小説「新・人間革命」に学ぶ 番外編③ 2020年12月16日
- 連載〈世界広布の大道〉
今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は「番外編③」。小説につづられた珠玉の名言をテーマごとに紹介するとともに、山本伸一の各方面への励ましを掲載する。挿絵は内田健一郎。
「何事も受け身で、人に言われて動いていれば、つまらないし、勢いも出ない。その精神は奴隷のようなものだ。しかし、自ら勇んで挑戦していくならば、王者の活動だ。生命は燃え上がり、歓喜もみなぎる。
同じ動きをしているように見えても、能動か、受動かによって、心の燃焼度、充実度は、全く異なる。それは、当然、結果となって表れてくる。どうせ活動するなら、君も、常に自分らしく、勇んで行動する主体者になることだよ」(中略)
「何があっても逃げずに、すべてをやり切っていくんだ。それによって自分を磨き、力をつけ、福運をつけ、大成長していくことができる。
だから、広宣流布のために、うんと苦労をしようよ。うんと悩もうよ。うんと汗を流そうよ。自分の苦労なんて、誰もわからなくてもいいじゃないか。御本尊様は、すべてご存じだもの」
(第12巻「愛郷」の章、135~136ページ)
真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一念にこそかかっている。人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避に走れば、社会は退廃する。楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。
楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。
何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。複雑な現実の迷路を切り開く、聡明な知恵を働かせることだ。
そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。御聖訓には、「心の一法より国土世間も出来する事なり」(御書563ページ)と仰せである。ゆえに伸一は、会員一人ひとりの胸中深く、確固不動なる信心の杭を打ち込もうと、心に誓っていた。
(第13巻「楽土」の章、302~303ページ)
「御書には『仏法と申すは勝負をさきとし』(1165ページ)と仰せです。それは、広宣流布とは、第六天の魔王という生命破壊の魔性との戦いであり、さらには人間が生きるということ自体が、人生そのものが戦いであるからです。
人間の幸福といっても、自分の臆病や怠惰などの弱さと戦い、勝つことから始まります。人間革命とは、自己自身に勝利していくことであり、そのための、いわば道場が、学会活動の場であるともいえます。
私は、その時々の折伏の成果など、問題にしておりません。大事なことは、皆さんが強盛な信心に励み、大功徳を受け、生活も豊かになり、幸福に満ち満ちた悠々たる大境涯になっていくことです。そのための布教であり、学会の活動であることを、銘記していただきたいのであります」
(第8巻「布陣」の章、48~49ページ)
「人間は、誰しも幸せになりたいと願っている。しかし、人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意志や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。そこに、宿命という問題があるんです。
その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのか――題目です。
御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を涌現していく以外にない。強い心をもち、生命力にあふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。(中略)
日蓮大聖人は佐渡に流された時、(中略)『流人なれども喜悦はかりなし』(御書1360ページ)と感涙された。私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法である」
(第29巻「源流」の章、352~353ページ)
人は“なんのため”かが明らかにならなければ、本気になって力を注ぎ込むことはできない。それは、広宣流布の活動においても同じである。
皆が、なんのための運動か、なぜ、今、それを行うのかを、よく納得、理解するならば、自主的に行動を開始していくものだ。そして、そこから、さまざまな創意工夫も生まれていく。それが、“現場の知恵”である。知恵は知識を動かす力でもある。(中略)
また、皆が、意義、目的を心の底から納得していないにもかかわらず、目標の数や方法ばかりが強調されれば、押しつけられているような思いをいだくにちがいない。
すると、皆の活動に取り組む姿勢は受け身になる。受け身の行動には歓喜も躍動もなくなる。それでは、いかに高邁な運動も、やがては行き詰まってしまうにちがいない。
意義、目的の理解と合意ができたならば、目標の設定である。
(第2巻「先駆」の章、22ページ)
「よく戸田先生は、こんな譬えを引かれていました。
――川がある。川幅や流れの形は、基本的には変わらない。これが性格である。しかし、泥水が流れ、飲むこともできなかった川の水を、清浄極まりない水に変えることができる。これが信心の力であり、人間革命ということである。
自分の性格というのは、いわば個性です。そこに自分らしさもある。その自分のまま、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが自分の個性を最大に生かしながら、最高の人生を歩んでいけるのが、日蓮大聖人の仏法なんです」(中略)
「梅は桜になることはできないし、桜も梅になることはできません。大切なことは、自分は自分らしく、光り輝いていくことです。信心を貫き通していくならば、人が真似ることのできない、自分らしい最高の魅力を発揮していくことができるんです」
(第27巻「激闘」の章、313~314ページ)
〈1978年(昭和53年)7月、山本伸一は、「東京の歌」の作詞に取り組む。彼は東京のさらなる飛躍のために思索を深め、「感激」というキーワードを定める〉
“仏法の眼を開けば、すべては感激に満ちている。自分が地涌の菩薩として、広宣流布の大使命をもって、この時に、広布の本陣たる大東京に出現したこと。この地に大宇宙より雲集した同志と奇しくも巡り合い、久遠の誓いを果たそうと、大法戦を起こしたこと。日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布の時代の幕を、今、自分たちの手で開こうとしていること……。
一つ一つが不思議な、大感動の事実であり、感激以外の何ものでもない”
(第28巻「大道」の章、129ページ)
〈1977年(昭和52年)3月13日、山本伸一は東北の代表幹部会で、同志の健闘をたたえた〉
「私は、東北の皆さんを尊敬しております。それは、どんな困難にも負けない粘り強さ、不屈の“負けじ魂”があるからです。
皆さんには、大難、大苦に、打ちひしがれることなく、広宣流布のために、敢然と立ち上がる真性の強さがある。その力が、自身を三世にわたって永遠に輝かせ、愛する郷土を寂光土へと転じていく“福光”となります。
私は、かつて広宣流布の総仕上げを東北の皆さんに託しました。いよいよ“負けじ魂”を燃やし、総仕上げの旗頭として、威風堂々と立ち上がってください」
(第25巻「福光」の章、96ページ)
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