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小説「新・人間革命」に学ぶ 第24巻 名場面編 

2020年10月13日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第24巻 名場面編 2020年10月13日

  • 連載〈世界広布の大道〉
絵・間瀬健治
絵・間瀬健治
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第24巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
 

 
おやこうこうこそ最も大切なじんどう

 〈1976年(昭和51年)9月、山本伸一の母・幸は、安らかに霊山へ旅立った。伸一の胸に母との思い出が浮かぶ〉

 母は、自分を犠牲にして、たくさんの子どもを育ててきた。伸一は、その恩に報いるためにも、元気なうちに旅行もしてもらおうと、力を尽くした。母は、楽しそうに出かけて行った。その地の学会員との出会いを喜びとしていた。母の笑顔を見ることが、彼は、何よりも嬉しかった。
 母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。
 母の幸は、学会本部に来る時には、よく自分で縫った黒い羽織を着ていた。
 本部は、広宣流布の本陣であり、歴代会長の精神が刻まれた厳粛な場所である。正装して伺うのが当然である――というのが、母の考えであった。
 息子が会長であるからといって、公私を混同するようなことは、全くなかった。
 母が亡くなる前年の一九七五年(昭和五十年)四月のことである。(中略)
 伸一は、母と久しぶりに会う時間があった。諸行事が続くなか、言葉を交わしたのは、数分にすぎなかった。彼は、花の大好きな母のために、レイと桜の小枝を贈った。レイを首にかけると、母は、「ありがとう、ありがとう」と、何度も言い、桜の花を見ては、微笑んだ。
 別れ際、伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。
 伸一が、かがみ込んで背中を向けると、母は、はにかむように言った。
 「いいよ、いいよ。そんなことを、させるわけにはいかないよ」
 「いいえ、お母さん。私が、そうしたいんです」
 伸一が、強く言うと、母は、「悪いねえ」と言って、彼の背中に乗った。
 小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。
 伸一が、「うーん、重い、重い」と言うと、屈託のない笑い声が響いた。
 背中に感じた、その温もりを、彼は、いつまでも、忘れることができなかった。
 (「母の詩」の章、53~54ページ)
 

 
基本のてっていが事故をふせ

 〈76年の晩秋の夜、執務を終えた山本伸一は、牙城会の青年2人と共に、学会本部の周辺や建物内の点検に回る〉

 伸一は、給湯室の火の始末や、電気の消し忘れはないかなどを、一つ一つ点検して回った。さらに、表の花壇では、木や草の根元まで懐中電灯を照らし、不審物などが隠されていないか、入念に調べた。(中略)
 「小さなことを見逃さない目が、大事故を防ぐんだよ。事故を防ぐには、みんなで、よく検討して、細かい点検の基本事項を決め、それを徹底して行っていくことだ。(中略)そして、基本を定めたら、いい加減にこなすのではなく、魂を込めて励行することだ。形式的になり、注意力が散漫になるのは、油断なんだ。実は、これが怖いんだ」(中略)
 伸一は、さらに、本部周辺の建物を見回りながら語っていった。
 「これから年末いっぱい、火災に限らず、詐欺や窃盗などの、さまざまな犯罪が多発しやすい時期になる。しかし、ともすれば、“まさか、自分はそんなことに遭うわけはない。大丈夫だろう”と思ってしまう。それが油断の第一歩であり、そこに、隙が生まれていく。また、会合で、交通事故に注意するよう呼びかけても、“そんなことは、わかっている”と思って、聞き流してしまうケースがよくある。だが、その時に、“そうだ。用心しよう!”と自分に言い聞かせ、周囲の人とも確認し合うことだ」(中略)
 伸一は、「牙城会」の青年と、聖教新聞社を経て、自宅まで来た。妻の峯子が、玄関前に、迎えに出ていた。峯子は、「牙城会」の青年たちに、丁重に礼を言った。伸一は、別れ際、彼らに語った。
 「今日は、ありがとう。ともかく、絶対無事故をめざそう。私も、無事故、安全を、毎日、しっかり、ご祈念しているからね。私は、いつも君たちと一緒に行動するわけにはいかないが、心は一緒だよ。使命は同じだよ。どうか、私に代わって、本部を守ってください。会館を守ってください。同志を守ってください。また、お会いしよう」
 この日、伸一と峯子は、彼らが、風邪をひかないように、また、はつらつと使命を果たし、立派に大成するように、深い祈りを捧げた。
 (「厳護」の章、105~108ページ)
 

 

時代は「人間革命」をこう

 〈77年(同52年)は、大ブロック(現在の地区)の強化をめざし、全幹部が大ブロックに入り、座談会を中心に奔走した〉

 伸一は、大ブロック座談会を担当した最高幹部が学会本部に帰ってくると、必ず尋ねることがあった。それは、青年は何人集っていたのか、特に女子部員は元気であったのかということであった。
 そして、女子部員が、はつらつと、研究発表や体験発表、活動報告などをしていたことを聞くと、途端に笑みを浮かべるのであった。
 「嬉しいね。未来があるね。学会が、どうして、ここまで発展することができたのか。その要因の一つは、常に青年を大切にし、青年を前面に押し出すことによって、育ててきたからだよ。
 時代は、どんどん変わっていく。信心という根本は、決して変わってはいけないが、運営の仕方や、感覚というものは、時代とともに変わるものだ。(中略)
 社会の流れや時代感覚は、青年に学んでいく以外にない」(中略)
 伸一は、あらゆる角度から、未来を、二十一世紀を、見すえていた。(中略)
 初代会長・牧口常三郎は、価値論を立て、「罰」という反価値の現象に苦しまぬよう警鐘を鳴らすことに力点を置いた。第二代会長・戸田城聖は、戦後、広く庶民に、仏法の偉大さを知らしめるために、経済苦、病苦、家庭不和等の克服の道が、仏法にあると訴え、御本尊の功徳を強調した。
 では、これからは、人びとは、仏法に何を求め、私たちは、どこに力点を置いて、仏法を語るべきなのか。伸一は、青年たちと、忌憚のない対話を交わすなかで、こう実感していた。
 “心を強くし、困難にも前向きに挑戦していく自分をつくる――つまり、人間革命こそ、人びとが、社会が、世界が求める、日蓮仏法、創価学会への期待ではないか! もちろん、経済苦や病苦などを解決していくためにも、人びとは仏法を求めていくであろうが、若い世代のテーマは、自己の変革、生き方の転換に、重点が置かれていくにちがいない。つまり、『人間革命の時代』が来ているのだ”
 (「人間教育」の章、203~205ページ)
 

 
づかいと対話がしんらいはぐく

 〈山本伸一は青年時代にアパート暮らしを始め、近隣の人たちと誠実に友好を結んできた〉

 伸一が、青年として心がけていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。深い縁があってのことだ。(中略)
 彼は、隣室の子どもたちを部屋に呼んで、一緒に遊んだこともあった。自分の縁した一家が、幸せになってもらいたいと、その親には仏法の話をした。やがて、この一家は、信心を始めた。
 伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。(中略)
 伸一は、「青葉荘」で三年間を過ごし、一九五二年(昭和二十七年)五月に峯子と結婚する。(中略)八月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。
 赤い屋根の二階建てで、十世帯ほどが住んでいた。伸一たちが借りたのは、六畳二間の一階の部屋であった。(中略)
 ここにいた時、長男の正弘、次男の久弘も生まれている。また、伸一が、青年部の室長として、学会の重責を担うようになるのも、この時代である。
 「秀山荘」に転居した伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。和気あいあいとした人間関係を、つくっていきたかったのである。
 正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。
 彼の部屋には、実に多くの人が訪れた。当時、伸一が、峯子と語り合ったのは、「どなたが来ても温かく迎えて、希望を“お土産”に、送り出そう」ということであった。(中略)
 語らいは、時として深夜にまで及ぶこともあった。翌朝、峯子は「昨夜は、遅くまで来客がありまして、すみません。うるさくなかったですか」と、近隣の人びとにあいさつして回った――。
 いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。
 (「灯台」の章、347~349ページ)


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