって、聖教新聞は大きく発展した。聖教電子版は現在、210を超える国と地域からアクセスされている。

「8・17」メキシコ初訪問
メキシコの友を激励する池田先生(1996年6月29日、ベラクルス国際空港で)
メキシコの友を激励する池田先生(1996年6月29日、ベラクルス国際空港で)

 池田先生は、1965年(昭和40年)8月14日、北・中米訪問に出発した。この日は、その18年前、初めて出席した座談会で戸田先生と出会った日だった。
 17日、池田先生はメキシコを初訪問した。先生にとって、同国訪問は特別な意味を持っていた。58年(同33年)3月、恩師は、病床で愛弟子に世界広布の構想を託した。亡くなる前月のことである。
 「メキシコへ行った夢を見たよ。待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」「君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ……」
 戸田先生がメキシコに関心を募らせたのは、牧口先生が『人生地理学』の中で同国について触れたことにあった。
 戸田先生が夢にまで見たメキシコ訪問――。池田先生は恩師の思いを胸に、3日間の滞在で、一人一人の心に広布の灯をともしていった。
 「さあ、メキシコ広布の新しい幕を開きましょう!」
 「一つの火が燃えれば、野原を焼き尽くすように、すべては、一人から始まる」
 先生が第一歩を刻んだ「8月17日」は後に「メキシコの日」となった。メキシコの同志は、その原点を節目として、友情の連帯を広げてきた。
 昨年の同日には、メキシコ創価学会として、SGI(創価学会インタナショナル)とICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が共同制作した「核兵器なき世界への連帯――勇気と希望の選択」展のバーチャル展示会が、メキシコ創価学会のホームページ上で開幕。積極的な平和発信は大きな反響を呼んだ。
 師と刻んだ原点を胸に、広布の“新しい幕”を開いていく――その連続闘争の中で、黄金の共戦譜は輝きを増す。

◆年表◆
1965年

 〈1月1日〉
 聖教新聞で小説「人間革命」の連載を開始
  
 〈1月15日〉
 全国各地での中等部結成式に、勤行、勉学の大切さなど5つの指針を贈る
  
 〈1月16日〉
 九州・関西・中国・中部指導(~20日。福岡、大阪、鳥取、岐阜、愛知)
  
 〈3月7日〉
 中国・関西・中部指導(~12日。広島、大阪、兵庫、愛知、静岡、山梨)
  
 〈5月3日〉
 会長就任5周年の第28回本部総会(東京)
  
 〈5月18日〉
 東北第3本部落成入仏式(秋田)
  
 〈5月28日〉
 中国・関西・中部指導(~6月2日。岡山、大阪、京都、愛知)
  
 〈6月23日〉
 関西・中部指導(~26日。大阪、兵庫、愛知)
  
 〈7月9日〉
 関西・中部指導(~10日。大阪、愛知)
  
 〈7月11日〉
 第8回学生部総会(東京)
  
 〈7月15日〉
 聖教新聞が日刊化
  
 〈8月10日〉
 高・中等部メンバーとの記念撮影の折、少年部の結成を提案(静岡)
  
 〈8月14日〉
 北・中米訪問(~25日。アメリカ、メキシコ)
  
 〈9月23日〉
 全国各地で少年部が結成される
  
 〈10月3日〉
 関西・中部指導(~4日。大阪、愛知)
  
 〈10月19日〉
 欧州訪問(~31日。フランス、西ドイツ、イタリア、ポルトガル)
 フランスでヨーロッパ本部事務所の開所式
 ヨーロッパ総合本部の設置、アフリカ支部の結成を発表
 遠路、各国から集った友の質問に答えつつ、欧州・アフリカ広布の伸展をたたえる(20日)
  
 〈11月23日〉
 第14回青年部総会(東京)
  
 〈11月26日〉
 第1回創価大学設立審議会(東京)
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

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