市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ゾンビ言語に憑かれる菅直人 -Readable- 編

2011-06-09 | 社会
 
 この投稿エッセイは6月9日の「ゾンビ言語に憑かれる菅直人」を読み易くしたものです。ぜひ、再読してください。闇夜の荒海を航行していく船を進める菅船長が、いかなる人物であるかを知ることは、乗船者が遭難からサバイバルできるベストな手段であると思うからです。

菅首相は7月中には退陣するという予想が現実味を帯びだしてきている。これでとどめを刺せるのかというと、どうも予断はできない。かれの進退を左右するのは、党内や野党による首相の退陣再確認という言語ではなくて、菅直人言語とでもいうべき言語だけが、かれの行動を決定させるからである。その言語とは、ゾンビー言語というべき言語である。

 ゾンビー言語とは、本来の意味を失いながら、まだ生きている言語のことである。たとえば、格差社会での自由・平等、その現実では、人間は生まれながらにして自由・平等であるなどという言語はナンセンスである。土地は値下がりしない土地神話も、意味をうしなった。「原発安全」も「想定外」も東北大震災や福島原発事故で、それまで、あれほどの明白な日常言語が、死んだ。もちろん、本来の意味は生きている。まさにゾンビである。
  
 菅直人が、政治家となり権力の頂点まで上りつつける過程を調べていくと、このようなゾンビ言語の使用が、見事な効果をあげているのを知ることができる。上昇階段を押し上げるばかりでなく、首相になってからの失策も、悪評も、責任を問われそうな危機も、あれよあれよと下馬評をやってる間に乗り切らせ、面目回復の原動力となってしまうのだ。例えば、昨年10月の尖閣諸島沖衝突事件を取り出してみよう。菅内閣が中国の圧力に屈し、船長を処分保留のまま釈放してしまった事件で、菅総理のうむやまな対応が、批判を浴びることになった。だが、菅首相は、翌月、ブリュッセルでのアジア欧州会議の際、温家宝首相との「廊下懇談」を成功させたと意気揚々の談話を語った。それは、温首相が「中国漁船衝突事件については、あなたは日本の立場がおありでしょうから、今日は言いません」と語った。この懇談を、かれは、同行記者団に「温首相から原則的な話があり、私も尖閣諸島はわが国固有の領土であり、領土の問題は存在しないという原則的なことを申し上げた」と報告した。すぐに、これは嘘の報告だったことが、関係者により漏れてしまった。これでは、菅首相の尖閣諸島は、日本領土であるということが、恩首相を黙らしたということになる。そんな話ではなかったのだ。要は、温首相が廊下の立ち話で、菅首首相の立場に理解を示しただけ、いわば武士の情けという行為であったのだ。それを拡大解釈し、尖閣諸島は、自己の領土であるから領土の問題は存在しないという主張にまで、拡大されていった。その後もこの原則は何度もメディアで踊った。固有の領土かどうかは、裁判によって明かすしかないのであるわけだが、固有の領土ということばだけが、まかり通っていった。「廊下の懇談」というありえない首脳会談のゾンビ言語が、ここでは巧妙に生かされており菅首相も、ここで息を吹き返してくるのである。

 しかし、さらにぼくをおどろかせたのは、この一ヶ月後の2010年11月、メドベージェフ露大統領の(北方領土)訪問についての菅首相の対応であった。首相は「ロシア大統領の北方領土訪問は許しがたい暴挙である」と、その前の中国への対応とは、同じ人間の反応とは思えない居丈高な口調で、ロシア大統領を難詰したのである。戦争でもしかけるつもりかと、おどろくのだ。もちろん戦争するのは、かれでなくて日本国民となる。この態度の急変は、世論や野党の弱腰外交の非難を、意識してのことであり、ここまで言っても、いや言うからこそ、喝采を浴びるという計算があったと思える。発言の場は、北方領土返還要求全国大会での講演であった。つづけて、かれは北方領土問題を最終的に解決し、平和条約を締結するという基本方針に従い、ロシアとの交渉を粘り強く進めると論を進めていった。この後段は、前段の「暴挙」の一言で消し飛んだのを、自覚もできず、話は高揚しつづけていった。かれについては、格好のつくゾンビ語「暴挙」が、なんの考慮もはらわれず口につき、その結果がなにを生じさせるかも感知もせず、不安も感じず、ただ生き生きと菅直人の口から出てきたことには、驚愕させられた。このとき、ぼくは初めて菅首相がゾンビ語に憑依されているという風に考えると、かれを理解できるとかんがえだしたのである。

 それにしても、彼の言語感覚はどうなっているのか、ぼくは、このことにだんだん興味を惹かれだしたのだ。このことに関するもう一つの事例を上げてみよう。今年2月になると、菅内閣の支持率は、ついに20パーセントを下回り17.6パーセントの支持率まで下がってきた。ここで彼が示した言語感覚がある。

 そのとき、つまり今年2月、彼を取り巻く政治状況は、菅直人首相の退陣論が急速に広がっていく。しかし菅首相は退陣を拒否し、衆院解散・総選挙をチラつかせて退陣論に対抗した。記者団が衆院解散の可能性をただしたのに対しては「国民にとって何が一番重要かそのことを考えて行動する」と可能性を否定しなかった。ここで、「国民」が口に出てくる。これもまた彼にとってはゾンビ言語なのである。かれにとっては、実体としての「国民」は後でのべるようにすでに存在していない。「国民にとって何が重要か」ではなくて「自分にとってなにが重要なのか」が、生きたことばなのである。ゆえに内閣支持率には、かれも弱気になっていったようだが、そのときに菅夫人ば「支持率がマイナスになることはないから、続けなさい」という励ましたという。支持率調査でマイナスになることはない、これが大きなこころの支えになっていると記者に語った。「支持率がマイナスになることは、ありえない」とは、表現のトリックでしかない。かれも理工学部出身であれば、支持率17.6パーセントの残り82.4パーセントがマイナスの支持率であることは、直感で理解できるはずである。しかし、ここに目をつけなくて、このトリックにかぶせて、だからたとえ支持率1パーセントになっても、私は総理を辞めるつもりはないと決意を述べている。

 では、この決意は、なにを語っているのか、この一連の表現のナンセンスが明らかにしているのは、市民運動家であった政治家菅首相にとって市民とは、あるいは大衆は、居ても居なくてもなんの関係もないという本音の意識を表しているのである。市民という実態は、ゾンビ言語に憑依された菅直人にとっては、もう意識にも登ってこない。かれは、意識して正しい行動をしているつまりであるが、無意識の中に棲息するようになった行動原理が、かれの行動を決定づけているのだ。しかも、かれは、それを自覚も認識もできない。

 実は、もう市民とか民衆とか、生きた実態としての人間は、かれの市民ということばにはないのだ。まさに市民はゾンビー言語に変わっているのだ。その生々しい例をもう一つ挙げてみよう。4月2日、かれは岩手県で震災被害が大きかった、陸前高田市を視察した。だが、その振る舞いは被害者を激憤させるものであったと、報じられている。以下はそのときの状況の引用してみよう。

 
「菅首相は、がれきの山となった市街地を見て、眠そうな目で『津波ってすごいんですね…』とつぶやいていました。まるで、人ごとのような口ぶりでした」(前出・官邸関係者)
(中略)
だが、菅首相が避難所の一つである、米崎小学校を訪れたときのこと―。
「菅首相は、被災者が寝泊りしている小学校の体育館に、土足で上がろうとして、あわてて周囲に止められたんです。目を疑いましたよ」(前出・地元関係者)
 おろしたての靴を気にして、泥水のたまっている場所は『靴が汚れる』と避けていたり。地元の人間として、怒りを感じました」(別の現地関係者)
この首相の様子に視察を願い出た黄川田議員も、ショックを隠せなかったようだ。
「あの、すさまじい被災地の光景を目の当たりにして、涙ひとつ流さず、防災服や靴の汚れを気にしているような人に、国民の命は任せられないと漏らしていましたよ」(前出・官邸関係者)
(引用「女性自身」より)

 被災者救済という言葉は、ゾンビー言語としてかれを生き生きとさせるのであるが、現実の被災者は、ことばのなかには存在していないのだ。

 菅直人にとって、言語とはなんなのか、それは実体が、ないのだ。実体の重たさ、困難さ、多様性、矛盾や混沌、つまり生きた現実がそぎ落とされている。輝くことば、だれもが、なかんづく市民という民衆が、その輝きに目が眩むという言語が、かれの使用する言語なのである。しかし、それは、かれが、努力してつむぎだして手に入れる言語でなく海岸の砂に埋もれている貝殻のようなことば、川岸にある置物にすぐ変えられる、かっこいい小石である。その貝殻や小石を、必要なときに、一瞬で拾いだせる能力に長けているのだ。しかし、このように拾われたのは、言葉の死骸なのである。

 かれはその言語を口にしたとき、その言語の意味がまさに実現したような陶酔を覚えているにちがいない。震災地復興計画で菅首相は、復興のイメージとして『世界で一つのモデルになるような新たな街」づくりをめざしたいと強調した。「山を削って高台に住むところを置き、海岸沿いの水産業(会社)や漁港まで通勤する」「植物やバイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウンをつくり、福祉都市としての性格も持たせる」などと構想を述べているが、これも実体はない。まさに言葉のポンチ画で、どこまでも実体を喪失したゾンビ計画でしかない。また主要国首脳会議(G8サミット)で、国内1千万戸の屋根に太陽光パネルの設置を目指すと話した。これは「国際公約」にもなる。これについて海江田万里経済産業相は27日、「聞いていない」と語った。後にこの話は演説草稿には書いてなく、菅首相が、その場で思いついてしゃべったとも報じられている。またテレビ番組で、この話は首脳会議に出張する先夜にソフトバンク社長の孫正義の話を受け売りしただけと笑っていた。いずれの場合も、かれは、自分の発言した言葉の表す現実を、想像することが出来ないのである。まさに言葉は、かれの理性を超えて、彼自身を支配しているがごときである。
 
 菅直人についてはさまざまな否定的言語がある。イラ菅に始まり、あ菅、い菅、空き菅などなどのあだ名から、ついに腹黒、権力亡者、ペテン師、詐欺師などという人間像まで語られるようになっている。しかし、ぼくには、人間像を語る言葉には違和感を覚える、かれには腹黒とか、亡者とかペテン、詐欺師とかの人間としての実体を感じることが出来ないのだ。まさに言語のゾンビーに憑依されていき、われわれの常識をはるかに超えた憑依者になっていると思えてならないのだ。常識社会でなく、あっち側としかいいようのない異次元との境界に閉じ込められているのではないかと想像する。現実の意味を失った言語だけが、自分を強固に支えていると自覚する首相となった菅直人は、つまりゾンビではないのか。「死んでいながら生きている」(20世紀初頭、急速な産業化で金のことしか関心がなくなった人間を指したジョージ;・オーウェルの表現)から、簡単に命を絶つことは、傍からも彼自身によっても不可能かもしれない。
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