サンアートアカデミー宮崎の第8回卒業研究製作展をカリーノ8階ガガエイトで観た。なんという心やさしい若者たちだろう。川端美幸のメッセージ本は、人の悩みがやわらぐように、辻千明の内科小児科のショーウインドの癒しの描画、聖書や古典から取られた箴言から作られた絵とかが、その感を高める。それはそれで、ほのぼのや、かわいさや、夢、たのしさがいやしとなってふりまかれる。これ格別に反対するものではない。
しかし、商業デザインもまたキャナルシティ博多、イオングループ、スコール、オカモトとかの企業や商品にすなおによりそい、その販売活動をささえるというのが、ちょっと疑問なのだ。そこにも企業へのやさしさを感じ、ふとそれでいいのかと思うのだ。林田恵梨香のキャナルシティ博多グランドバザールの広告企画、高田大幹のイオンのマックスバリューが運営するインターネットのレシピサイトとも、そのまま実用になるほどの優れた技術とアイデアの作品と思う。ただなんかちがうんだ。
つまりぼくが言いたいのは、まだ学生である君たちが、競って大企業の
ためにこれほどイメージを凝集するのは、もったいないよということだ。商業デザインで将来身をたてようとするならば、大企業がリードする消費社会を肯定し協調していくことは避けられないとは思う。でも今は、まだモラトリアムの時代、自由だろう。だったら、反消費社会の視点に立ってみたらどうだろうか。これによって、別の消費のあり方、未来の企業イメージ、大衆の新しい消費行動もみえてくるんではないだろうか。
じつは、やってもらいたいことは、この宮崎市で、懸命に生き延びようとしている小さな商店、飲食店などにエールを送るデザインを試みてもらいたいのだ。お好み焼きの「しぇこぱん」とか、喫茶「ウイング」とか、あるいは「江平市場」住宅地の片隅に残る昔コンビニの「日用・食品店 矢野」とかのレトロ空間とか、都市論からみてもおもしろい零細企業が当市にはいっぱいある。ここから、これまでにない斬新なデザインが生まれる可能性がかなり望めるのではなかろうか。ほんど、街には、もうどこをみても広告デザインばかりで、飽き飽きしているんだ、どれもこれもね。
本展で、ニューヨークに相撲の大看板をシュミレーションで画像化した山元大祐の日本発信には、商業広告をこえた新しさを感じたが、もっと超マイナーなものを巨大化する発信もできないものだろうか。
次回につづく。
しかし、商業デザインもまたキャナルシティ博多、イオングループ、スコール、オカモトとかの企業や商品にすなおによりそい、その販売活動をささえるというのが、ちょっと疑問なのだ。そこにも企業へのやさしさを感じ、ふとそれでいいのかと思うのだ。林田恵梨香のキャナルシティ博多グランドバザールの広告企画、高田大幹のイオンのマックスバリューが運営するインターネットのレシピサイトとも、そのまま実用になるほどの優れた技術とアイデアの作品と思う。ただなんかちがうんだ。
つまりぼくが言いたいのは、まだ学生である君たちが、競って大企業の
ためにこれほどイメージを凝集するのは、もったいないよということだ。商業デザインで将来身をたてようとするならば、大企業がリードする消費社会を肯定し協調していくことは避けられないとは思う。でも今は、まだモラトリアムの時代、自由だろう。だったら、反消費社会の視点に立ってみたらどうだろうか。これによって、別の消費のあり方、未来の企業イメージ、大衆の新しい消費行動もみえてくるんではないだろうか。
じつは、やってもらいたいことは、この宮崎市で、懸命に生き延びようとしている小さな商店、飲食店などにエールを送るデザインを試みてもらいたいのだ。お好み焼きの「しぇこぱん」とか、喫茶「ウイング」とか、あるいは「江平市場」住宅地の片隅に残る昔コンビニの「日用・食品店 矢野」とかのレトロ空間とか、都市論からみてもおもしろい零細企業が当市にはいっぱいある。ここから、これまでにない斬新なデザインが生まれる可能性がかなり望めるのではなかろうか。ほんど、街には、もうどこをみても広告デザインばかりで、飽き飽きしているんだ、どれもこれもね。
本展で、ニューヨークに相撲の大看板をシュミレーションで画像化した山元大祐の日本発信には、商業広告をこえた新しさを感じたが、もっと超マイナーなものを巨大化する発信もできないものだろうか。
次回につづく。