市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

 外山 恒一都知事候補

2007-04-07 | Weblog
 外山恒一都知事候補には、2001年に宮崎市で劇団「どくんご」の「踊ろうぜ」の公演で会っている。物静かな大人しい平凡な若者にしか感じなかった。受け取った彼の過激な政治運動的なちらしとは、結びつけようもなかったし、それに今は70年代ではないのだから、どくんごをこんな運動と関連付けられるのも時代錯誤と、あまり関心もなかった。風変わりなどくんご追っかけと思っただけだった。
 
 つぎに会ったのは、2005年、どくんごの「ベビーフードの日々」を上演プロデュースした6月だった。かれはスキンヘッドでテント脇の受付にぽつんと立っていた。まだ追っかけしているのという感じしか受けなかったが、3日間の上演が終わって、かれがぼくら実行委員会に手渡してくれた本を読んでみた。まさに70年代の過激派ぶりで、このときは、刑務所での獄中闘争という記事が展開し、そのあまりにも自己本位な主張には、あきれもしたが、すがすがしさも感じたのであった。しかし、このときもその主張とかれのイメージが結びつかず戸惑ってしまった。
 
 その翌年、つまり去年の6月、鹿児島県桜島で前衛演劇、革命演劇を上演するのでと案内を受けた。どうもちがうんだよなああ、演劇はもっと娯楽なんだからという思いで足が進まなかった。ところが実行委員だった1人の女性が、ただ1人で観劇に行ったのある。このときの模様を彼女は、ただただ苦痛の連続だったと話、大笑いしたことがある。4月6日、鹿児島港から連絡線に乗せられ、島に上陸するやチャーターのバスで、行く先も告げられず暗闇を走って連れ去られて行ったという。異常なほど冷える夜で、寒くて、寒くて、おしっこに行きたくて、早く終わって終わってという願いだけで耐えまくった芝居だったというのだ。
 
 外山恒一、脚本、演出、出演の演劇は、超過激なアングラ風だったのだろうか。
とんでもない自分勝手な上演だったにちがいないと、それ以来かれのことは念頭から蒸発してしまっていた。

 それが数日前、グッグルニュースで、都知事立候補を知ったのだ。そしてユーチューブでテレビの政見演説を視聴したのだ。ほんとぶっ魂消るとはこのことだ。

 外山恒一は、これまでの印象とはまったく一変してしまっていた。なによりも
かれは役者であった。これは6分間の最高の演劇であった。すばらしいギャグ、明日のジょーからセンチな部分を抜けば、寅さん映画を劇画にすれば、このような
生き生きした漫画チックなドラマが可能なのだと、底抜けに愉快を感じた。かれとはいったいどんな人物だろうか、にわかに興味がわいてきた。またかれを囲む
メディアのうろたえぶり、くに週刊朝日もまたギャグマンがに見えたのだ。地代は換わりつつあると面白かった。多分彼は20万票くらいを集めるのではなかろうか。
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