市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎市発の映画「voices」

2004-12-27 | 映画
 宮崎発の映画「voices」の完成披露試写会があった。宮崎市制80周年記念事業として、宮崎映画祭にかかわってきた若者が企画・製作、宮崎出身の監督、俳優たちと市民たちの俳優・キャストが共同で完成した映画である。これまでも、市制記念事業の出版、演劇、オペラなどもあったが、いつも観光宣伝か、お国自慢のチンドンやを超えるものはなかった。今回も企画の段階から興味も関心もなかったのだが 今回は違っていた。意外であった。ぼくは、この試写会を見終わったとき、なにより宮崎市市長、宮崎市行政関係者が、この映画をみて、どんな感想をもったのか、ひどく知りたかった。
 この映画にはいわゆる南国宮崎はない。どこにもあるような地方都市だ。そこに中学生、同棲中の二人、休みでガールフレンドを連れて帰省中のアベック、危篤の老女と中年の一人息子、幼女、レトロな写真館を営む老夫婦などが登場する。それぞれは、それぞれの人生を抱えており、短い台詞でそれぞれの問題点が明らかになる。それが相互の関連を生みだし、全体がまとまって、宮崎市の今が伝わるというなかなか巧妙な構成である。これが一連のイメージとなって残る。荒削りではあるが、宮崎市の新しい詩情もあった。
 映画は朝日の気配を感じておきだして障子を開く幼女、同じく朝日の差し込むどこかの病室で死に瀕している酸素吸入器の老女、まだ暗い海岸をひたすらに走る女子中学生で始まる。この冒頭のシーンはこの映画全体のトーンを示している。それは、孤独で切なくて、懸命にひたむきに生と向き合うしかないという生きる今を現していた。このどうう暗さを市制80周年の現実としてどう認識できたのかしりたいのだ。
 女子中学生は、転向してきたのだが馴染めず、走る事で克服しようとしている。別れを決意した女性が男にだまって空港に向かう。里帰りした若者は、宮崎市街をみおろして、ちっとも変わってないと嘲笑を浴びせる。レトロの写真館の老夫婦は、もはや、過去にしか興味がない。夜景の繁華街の街角は、画面いっぱい、野村證券、霧島焼酎、レイクの巨大な電光看板がスクリーンの半分を占める。とおり騒ぐ若者、すわりこむアベック。別れられず、また帰宅した女。暗い海岸で海を見つめる走る中学生。
 一夜が明けたのか、呼吸器をはずした老女の穏やかな顔を覗き込んでいる息子。死んだのか、落ち着いたのか、はっきりしない。あのぜいぜいという呼吸はもはや聞こえない。しかし、今朝もまた朝、海辺を走る中学生の呼吸に引き継がれている。その吐く呼吸に込められた感情が視るものを否応無く捕らえつづける。
 これが、宮崎市の今だと企画・製作したわかものたちは言っているのだ。ここには浮ついた華やかさも、明るい希望もない。そう、なにも変わらない消費社会の地方都市がある。そこに生きるかれらの心情を感じられる。ある意味ではどん詰まりである。しかし、声をあげて批判するのでもない。ことさら政治的動きをするわけでもない。あの呼吸の切実感だけが生々しくある。暗く絶望的というのではない。今をともかく生きぬく意志が、老女を超えて残っていく。ここにこれまでとは
ちがった宮崎市民のしぶとさを感じさせるものがあった。ここに共感を覚えるのだった。






コメント (4)
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