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小説「新・人間革命」学習のために 「平和への誓い

2021年08月14日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「平和への誓い」編2021年8月14日

  • 人間賛歌の世紀を開け!

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「平和への誓い」編を掲載する。次回は第30巻<下>を28日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

立正安国の実現こそ仏法者の使命

 <1960年(昭和35年)5月、東北や北海道などの太平洋岸を、大津波が襲った。山本伸一は、すぐに本部で救援活動の指揮を執る。彼は「立正安国」の実現の必要性を痛感していた>
 
 「立正」とは「正を立てる」、すなわち仏法の「生命の尊厳」と「慈悲」という人道の哲理の流布であり、仏法者の宗教的使命といってよい。また、個人に即していえば、自らの慈悲の生命を開拓し、人道を規範として確立していく人間自身の革命を意味している。
 
 創造の主体である人間の生命が変革されるならば、その波動は社会に広がり、人間を取り巻くあらゆる環境に及んでいく。そして、政治に限らず、教育、文化、経済も、人類の幸福と平和のためのものとなり、「安国」すなわち「国を安んずる」ことができよう。
 
 それは、ちょうど、一本の大河の流れが、大地を潤し、沃野と化した大地に、草木が豊かに繁茂していくことに似ている。仏法は大河、人間は大地であり、草木が平和、文化にあたる。
 
 日蓮仏法の本義は、「立正安国」にある。大聖人は民衆の苦悩をわが苦とされ、幸福と平和の実現のために、正法の旗を掲げ、広宣流布に立たれた。つまり、眼前に展開される現実の不幸をなくすことが、大聖人の目的であられた。それは、「立正」という宗教的使命は、「安国」という人間的・社会的使命の成就をもって完結することを示していた。そこに仏法者と、政治を含む、教育、文化、経済など、現実社会の営みとの避け難い接点がある。
 
 (中略)宗教は、人間を鍛え、人格を磨き高め、社会建設の使命に目覚めた人材を育み、輩出する土壌である。
 
 (第2巻「先駆」の章、41~43ページ)

万人の「生存の権利」守る大師子吼

 <60年11月、横浜・三ツ沢の陸上競技場で第9回男子部総会が開催された>
 
 この会場は、三年前の一九五七年(昭和三十二年)九月八日、戸田城聖の遺訓となった、歴史的な「原水爆禁止宣言」が行われた意義深き場所である。戸田は、この時、人間の“生存の権利”を守るうえから、いかなる国であれ、原子爆弾を使用するものは悪魔であり、魔ものであると宣言し、その思想を全世界に広めゆくことを青年たちに託したのであった。
 
 以来三年、青年たちは、それを自らの使命として、「原水爆禁止宣言」を何度も読み返しては語り合い、思索を重ねてきた。そのなかで彼らは、戸田の宣言が、仏法者の生き方の必然的な帰結であり、仏法には、人類が抱える、あらゆる難題を解決する原理が示されていることをつかんでいった。
 
 たとえば、仏法では、一切衆生に「仏性」があると説いていることは知っていたが、それが現代の社会にあって、いかなる意味をもつか、測りかねていた。しかし、戸田が宣言のなかで語った、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」との言葉は、「仏性」という仏法の考えを、現代思想の概念として打ち立てたものであることに気づいた。「生存の権利」という考えは以前からあり、「世界人権宣言」などにも示されているが、戸田は、仏法の哲理の裏づけをもって、そこに内実を与えたといってよい。
 
 青年たちは、こうした仏法の哲理が、現代社会に深く根差していってこそ、人類の幸福と世界の平和の創造が可能になることを、次第に感じ取っていった。
 
 (第2巻「勇舞」の章、191~192ページ)

世界を「友情」と「信頼」の絆で結べ

 <61年(同36年)6月、伸一は、東京・日比谷公会堂で行われた第4回学生部総会に出席。彼は、新時代を担う若き俊英たちに大きな期待を寄せた>
 
 「さて、諸君にお願いしておきたいことは、語学を磨き、世界にたくさんの友人をつくっていただきたいということであります。日蓮大聖人の仏法が、世界に流布されていくことは歴史の必然です。ですから海外にあっては、焦って、布教をする必要はありません。それよりも、世界に大勢の友人をつくり、皆さんが、人間同士の信頼を築いていくことです。
 
 今、学会は、弘教の大波を広げていますが、それはただ教勢の拡大のために行っているのではありません。どこまでも、人びとの幸福の実現であり、世界の平和のためです。
 
 平和といっても、人間と人間の心の結びつきを抜きにしては成り立ちません。皆さんが世界の人びとと、深い友情で結ばれ、そのなかで、友人の方が、皆さんの生き方に感心し、共感していくなら、自然と仏法への理解も深まっていくものです。
 
 この課題を担うのは、語学をしっかり学んでいる人でなければ難しいので、特に、学生部の皆さんにお願いしたいんです。世界の方は、一つよろしくお願いいたします」
 
 (中略)
 
 世界を友情で結べ――さりげない言葉ではあるが、そこには、仏法者の生き方の本義がある。
 
 仏法は、人間の善性を開発し、人への思いやりと同苦の心を育む。それゆえに仏法者の行くところには、友情の香しき花が咲くのである。そして、布教も、その友情の、自然な発露にほかならない。
 
 (第4巻「青葉」の章、211~212ページ)

「地球民族主義」は人類結合の思想

 この地球上には、思想・宗教、国家、民族等々、さまざまな面で異なる人間同士が住んでいる。その差異にこだわって、人を分断、差別、排斥していく思想、生き方こそが、争いを生み、平和を破壊し、人類を不幸にする元凶であり、まさに魔性の発想といえよう。
 
 戸田が提唱した、人間は同じ地球民族であるとの「地球民族主義」の主張は、その魔性に抗する、人類結合の思想にほかならない。
 
 宗教者が返るべきは、あらゆる差異を払った「人間」「生命」という原点であり、この普遍の共通項に立脚した対話こそ、迂遠のようであるが、相互不信から相互理解へ、分断から結合へ、反目から友情へと大きく舵を切る平和創造の力となる。
 
 人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。(中略)しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。
 
 一方、対話による戦争状態の打開や差別の撤廃は、人間の心を感化していく内的な生命変革の作業である。したがって、それは漸進的であり、忍耐、根気強さが求められる。ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道を開いていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある。
 
 仏法の眼から見た時、その絶望の深淵に横たわっているのは、人間に宿る仏性を信じ切ることのできない根本的な生命の迷い、すなわち元品の無明にほかならない。世界の恒久平和の実現とは、見方を変えれば、人間の無明との対決である。つまり、究極的には人間を信じられるかどうかにかかっており、「信」か「不信」かの生命の対決といってよい。
 
 そこに、私たち仏法者の、平和建設への大きな使命があることを知らねばならない。
 
 (第29巻「清新」の章、319~320ページ)

世界51カ国・地域のメンバーが集った第1回「世界平和会議」で、あいさつに立つ池田先生(1975年1月、グアムで)。「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と訴えた
世界51カ国・地域のメンバーが集った第1回「世界平和会議」で、あいさつに立つ池田先生(1975年1月、グアムで)。「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と訴えた
小説「新・人間革命」第1巻より

 平和ほど、尊きものはない。
 平和ほど、幸福なものはない。
 平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。

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