「ハラがコレなんで」は、前作の「川の底からこんにちは」から入っていくほうが、「ハラがコレ・・」の主題を説明しやすい。「川の底からこんにちは」は見終わってある種の違和感が残る。ヒロインの佐和子は、自分を「中の下」といい、駆け落ちしても男にすてられたバカ女といい、恋も仕事にもやる気を失せたまま、物語はすすんでいく。ところが父の癌で故郷に帰り、倒産寸前の「しじみ」会社をつぐ。村人たちは、駆け落ちした社長の一人娘と好奇心で評判となり、従業員の中年女たちは軽蔑心しかない。そのうちにいっしょに来た子連れの恋人替わりの元上役にも浮気で逃げられる。佐和子の負け犬ぶりが、つづくが、父の死が迫りきて会社の建て直しに目覚める。そこからやる気が爆発、会社の再生と彼女の再生が始まりだす。人生のリセットがなるという物語だとなる。
だが、このストーリーとは、ヒロインの行動は、ずれているというか、こんなリセット筋に納まらない。ヒロインの存在は、境遇にめげず、生き方はかえられるという再生物語には沿っていない。このはみ出しが、ぼくをおおいにわくわくさせてくれたのである。この映画のキャッチ・コピーは、「中の下だからこそ、がんばれる」とあるが、こんなくだらぬことではないということを、感じることが、肝要であろう。がんばれば、世界はよくなるのか、中の下でも自分は上に行けるのか、それは幻想でしかないのだ。
「川の底」から、かんたんに浮き上げれるわけがないのだ。昔はプロレタリア、その政治的イデオロギーを脱色すれば、平成の湯浅誠の貧困救済村の住民である。もっと適切なのは、三浦展の「下流社会」の人間たちがある。三浦によれば、所得が低く、働く意欲もなく学ぶ意欲もなく、人と交わる意欲もない、つまり生きる能力がないので、社会からずり落ちて貧民になっていく階層だというのだ。生活意欲の欠乏が原因で貧困になる若者たちである。三浦は、この貧困を社会的無業とよび、「仕事をしなければ、自分は見つからない」(2005年刊)と警告した。ますは、働け、それしかない。自分がどうのこうのといっている場合か、働いて正社員になってこそ自分ありだと説くのだ。現実はどうなのか、働きたくても織がみつからない、正社員になれという三浦のアドバイズどおり、正社員のパイは限られている。今年の大卒の四分の一は非正規労働者に追い込まれている。いや、そもそも職がない現実がある。働く意思がない、生きる能力がないということとは関係はないのだ。「川の底から・・」が、こんな現実にほうかぶりして、まさか、父の死で根性を改め、働く意欲に目覚めて人生をリセットした話を、主題にしたわけがない。石井裕也は、どんずまりの時代の子であるのだから。脳天気の三浦世代とは違う。
そこで、全体の構成をもういちど思い返してみよう。その冒頭のシーンの意味は、なんとうけとれるだろうか。ヒロイン佐和子を演じているのは、満島ひかりで、この開幕シーンでは、汚れた感じのエステのベッドに毛布をかけられて横たわっている。中年女の施術師が「ハイ、入りまーす」といって、毛布のなかで彼女の肛門に管を入れる。ぶーんと機械が音をたて、大腸からつまった便を吸出しはじめる。「気持ちいいでしょう」とまた声をかけるが、返事もせずにらんらんとした目を開いまま、なんの感情も示さず、佐和子は体をよこたえたままである。この佐和子を満島ひかりが演じていることが大きい。これは「中の下」「バカ女」の説明ではないのだ。ここにあるのは、ヒロインの強烈な世間離れした個性である。満島ひかりの前作「愛のむきだし」でみせた、戦闘する少女を、連想させもする。監督石井裕也が、彼女の肛門にうんこ吸引パイプをつっこむという発想をしえたのは、ヒロイン佐和子を演じる満島ひかりの戦う少女のイメージがあったからであろう。反応もみせず、表情にもあらわさず、自分の肛門にパイプを挿入させて、うんこを排出するという行為は、「中の下」とか「バカな女」の劣等意識ではなく、むしろ優越感にもなりうる自己認識である。あなたは、エステで便秘をパイプで抜いてもらう勇気があるのだろうかと、あてつけるがごとくである。そこまで言わなくても、このうんこする彼女は、「中の下」でも「バカ女」という自己卑下ではなく、だれにも止められない自分があるという行為の女なのである。その姿や意識は、満島ひかりだから、なによりも表現できたのである。
次のシーンでは、彼女はトイレットで便器に腰掛たまま、トイレットペーポーを手にしてなにかをしようとして止めたまま、なにやら二人の女性同僚と世間話をしている。話はトイレの外までつづき、監督に見つけられ大声で仕事場に追い出されると、あわててひっくり返って、これが契機ともなり会社も止め、故郷で仕事にありつくことになる。男というより忠犬とみなしている元上役だった中年の子連れ男は、田舎こそ人間の里と思い込み、かれにもせがまれて、父の経営するしじみ会社に帰るわけだが、父を救うとか、会社を再興するとかの意欲など、あったわけではなかった。ただなりゆきで帰郷したことが、人生を変えてしまっただけにすぎない。これもなりゆき。これが見逃してならないヒロインの姿勢である。世間的なやる気とか、がんばる根性などはまったくなかったのだ。あるのは、自分自身だけ、これがすばらしい。村人のかげくちも、社員のしじみ加工の中年主婦たちの軽蔑も、いっさい佐和子に影響を与えない。自分がどうするかだけが、日々の故郷暮らしでも、工場の作業のなかでも彼女を動かしていく。彼女は自分で動き出すのは、なによりも外からの強制でも、条件でもなく自分自身の内発からくるだけである。この佐和子の強靭さは、冒頭の吸引ポンプで排便をするシーンの表情を変えないまま横たわっている姿勢と重なっている。
まさに突然、社長の責任に目覚めた佐和子が、朝礼で女子作業員を前にして18歳で駆け落ちして何で悪い、相手を好きなってなんでいけない、若さの無知な行動であったかもしれないがいっしょう懸命だったのだという訴えを朝礼で話始めだすシーンは、人を打つ。社員たちがただちに悟れたのは、彼女の真実感であり、彼女への見方が一変してしまう。それを可能にしたのは、佐和子の自分自身であれという強さを観取されたからである。ここから会社は、活気に満ちだす。毎朝の社歌も、変えられ、金持ちなんかへのかっぱ、消費税も大増税もやってきて生活できなくなれば政府をぶっこわすという歌詞がもりこまれ、川の底からこんにちはとつづく。この歌がいい、もちろん革命歌ではなく、政治性もないが、2011年の庶民の不満をよくあらわしている。
この再興し始める工場でも、うんこの排出は再現されているのを見逃せない。佐和子は、毎朝、こんどは糞便を肥え桶で汲んで工場の敷地の溝に近い草むらに撒いている。エコ好きの中年男の加勢もかたくなに拒んで、佐和子はまきつづけるのだ。叔父も手を貸そうとするが、これも断って、毎朝つづけていく。ある日彼女は草むらに小さな花が咲いているのを発見する。父は癌で死ぬが、その葬式の朝も肥え桶を、草むらに運び出すが、そのとき、大きな西瓜が、育っているのを見つける。まかれた糞便がそだてたともいえる。小川にながれこむと思われる糞便は会社の、川底にしじみをも育てることになろう。自分の大腸につまったうんごを吸引ポンプで無駄に捨てていた状況は、別の有効なことになったのだ。これを解釈しなおすと、自己表現は世界をかえるかもしれないということかもしれないのである。ただし、それは、三浦展の言うように、社会で働いて、経済的な確立を果たすという以上の意味を暗示するのである。金だけ稼げが、すべていいというわけではないことを、うんこを使って表現しているのだと、解釈できるのではないかということである。そのことが、つぎの「ハラがコレなんで」に引き継がれているのである。