菅首相が、今も総理の座にとどまり、そこを降りる気配もなく、また降りさせることも出来ない。民主党も自民党も手を失いつつある。前回は、菅首相をことばで説得し、動かすことは不可能なのだと仮定したことを投稿したが、その通りになってきた。なぜ、ことばが通じないのか、常識からすると、まさに明晰な論理がなんの効果もないのは、すでにことばの解釈機能を菅首相自身が失っているからである。ちょうど、登校拒否や、引きこもりの若者にことばで説得するようなものである。「もうがんばらなくっていいんだよ、人生は長いんだ、ゆっくりとすべきよ」とか、「もっと気楽に、楽しく、あそべるように仕事できるのよ、行こうよ、集まりに」とか、いくら、わかりやすい、妥当なことばを与えて生活を正常化させようと促してまったくムダだという症状に酷似していると思えるのである。かれらは、言葉の通常の意味は問題なく理解は出来る。しかし、自分にとってのことばとは、ことばの持つ常識的意味ではなく、そのことばが、自分の欲望にどれだけ有効かということしか判断できなくなっているのだ。だから、ことばで動かされることはない。石破 茂 議員は菅の強さを警告しだしている。舛添要一議員は、政治と評論を取り違え、しかもそのことさへ意識できず、大物政治家になったつもりだと批判したが、ここまで粘るとは予測もできなかったのではないか。
今や、ねばり強い菅首相といったイメージさへメディアに出てくるような状況になってきた。週刊紙もここにいたって申し合わせたようにペテン師とか詐欺師とかのパッシングが消えてきている。まったく、面白い光景が菅と議員をめぐって日々展開していく。こんなとき、孫正義社長の猛烈な接触がテレビのワイド番組を盛り上げた。次第にメディアの矛先は、民主党幹部のだらしなさや、自民党の駆け引きとかに焦点をずらしだした。まさにそこには大震災や原発による被災者の存在はなく、日本政治の完全な劇場化、そして菅首相を主役とするパーフォマンスになっていく。
一昨日のニュース番組だ、孫社長が、菅さん、粘りに粘り、最後までやり抜いてくださいと抱きつかんばかりのエールを送って、菅首相は、笑顔満面ジョーク連発であった。大震災100億円寄付のヒーローの支援とあっては、ことばなどとても及ばない元気薬が注入されていく。ふと思いついてソフトバンクの株価のチャートを調べてみた。
4月7日の100億円寄付を宣言して株過は上昇を加速していく。その20日後、4月27日から株価は下がり始めていく。3月当期の決算はマイナスであり、その決算が公告されたてから、5月7日以後も下がり続け、6月14日現在で、3500円から2800円と下がってきた。その谷底での菅と孫の大合唱というのである。ソフトバンクは総資産4兆で、有利子負債も2兆円ある。投資家の目は100億円寄付というような美談には、注目していない。市場のクールさを示す株価チャートが、その冷酷な判断を示している。孫正義の兵法という投書があった。曰く、
「缶もおだてれば木に登る」というのであった。
この菅首相をめぐる政治ドラマのなんといっても恐ろしいところは、政治の世界とは、利己的保身しか考えない嘘八百の世界であるという現実を、またしても知らされることである。そのニヒリズムを背負うことである。それが、なにより一部の知的な若者たち、いやこどもたちにテレビを通じてありありと示されることである。これはまた、教育上の問題そのものである。石原都知事も漫画の検閲よりも、大阪府の橋本知事も国旗掲揚、君が代の斉唱を条例化するよりも、この問題を重視しなければならないだろう。それにいろんな知識人が菅のねばりとか、菅卸しが間違いではあったとか、ときには、がんぱれとかミーちゃん・はーちゃんの言葉を吐いたりと、知の放棄に至るものもあちこちで出てきている。何をかいわんやである。
そういう週がつづいていた。
土砂降り雨天が先週はつづき、土曜日、日曜日も雨は降りやまなかった。今朝も午前8時には雨が降り出した。ところが、午後3時ごろになって、突然のように降り止んで、薄日が射すような晴れ間になった。そこで、先日から気になっていた、駐車場の南西の隅、建物の角にある紫陽花のところまで花の様子を、見に行った。ぼくには、花を見に行くというような習慣はないし、花には関心がないのだが、この花だけはべつなのだ。なぜ別なのか、今年まで、だれもその花に注意を向けるものもなかった。庭隅の雑草のように見捨てられていた。それが、今年の梅雨空の下で、いつの間にか、これまで見たこともないような濃い紫の花を咲かせていたのだ。ふつう紫陽花は、こましゃくれたように紫と白が夏の浴衣のように入り混じっているのだが、この花は、紫一色なのである。こんな紫陽花は、見た覚えがないのだ。スタッフに聞いてみると、去年までは、ほとんど花もつけることもなかったという。脇には毀れえ捨てられた木製の植木鉢もまだ残っている。それが、この開花であったのだ。聞けば、茎を切って植えれば、すぐ移植できるというので、自宅の花壇に植えようとかんがえだしたのだ。花を植える、こんなことは、ぼくにはありえないことだったがそれほどに美しい花になっていたのだ。
みにくい家鴨の子が、知らぬ間に白鳥になった物語を思い出した。それが雑草にも等しいうち捨てられた紫陽花の開花であるのが、胸を打つのだ。この孤独の花の華麗なる成長に、感銘をうけるのだ。半分は、毀れて産卵したままの植木鉢が、花の足元に散乱したままで、おそらく捨てられたのが、わきの土壌に根を張って、数年かけてみごとに成長し、ハッとするような美しい花を開花させたのである。これがなんともすばらしい。花はがんばろうとか、目標とか、達成とか、そんなことを言わないのがいい。黙って喪失した環境から脱出して、遂に凡百の紫陽花を圧倒するほどの個性的な開花をしたのに、おどろかされた。花に感動させられるとは、思いもしなかった梅雨時であった。今日からは明けが近づく気配を感じさせられるようだった。