石井裕也監督映画「ハラがコレなんで」を激賞したぼくは、蔦やからDVDを借り出して、女房に見せる決意をした。食後の後片付けに台所に立っている彼女にはよ、はよと急かせて、リビングのREGUZA47インチテレビを前に座った。ハラこれ・・は、盆休みのせいか、貸し出されていて空のケースだけが10ケースほど並んでいたが、昨日ようやく一本がもどってきていたのだ。仲 里依紗(なか りいさ、1989年10月18日 - )に度肝をぬかれろよと、ぼくは彼女を横目でみながら、開幕シーンに入っていったのであった。やっぱりいい、仲 里依紗、あのふてぶてしい歩き振り、妊娠9ヶ月の腹をせり出させて、外股でゆたゆた、のしのしとなにものも私を止めるものはないと歩く姿は、用心棒の椿三十郎だ、もはや女房が問題ではない、僕自身がどうこの映画にふたたび向き合うかであった。
開幕20分ほどすぎて、目の前に座ったソファーの女房を見ると背筋を伸ばしたまま、目を閉じていた。「眠らんで見てよ」と思わず叫ぶと、返事もせずに目を開けた。一時間ほどして、床下の不発弾が爆発するという、いよいよクライマックスの序章が始まったが、女房はびくともせずに、しゃんと背筋をのばしたまま画面を見入っているようにおもえたのだが・・。こうして、映画は2時間あまりで、無事に終了した。ほっと息を吐いて、興奮をおさえようとしていたら、「こんなばかげた、りくつにもなんにも合ってない、くだらぬ映画のなにが第一級の作品なのよ、あんたの浅はかさ、みーちゃんさ、演歌好き、のど自慢好き、そんな程度の人間にちょうど向いているのよね」と、ぼくを罵倒しだしたのである。
今回はぼくは、あまり反論はもちろん、内容についても説明もせず、彼女の言い分は、映画についてでなく、ぼくを攻撃する意図でものを言っているという意識だけじゃないかと、黙る態度を取っていった。おそらく、「ハラがコレなんで」を感動的に見るというには、芸術とはなにかとか、現代の状況とはなにかとか、ややこしい論議をせざるを得ない。こんな社会学的、思想的な会話を女房と交わすには、ぼくはあまりにも俗物性を、彼女にさらけ出して半世紀もともに、暮らしてきているのだ。こんな純粋な気取った知識人的会話など照れくさくてやれるもんではないのだ。ということで、女房との映画鑑賞は終わったのだが、こんなばかげた、理屈に合わない映画という彼女のひねくれた指摘が、実は最近の日本映画の特色を現しているので、これらを契機として、ぼくなりに「ハラがコレなんで」を論じてみようと思いたっにいたったのは、一つの幸いであったかもしれない。
さて、ここでぼくがはっきりといいたいのは、「ハラがコレ」は小津安二郎の「東京物語」や黒澤明の「生きる」よりもぼくは好きだということなのである。そんな映画とは違うのだ、リアリズムではないのだ。ということとなれば、なんなのだ、シュールリアリズムでもないし、ドキュメントでもないし・・そう、それは「寓話」だという見方をすると、他人に説明しやすくなる。そうだコレはぼくにとって寓話なんだ。蛙や犬や亀、蟻などの動物を使って、にんげんのバカさ加減を、笑わせるイソップ物語の寓話がある。あれを教訓とし、ありがたがるむきもある。あれは、人間への西欧的悪口である。鋭く短い悪口ではないかといえる。それでハラがコレとは、違うのだが、教訓でないという点だけで重なる。他方にもっと長いジョージ・オーウェルの寓話「動物農場」を思いつく。こちらの寓話は、映画にできたほどに十分長い。ソ連共産主義の非人間的制度を、豚や犬や馬を使って見事に暴いた。寓話形式にしたため、全体主義の発生や制度が明快に伝わってくる。これでもって1940年代の当時、オーウェルを怒らせていた世界中の知識人のソ連共産党万歳の意識をぶちくだこうとした。寓話は、架空であるが、架空であるがゆえに、ツンドラ化した意識に、現実を明示する機能をもたせることができるのである。ぼくが東京物語や生きるよりも、「ハラがこれ・・」をおもしろいのは、今を知る、感じることができるからである。「どこが、どうおもしろいんよ、ばかばかしい!」という直感は、寓話という見方に立てば反対の見方にいたることが可能。ではそろそろ本題に入って行こう。
開幕20分ほどすぎて、目の前に座ったソファーの女房を見ると背筋を伸ばしたまま、目を閉じていた。「眠らんで見てよ」と思わず叫ぶと、返事もせずに目を開けた。一時間ほどして、床下の不発弾が爆発するという、いよいよクライマックスの序章が始まったが、女房はびくともせずに、しゃんと背筋をのばしたまま画面を見入っているようにおもえたのだが・・。こうして、映画は2時間あまりで、無事に終了した。ほっと息を吐いて、興奮をおさえようとしていたら、「こんなばかげた、りくつにもなんにも合ってない、くだらぬ映画のなにが第一級の作品なのよ、あんたの浅はかさ、みーちゃんさ、演歌好き、のど自慢好き、そんな程度の人間にちょうど向いているのよね」と、ぼくを罵倒しだしたのである。
今回はぼくは、あまり反論はもちろん、内容についても説明もせず、彼女の言い分は、映画についてでなく、ぼくを攻撃する意図でものを言っているという意識だけじゃないかと、黙る態度を取っていった。おそらく、「ハラがコレなんで」を感動的に見るというには、芸術とはなにかとか、現代の状況とはなにかとか、ややこしい論議をせざるを得ない。こんな社会学的、思想的な会話を女房と交わすには、ぼくはあまりにも俗物性を、彼女にさらけ出して半世紀もともに、暮らしてきているのだ。こんな純粋な気取った知識人的会話など照れくさくてやれるもんではないのだ。ということで、女房との映画鑑賞は終わったのだが、こんなばかげた、理屈に合わない映画という彼女のひねくれた指摘が、実は最近の日本映画の特色を現しているので、これらを契機として、ぼくなりに「ハラがコレなんで」を論じてみようと思いたっにいたったのは、一つの幸いであったかもしれない。
さて、ここでぼくがはっきりといいたいのは、「ハラがコレ」は小津安二郎の「東京物語」や黒澤明の「生きる」よりもぼくは好きだということなのである。そんな映画とは違うのだ、リアリズムではないのだ。ということとなれば、なんなのだ、シュールリアリズムでもないし、ドキュメントでもないし・・そう、それは「寓話」だという見方をすると、他人に説明しやすくなる。そうだコレはぼくにとって寓話なんだ。蛙や犬や亀、蟻などの動物を使って、にんげんのバカさ加減を、笑わせるイソップ物語の寓話がある。あれを教訓とし、ありがたがるむきもある。あれは、人間への西欧的悪口である。鋭く短い悪口ではないかといえる。それでハラがコレとは、違うのだが、教訓でないという点だけで重なる。他方にもっと長いジョージ・オーウェルの寓話「動物農場」を思いつく。こちらの寓話は、映画にできたほどに十分長い。ソ連共産主義の非人間的制度を、豚や犬や馬を使って見事に暴いた。寓話形式にしたため、全体主義の発生や制度が明快に伝わってくる。これでもって1940年代の当時、オーウェルを怒らせていた世界中の知識人のソ連共産党万歳の意識をぶちくだこうとした。寓話は、架空であるが、架空であるがゆえに、ツンドラ化した意識に、現実を明示する機能をもたせることができるのである。ぼくが東京物語や生きるよりも、「ハラがこれ・・」をおもしろいのは、今を知る、感じることができるからである。「どこが、どうおもしろいんよ、ばかばかしい!」という直感は、寓話という見方に立てば反対の見方にいたることが可能。ではそろそろ本題に入って行こう。