市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第18回宮崎映画祭 言語の可能性

2012-08-16 | 映画
今回もまたおもしろい邦画2作品、「婚前特急」と「ハラがコレなんで」に出会えた。なんでこんなにおもしろいのだろう。それに比べて、上演された欧米作品はなんとつまらないことか。以前は邦画など見る気がしなったが、今は欧米作品より邦画がおもしろいと、映画祭で見るのを愉しみにしだした。邦画が欧米よりも見るに値すると、ここ数年逆転してきた。文化状況が変わってきた時代を思わざるをえない。

 その邦画2011年4月公開の「婚前特急」を初めて映画祭で見たわけであった。どんな内容か見当もつかなかったが、タイトルからは、ありきたりの喜劇かなという感じしかなかった。上映がはじまると、たちまち吸い込まれていったのは、その言語のおもしろさであった。ヒロイン池上チエがいい、どだい人生を楽しむために、それぞれに快適な時間をあたえてくれるさまざまの職業、中年から年下まで、5人の男たちと交際している。その合理的手練も親友がとつぜんできちゃった婚をして、その幸せな様子をみて、一変、結婚願望に走りだし、彼女に負けない最高の結婚を目指す。彼女の合理主義は、さらに加速される。ただちにチエがとりかかったのは、交際中の5人の男たちを職業から地位、境遇、年齢、知能、性格、将来性と「査定」一覧表を作成し、低い順から関係を清算していくことにした。「査定」ということばが、なんとも生々しい。まさに資本主義企業並の事業展開である。査定の結果、最低点の田無タクミがまずリストラの対照になった。そしてタクミを呼び出し、リストラつまり別れ話をもちかけた。だが、「おれたちつきあってないじゃん」と返答したのだ。自分は雇用主と思っていたプライドは吹き飛ばされてしまう。チエは、タクミを自分に本気で惚れさせ、その上で振ってやる、それしかないと、ふたたび彼女の信じる合理的行動に移していく。その日から2人の関係は、予想外の展開に入っていくことになる。

 この後、チェエは、自分に惚れさせるどころか、タクミのパン工場の経営者の一人娘に思いを寄せられていることを告白され、その仲介を頼まれる。その女がヤリマンでしかないことを、つきとめチエは意気揚々とタクミに忠告するが、ここでまたタクミの返答、ヤリマンであることが、2人の愛にはなんの影響もないことに反論できなくなる。こうしてまた、つぎの合理主義をこころみることになっていく。このようにチエとタクミで交される言葉のズレが、一枚、一枚とチェの合理的判断と行動を剥ぎ取っていく進展になっていくのだ。今、それこそ、DVDを借りてきて、2人のやりとりする、その言葉を追いかけてみたいものである。この2人の発する言葉は、活字で学んだ言語や使用法とは、まったく別次元、おそらく、漫画やテレビ、パソコンやメールの日常言語、これらを共通言語とする同年代の友達などによって培われてきた言語であると、ぼくは思うのだ。そうした言語による会話を、活字世代の俳優が、シナリオ通り会話してもおもしろくもなんともないはずである。言葉は身を現し、身は言葉を現すからである。チエ役の吉高由里子の甲高いが甘い声、怒っても可愛い、査定などと高止まりしても、どこか子どもっぽい純粋さなどなどが、台詞を極めて魅力的にする。タクミ役のミュージシャン出身である浜野謙太、腹の出た短足で脂滲む体の存在感が、チェを圧倒し、いつも決断とはいいがたい、ぼんやりした、あいまいな自信のない口調が、つかみ所を失わせ、チェの必死のありきたりの言葉を吹っ飛ばしていく、その無抵抗であるが動かない立ち位置を話す言葉が合理主義のうろこをはぎとる。こうした言語のやりとりは、突然に上昇、下降するジェット・コースターの快感となる。その風景に資本主義的原理が一枚、一枚はぎとられいく現代風景が広がっていく。この展開の現代性は、欧米映画を無価値にするほど感受性にあふられている。、

 2人のやりとりは、お笑いのつっこみと受けにも似ているが、目的はもっと「哲学的」であるとぼくはいいたい。「査定」するという日常用語が、ほとんど役に立たないことを、2人の会話はあきらかにしていくのだから、これだと決まった言葉が、実はなんら自分の本心をも現しているのではないということが、わかっていくのである。つまり哲学の機能である。教養とか、常識とか、モラルとか、習慣とか、合理的なライフスタイルが、一度視点を変えることによって、どんどん崩れだす。そして本当の欲望を気付かせてくれるのだ。この映画にも万葉集の恋歌が登場する。自分と違った恋人を獲得できたタクミの無知ぶりを、こんどこそ暴いて大恥をかかせてやろうと企てたチエは、自分も交際相手の一人をつれて、お鍋パーティをタクミのヘヤで開くのだ。ふとしたときに、万葉集の一句が、タクミの口から出ると、外の2人が即座に下の句を唱和しだした。万葉カルタからである。それからつぎつぎと万葉歌のやり取りとなり、自分が一番知性的と自負していたチェだけが、歌を知らずに疎外されていくというシーンに最後の決定打をチェは打ち込まれる。後は終幕に一直線につっこむジェットコースタの快楽に身をまかせられる。
 
 見終わって、あらためて教養も文学も芸術も吹き飛ばせの彼らの言語感覚が脅威的である。まるで賛歌だ。この万葉歌の挿入は、芸術作品を目指した河瀬直美の「朱花の月」にも挿入されているが、万葉はどちらで生きているか、言わずと知れた、かれら無教養と見られた若者たちのほうであろう。

 映画がおもしろいといっても、たんにおもしろいだけでは、飽きがくる。おもしろさに加わるものがあってこそ、おもしろさが魅惑する。おもしろさに加味されたものとは、知的なものとでもいえようか。ほかに適切な表現が思いつかないが、この場合、「知的」とは、世界がこの映画を見て
新しく見え出すということになる。これが、ここ数年の邦画のカンヌ映画を越える面白さである。
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