映画批評にかぎらず芸術批評は、物体を計測するように、いつ、どこでも計測結果が不変であるはずはない。批評する者の置かれている条件、その場、その時で変わってくる。そこで、カンヌ映画祭での批評とは、その批評にかかるバイアスが影響しよう。なにより映画は資本主義経済の生産物である。観客を動員し、興行収入がなければ、映画とはいえないのだ。その金額の大きさが価値である。芸術であるまえに商品である。こうみなればならないであろう。
こうした映画産業に生きる俳優、監督、プロデューサー、資本家、批評家、ジャーナリストたちは、産業を担う。そこで商品価値の制約から完全に自由であることは不可能となる。精神的価値より物的価値によって支配される、また、それを善しとする俗物にならざるをえないであろう。カンヌ映画祭は、俗物となっている祭典であるともいえよう。映画を生業とするものは、この映画コンプレックスを擁かざるを得ない。カンヌ映画祭は、映画人たちを映画コンプレックスを解放する祭典となる。
こうしてカンヌ批評は、企業生産品であり、大衆を捉える娯楽作品であるという意識を排除する。映画は芸術であるとの価値観に傾斜していく。価値観とは、欧米中心のヒュウマニズムであり、それにエキゾチシズムへの偏愛である。映画は欧米ではサブカルチャーとみなされ、伝統的教養をなす古典や、いわゆる芸術から、一段下の文化とみられてきた。その事実を意識から追い出すかのように、ハイカルチャーとしての映画をもてはやす。その意識は映画の特性を隠し、ありもしないハイカルチャーに酔うコンプレックスの裏返しにすぎない。カンヌ映画祭はオリンピック祭典に似ている。平和と友好が謳歌され、人類愛が高々と宣言されるが、本音は、金メタルの獲得である。この競争があるから、オリンピックは世界中の観衆を魅了するのであり、勝ち負けが問題ではないという競技なら、勝つことだけでは意味がないとうなら、だれがオリンピックをみて、歓喜できるであろうか。映画もまたそうだ。芸術性だけがあって面白くない映画がなんの意味をもつのであろうか。そんな映画をみるために金を払う大衆はいないのではないか。しかし、この「即物性」があるがゆえの映画特有の価値を認めるべきなのだが、カンヌにあつまった映画人には安心できない。それは豊かさに飽きて、豊かさを否定してみる表面的格好よさを超えるものでなないのだ。芸術の創造性もなにもあるのではなく、映画コンプレックスが、芸術映画偏重を生み出しているのだ。芸術映画作品は、映画劣等感の解放という虚ろな希望もしくは幻影をせおわされたにすぎないのである。
ほとんどの受賞作品がおもしろくないか、あるいは、なんでこんなもの、他にあるじゃないかという思いを、させられるのは、このようなカンヌ映画祭の批評があるからだと、このごろだんだんきづくようになってきている。今回とりあげた河瀬直美の映画もこうしたカンヌ評の特質をよく体現しているといえよう。タイトルからして、ぼくらにとってもエキゾチックつまり異相である。読めない、意味がつかめないそのタイトルにおどろかされる。第60回カンヌ国際映画祭グランプリ『殯の森』第64回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた「朱花の月」前者はもがりの森、後者は、はねづと読む。読めても意味不明である。映画は大衆のものでなく芸術であるという意識の反映であろう。すでにカンヌ映画祭向きである。カンヌ批評に適う。宮崎映画祭の冊子に「カンヌに愛された女、川津直美」と紹介されていたが、「カンヌに愛された」とはどういう意味か、この紹介者に聞いてみたいものだ。真意はどうであれ、まさに言いえて妙な河瀬直美のキャッチフレーズではある。
「朱花の月」がおもしろくないのは、発想に冒険がなく平凡だからである。ヒロインは飛鳥村に住む
染色家、同棲する男は村のPR紙の編集者、彼女がこころを寄せるもう一人は木工家の男、いずれも現世に背を向けている。古代への愛を語るには、コンビニの店員では描けない。豊かさは人をこうふくにしないという消費社会を否定して無農薬野菜、手作り生産を営むライフスタイルという人物も、見飽きた生活でしかない。そして男が庭で取れた野菜を料理して食べるのが、豊かさと示されても、古過ぎ。この設定は、平凡なのである。日常に背を向けて逃避する生活を芸術とする豊かさ否定のありふれた若者たちが描かれていくのだ。このライフスタイルが芸術風にみえるとすれば、まさに発想はありきたりである。
次に映像である。映像は次々にイメージを提供して観客を巻き込むように構成されている。だがはたして、その映像が、観客に自由で思いもしなかったイメージを与えてくるとはおもえない。映画の冒頭で、布を染色するシーンから始まるのだが、そめられる布は、内臓の動きのように見える。しつように長いこの染色のシーンが肉体の一部をイメージさせ、血を思わせる。後に、同棲の男が浴槽で自殺するが、まっかな血で染まった浴槽の中の男への導入にもなっているのだが、血のような布が、内臓のように見えるというのも、直接的な類比で、けっしてイメージが広がるとはいえないのだ。見下ろした眼下の竹林が強風で揺らめくのが、内面の衝撃を伝え、雨が涙をつたえと、シーンのそれぞれは内心の比ゆとなっているが決して隠喩にまではならず、直喩に終わる平凡さが不快である。
この映画は、奈良県飛鳥地方を舞台としている。この自然の風景は、映画シーンとして作られたものである。飛鳥といえども戦後日本の消費活動から手付かずのままでいるはずがないのだ。郊外ロードショップが立ち並び、安宿からマンション、居酒屋からかフエ、住宅にコンビに、即物的現世的都市の開発に、切り刻まれててしまった飛鳥の自然を、映画的シーンで再構成したものである。これをもって日本とするならば、この映画を見て飛鳥地方を訪れる欧米人は、ショックをうけるであろう。芸術はどこにもないとあきれかえるであろう。
この虚像の上に映画はつぶやくような台詞だけで進展していく。台詞もまた、虚像をイメージさせるためにだけに用いられる。この台詞を聞き、この映画で一人の女をめぐる2人の男の一人が勝つ、女を自分のものにするという主題が、納得できるものではない。なぜなら、なんの戦いも葛藤もこれらの登場人物には感じられないからである。あるのは、芸術という名の現実逃避である。
この映画は奈良県の飛鳥村の自治体の支援で製作されている。まずは観光映画であるというのなら、それはそれでいいのではないか。カンヌで成功して宣伝効果おおありであるからだ。それは芸術とはなんの関係もない俗物性であり、まさにこれが映画の特色なのであることを再認識すべきであろう。
こうした映画産業に生きる俳優、監督、プロデューサー、資本家、批評家、ジャーナリストたちは、産業を担う。そこで商品価値の制約から完全に自由であることは不可能となる。精神的価値より物的価値によって支配される、また、それを善しとする俗物にならざるをえないであろう。カンヌ映画祭は、俗物となっている祭典であるともいえよう。映画を生業とするものは、この映画コンプレックスを擁かざるを得ない。カンヌ映画祭は、映画人たちを映画コンプレックスを解放する祭典となる。
こうしてカンヌ批評は、企業生産品であり、大衆を捉える娯楽作品であるという意識を排除する。映画は芸術であるとの価値観に傾斜していく。価値観とは、欧米中心のヒュウマニズムであり、それにエキゾチシズムへの偏愛である。映画は欧米ではサブカルチャーとみなされ、伝統的教養をなす古典や、いわゆる芸術から、一段下の文化とみられてきた。その事実を意識から追い出すかのように、ハイカルチャーとしての映画をもてはやす。その意識は映画の特性を隠し、ありもしないハイカルチャーに酔うコンプレックスの裏返しにすぎない。カンヌ映画祭はオリンピック祭典に似ている。平和と友好が謳歌され、人類愛が高々と宣言されるが、本音は、金メタルの獲得である。この競争があるから、オリンピックは世界中の観衆を魅了するのであり、勝ち負けが問題ではないという競技なら、勝つことだけでは意味がないとうなら、だれがオリンピックをみて、歓喜できるであろうか。映画もまたそうだ。芸術性だけがあって面白くない映画がなんの意味をもつのであろうか。そんな映画をみるために金を払う大衆はいないのではないか。しかし、この「即物性」があるがゆえの映画特有の価値を認めるべきなのだが、カンヌにあつまった映画人には安心できない。それは豊かさに飽きて、豊かさを否定してみる表面的格好よさを超えるものでなないのだ。芸術の創造性もなにもあるのではなく、映画コンプレックスが、芸術映画偏重を生み出しているのだ。芸術映画作品は、映画劣等感の解放という虚ろな希望もしくは幻影をせおわされたにすぎないのである。
ほとんどの受賞作品がおもしろくないか、あるいは、なんでこんなもの、他にあるじゃないかという思いを、させられるのは、このようなカンヌ映画祭の批評があるからだと、このごろだんだんきづくようになってきている。今回とりあげた河瀬直美の映画もこうしたカンヌ評の特質をよく体現しているといえよう。タイトルからして、ぼくらにとってもエキゾチックつまり異相である。読めない、意味がつかめないそのタイトルにおどろかされる。第60回カンヌ国際映画祭グランプリ『殯の森』第64回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた「朱花の月」前者はもがりの森、後者は、はねづと読む。読めても意味不明である。映画は大衆のものでなく芸術であるという意識の反映であろう。すでにカンヌ映画祭向きである。カンヌ批評に適う。宮崎映画祭の冊子に「カンヌに愛された女、川津直美」と紹介されていたが、「カンヌに愛された」とはどういう意味か、この紹介者に聞いてみたいものだ。真意はどうであれ、まさに言いえて妙な河瀬直美のキャッチフレーズではある。
「朱花の月」がおもしろくないのは、発想に冒険がなく平凡だからである。ヒロインは飛鳥村に住む
染色家、同棲する男は村のPR紙の編集者、彼女がこころを寄せるもう一人は木工家の男、いずれも現世に背を向けている。古代への愛を語るには、コンビニの店員では描けない。豊かさは人をこうふくにしないという消費社会を否定して無農薬野菜、手作り生産を営むライフスタイルという人物も、見飽きた生活でしかない。そして男が庭で取れた野菜を料理して食べるのが、豊かさと示されても、古過ぎ。この設定は、平凡なのである。日常に背を向けて逃避する生活を芸術とする豊かさ否定のありふれた若者たちが描かれていくのだ。このライフスタイルが芸術風にみえるとすれば、まさに発想はありきたりである。
次に映像である。映像は次々にイメージを提供して観客を巻き込むように構成されている。だがはたして、その映像が、観客に自由で思いもしなかったイメージを与えてくるとはおもえない。映画の冒頭で、布を染色するシーンから始まるのだが、そめられる布は、内臓の動きのように見える。しつように長いこの染色のシーンが肉体の一部をイメージさせ、血を思わせる。後に、同棲の男が浴槽で自殺するが、まっかな血で染まった浴槽の中の男への導入にもなっているのだが、血のような布が、内臓のように見えるというのも、直接的な類比で、けっしてイメージが広がるとはいえないのだ。見下ろした眼下の竹林が強風で揺らめくのが、内面の衝撃を伝え、雨が涙をつたえと、シーンのそれぞれは内心の比ゆとなっているが決して隠喩にまではならず、直喩に終わる平凡さが不快である。
この映画は、奈良県飛鳥地方を舞台としている。この自然の風景は、映画シーンとして作られたものである。飛鳥といえども戦後日本の消費活動から手付かずのままでいるはずがないのだ。郊外ロードショップが立ち並び、安宿からマンション、居酒屋からかフエ、住宅にコンビに、即物的現世的都市の開発に、切り刻まれててしまった飛鳥の自然を、映画的シーンで再構成したものである。これをもって日本とするならば、この映画を見て飛鳥地方を訪れる欧米人は、ショックをうけるであろう。芸術はどこにもないとあきれかえるであろう。
この虚像の上に映画はつぶやくような台詞だけで進展していく。台詞もまた、虚像をイメージさせるためにだけに用いられる。この台詞を聞き、この映画で一人の女をめぐる2人の男の一人が勝つ、女を自分のものにするという主題が、納得できるものではない。なぜなら、なんの戦いも葛藤もこれらの登場人物には感じられないからである。あるのは、芸術という名の現実逃避である。
この映画は奈良県の飛鳥村の自治体の支援で製作されている。まずは観光映画であるというのなら、それはそれでいいのではないか。カンヌで成功して宣伝効果おおありであるからだ。それは芸術とはなんの関係もない俗物性であり、まさにこれが映画の特色なのであることを再認識すべきであろう。