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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

人はなぜアルバイトをするのか

2008-02-27 | Weblog
 
 この「バイト・マニュアル」は「人はなぜバイトをするのか?」で始まる。三浦の本は、バイト、パート、派遣などの非正規社員のフリーターは「社会的な”無業”」
問題として始まる。詳細な統計で、フリーターの下流的なライフスタイルがろんじられていく。ここでもはじめに「フリターのタイプ」がある。なぜか、統計でなくて、日本労働研究機構の研究員の小杉礼子氏の7つの分類をそのままあげている。その分類とマニュアルの分類はほぼ似ている。だが、感触がちがう。
 たとえば:
小杉氏の「やむを得ず型」は
正規雇用志向型、期間限定型、プライベート・トラベル型となかが3区分される。
マニュアルでは「1 お金がないっ」バイトならすぐに明日のメシ代がもらえます。
小杉氏の「夢追求型」は
芸能志向型 バンドや演劇、を志向してフリーターとなったタイプ。
マニュアルでは「2 売れない役者だ 下積みの基本はやっぱりバイトでしょう。

そのほかに小杉氏はモラトリアム型で、教育機関を中退・終了し、フリターとなったタイプ。離職、将来の見通しがはっきりしないままフリーターとなったタイプをあげている。
マニュアルは「駆け落ちしてきた、サラリーマンなのに愛人がいる、じつは指名手配されいる人、なとど、うそかほんとかジョークのように追記される。

 さて、ここでなぜ人はアルバイトをするかは、マニュアルのほうが、なるほどと、まさに身に染みるように実感させてくれる。小杉氏の分類は、そうだと思えるが、なんの興味も引かないばかりか、現実感もない。前者は人がなぜしなければならぬかの現実感があり、後者は、人でなく「タイプ」が強調される。こちらには、人がなぜアルバイトをしなければならぬかの切実感も視線もない。ここが三浦氏のいう社会的無業という見方ときわめて共通している。フリーターなどやってるのは、まちがいであるという意識が、マニュアルを並べてみるとはっきりしてくるのがおもしろい。

 人を見る感触が決定的にちがっている。マニュアルには生きて変化し、状況に流されたり、超えたりしていく人の生き方が感じさせられるが、一方はタイプであり、統計処理されて終わる社会的問題の対象でしかない。どちらが現況に即応できるのか。


            
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上流、下流のイメージ

2008-02-23 | Weblog
  昨日、引用した「金融系企業で働くミリオネーゼ系キャリアウーマン、グッチかプラダの黒のスーツに身を包み、颯爽と歩く女性リーダー、彼女たちは、肩肘張って髪を振り乱して働いていない。なにしろお金はある。髪も肌も美しく整って」の一節にある「紙を振り乱して働いて」というのが、非正規社員である女性のイメージであろう。
 
 年収700万円以上の男性を獲得する「争奪戦」には、「容姿がよいか、性格がよいか、頭がよい必要がある。そのいずれも十分に持たない女性は、年収の低い男性で我慢するか、それがいやなら独身生活を長期化さ、しばしば「干物女」的OL生活を続けることになる。」これも魂消たイメージだ。容姿、性格、頭、三拍子そろってのいい女でなくては、人並みの幸せは望んで無理というんだから。

 また、こうした落ちこぼれ的な若者は、生きる意欲も薄く、「ぐうたらしていちゃ恋もできない」で下流ほど携帯やインターネットという「手軽な自己愛的なおもちゃ」に依存していると、批判している。立花隆がひっくりかえるようなインターネット否定だが、このように現代文明もまた、イメージ化される。

 しかし、全体は目が痛くなるような細かい統計数字が各章、各節の頁に埋められ
調査項目の結果が記され、社会科学の分析という形で進展はしているわけだ。その先は人の生きた姿に行き着くのでない、人生の失敗作、フリーターイメージに落ち着くのである。

 そこでいよいよ2冊の本の比較に移っていこう。期せずして、これがなんとなく
ミリオネーゼ系と下層系とをシンボルしている。颯爽とした総合職にキャリアーウーマンと、家族の低収入を助けるために、「髪振り乱して」アルバイトしている兼業主婦さんということになろうか。

 本の装丁にして一方がリノリュウムの冷たさがあるし、他方は、が、は、はと笑って漫画的である。統計処理と分析の深刻さが、グロテスクなイメージに沈んでいくのと、漫画特有のむきだしの日常性をぶっつけてくるアプローチが対極的だ。

 教養・学問・知性か、しゃべってふざけて遊ぶ駄洒落か、どっちが生きる勇気をもたらすか。この写真から想像してもらおう。かくしてえられるあなたのイメージはどうなんだろうか? 写真はクリックしてください。
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人への想像を働かす

2008-02-21 | Weblog
この写真の本を開くと、下流社会に近未来に落ち込むひとびとの性格やライフスタイルが列挙されている。たとえば:
  
 女性は大学を出ないと上流になれない?
 パラサイト女性は年をとると下流化する
 派遣社員、フリーターの結婚、子育ては不利

 自分らしさ派は階層意識も生活満足度も低い
 自分らしさ派は、未婚、子供なし、非正規雇用が多い

 下流社会の三種の神器=3p(註 パソコン 携帯電話、プレステ、くわえて
 ペットボトルにポテトチップス)
 
 東京田園都市線の「上流化」
 地方出身者は「上」になりにくい
 段階ジュニアは83%が今後も同じ地域に住む

 そして「縮小した世界に知らぬ間に築かれる「バカの壁」となる。
 これらは統計数字からの分析結果であるようだ。心配のあまりの助言となって
厳しくなげかけられたものだ。ところが、一転上流階層になると、こうなる。講演などで,三浦氏は「日本橋に美人増加の謎」としてウケ狙いでの話しだといって、

 それはおそらく金融系企業で働くミリオネーゼ系キャリアウーマンが多いからである。グッチかプラダの黒のスーツに身を包み、颯爽と歩く女性リーダー、
  彼女たちは、肩肘張って、髪を振り乱して働いていない。なにしろお金はある。髪も肌も美しく整っている。
 彼女らは子供を保育園に預けて夜の10時まで働き、料理学校とエステと英語学校に通っているような、「すごい!バイテリティ」である。「聡明な女は料理がうまい」のだと、桐島洋子の同名タイトルをもって賛美している。

 「下」に対する統計事実を背景に、わかものにアドバイスや忠告するとしてもだ、こちらはなんだ。テレビのメロドラマの世界だ。あんた、なんか上流女性にコンレックックすでもあるのかと疑いたくなる。

 どっちを向いても、ここには、人間の生きた姿がない。つまり人間への想像力がないと言わざるを得ない。これは社会科学の本として、教養本として分類され公共図書館開架書架の花となろうが、おらいやだー、地方でも田舎っぺでも下層でもいいいから、こんな分析から逃げて生きたいよ。

 もっと人間臭いフリーター論にであえなかったら、この本のおかげで苦しい日々を年末年始と送ったことだろう。

 写真をクリックすると拡大します。 
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ではその具体像は何なの

2008-02-20 | Weblog
  フリーターの若者の疲れ果てた、無気力な写真は、有無をいわせない現実感を与えてくる。しかし、それは巨大都市東京のきわめて限られた場所と時刻でのいっしゅんの映像にすぎないのだ。その写真は、著者三浦展のの分析を強化するために用いられた映像の力である。映像は映像であって、若者そのものではない。それは一つの論を支える証拠資料にすぎない。それは統計の数値に似ている。繰り返すが、そこには、生きている人の多様な、複雑な、絶え間なく変転しつづける人間の本質は、排除されているといえないか。

 この「下流社会」になると、もっとも具体的に知りたいことが、ますます抽象的な概念となってくる。下層社会を形成しつづける自分探しの失敗者ともいうべき、フリターの仕事とはどんな仕事なのか具体的には語られない。どうじに自分探しより仕事探しという、こちらの仕事とは、具体的にどんな仕事かは語られない。

 フリターという近未来に下層に陥落する若者たちの心理や性格や行動様式や人生観は、各章、各節と、その欠陥が語られる。では、その対極に位置する上流階層の
心理や性格、その行動様式、人生観は語られなず、不問にふせられたままである。

  かくして、読者は、この本を読んでいくと、ろくでもない若者が、ろくな仕事もせずに、自分探しという夢を追って自堕落な日々を送る情けない現状を思いうかべるだろう。そして、その結果、生活貧困者となりやがて下層階層に落ち込んでいく恐怖感を覚えることになろう。反対に、正社員とは、なんやら上場企業や外資企業、公務員などの社員のイメージを抱いてしまう。

 またこういうフリーター志向の若者の知性と教養の欠落,社会正義への無関心が
批判されてもいる。ここでも、では教養とは何かが、具体的にしめされていない。知性の欠落というが、知性とはなんなのだろうか。いったい、若者がうまれたときから抱え込んでいる音楽、映像について、われわれ大人はどれだけ知っているのだろうか。われわれの教養、知性といっても、それは戦前から一部にうけつがれてきた文学中心の教養主義であった。そこには漫画もクラシック以外の音楽も入り込む余地も無かった。その教養がないからといって教養がないといえるのか。知性ががないということをどこで断言できるのか。ここも極めて、あいまいなのである。親父の説教や人生観の視点では、問題の核心には迫れない。


 
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若者のフリーター化

2008-02-19 | Weblog
 三浦展の「仕事をしなければ、自分は見つからない。フリター世代の生きる道」で若者の食べ歩き、地面で寝る、座り込んで団欒するなどの姿が写真入りでレポートされている。それにつづいて、その姿から、かれらの自由、気ままさ、常識や規範の弛緩、そこからくる働く意欲の放棄、豊満、飽食の文明がもたらす知性の退化を問題にする。かれらの生き方は今や、食べたいから食べ、寝たいから寝るという本能的な生き方と化しているというのである。

 そこでちょっと待てといいたい。まずこの食べ歩き、地面で寝る、座りこむ、飲み食い談笑する、かれの言う「ジベタリアン」その他、ガングロからコギャルまでの生態は、場所と時が
限定されているということである。まわりの状況次第によって、かれらは食べ歩きとジベタりアンをやっているにすぎないのである。もし退化した本能的なライフスタイルならば、それはどこでも見られる生活の姿態となっているはずであろう。

 宮崎市では、街路でそのような行動は、ほとんど見られないが、三浦展の観察もまた、東京の盛り場での若者の行為と限定されているにすぎない。となると、それは、巨大都市で人の目が気にならぬ街路、孤立してしまった自己やグループだけの場を生み出そうというそれこそ帰巣の「本能」ということかもしれない。それは動物的と非難されるよりも、人間疎外から自分を守る人間的行為ということになる。

 つまり若者はきわめて正常なのである。その若者たちにはフリーターになるしか、仕事がないということが、最大の問題なのである。そして、フリーターとなったら、生活は低賃金のままに据え置かれ、過酷な労働と報われぬ単純労働の結果、貧困になり、貧困ゆえに向上のエネルギーもうばわれ、下流社会という階層となっていくという現実は確かにある。ということは若者の知性や意思の欠陥からもたらされるということよりも、会社のあり方のほうに問題があるということにならないか。

 ところで、2005年3月発行の本書から半年遅れの2005年8月に同じ著者の「下流社会 新たな階層集団の出現」が発行されている。この本では、下流に下がっていった若者の性格分析が詳細に展開された。この本も明快だ。下流に陥る性格の分析である。自分らしく生きる意欲は下流になるということの論証である。これもわかったようで、だんだん分からなくなる。結論をくみ上げていく材料が、ひどくあいまいである。

 

 
 
 

   
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フリーター本2冊 その紹介1

2008-02-12 | Weblog
  今手元に2冊のフリーターを扱った本がある。まずは
2005年3月発行の三浦 展 著「仕事をしなければ、自分はみつからない。フリーター世代の生きる道」である。もう一つは同年の「おいしいバイトマニュアル」というこの著者は「時給UP実現委員会」とある。この本は、学生アルバイト、主婦パート、フリーターなどアルバイト生活者のまさに生きる道を説く。

 そして、いずれも当時の「若者」を対象に熱く語るものである。当時就職氷河期であり、フリーターの中心は若者であり、当然、そこを論じると若者論になっていくのである。

 まず三浦の本からのべてみよう。この本の若者論は明快きわまりない。「若者よ、自分を探すな、仕事を探せ」というのである。なんか悲しいほど現実的ではないか。「青年よ大望をいだけ」と、雄たけびが上げられた時代の大人たちは、なんと幸せだったことだろう。なんでもいいから仕事に就けである。引っこもりやパラサイトシングルを、表に出すのに必死なおじさんの怒りが247pの全体にそくそくと流れていく。

 大学に入っても勉強はしないし、本は読まず、知識も教養も身につかず、自分探しと言いながら、努力はせず、遊びとセックスにうつつを抜かしているというのが、現代の若者の大半であるという。そんな若者の中心を、かれは団塊世代の父と母から生まれた「真性団塊ジュニア」(1974年から1979年生まれ)と名づけている。

 両親もフォーク世代で長髪、ヒッピー風俗、古い価値観の否定、アンノン族であった。その親の子もまた茶髪にルーズソックスと価値観を破壊する。これを平たくいうと、親も親なら子も子だと・・・、こんなふうに言っていいのかと、ぼくは思うのだが。

 もちろん、かれは、その実態を統計と街での若者観察と、他の研究資料から、総合的な分析と結論を導き出していくわけである。だから、ここでフリーターの生きる道とは、いかに甘ったれた根性をたたきなおすのかという自覚論になっている。そこまでで88ページとなる。その後、120ページは若者の街における生態論、その消費行動が例をあげて逐一紹介されていく。この部分になると、どこにも生きる道など示されていない。なんか大都市に巣食う、動物的に退化した若者の姿がこれでもかと、示されていく。

 いっきに面白く、ある面ではなるほどと思わずうなづきながら読了してしまったが、これはひどく間違っているとうのが、ぬぐえぬ判定である。

 まちがっている、すごくまちがっている。ここをはっきりさせようと思う。でなければ、若者を徴兵制で鍛えなおそうというとんでもないニヒルな発想に陥る危険があるからである。



 


 
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宮崎県の幸せ

2008-02-11 | Weblog
 食料危機が来ると、今朝の毎日に野坂昭如は、10年以内に必ずと空恐ろしいエッセイと書いている。おなじ紙面に同紙宮崎支局長の大島透が連載している「だれやみ日記」でこれまた「ギョーザ中毒事件」に触れて、中国産がどうのこうのと言っても、その食料がなけれ生きられない食料自給の不安を書いている。

 食べ物というのは、水というより空気なみにしか自覚されなかった。消耗品として食が注意を惹くのは、美味いとか、特産とか、料理の鉄人とか、テレビで賑々しく、ばかばかしく、口にふくんで数十秒あり、感嘆きわまった表情でタレントや芸能人やが、うまいいーっと目を白黒させるときである。俺も食いてーっと自覚させられる一瞬である。ただし、ぼくにはその誘惑を克服して20年近くなるのであるが。

 チリ紙が無くなるとの風評だけで、全国のスーパーからチリ紙が無くなった国民であるから、米でも醤油
でもバターでも野菜の一品でもなくなるということになれば、殺到しパニック状態になろう。きゅうりを両手にもって丸かじりのテレビに出る東国原知事、あちこちのレストランで、地鶏を食う彼から、宮崎の食品が、消耗品として全国へ向けて、情報発信される。

 食料を全国になんとか売りまくる宮崎県とはなんと幸せな県であろうか。というか、それしか売れるものはないのかと、淋しくなるのである。フリターの血液売りを連想してしまうのだ。まだまだ栄養の行き届いた健康を元手に。健康なうちに他の手段をと願う。
  
 




 
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サービス残業データーベース

2008-02-09 | Weblog
  朝、チップの散歩途中で、たびたび出くわしていた若者がいた。かれも犬好きで、チップに声をかけるのだが、飼い主のぼくに気を使って、犬にも人にせっするように丁寧に接してくれる。歳のころは二十歳前ではないだろうか。繊細な心がうれしくて、よく勤めのことを聞いていた。近くのコンビニでアルバイトをしているのだった。中学時代に病気のため,高校進学が出来ずにその後、病気の回復をまってアルバイトをしはじめたわけであった。

 夕べ、彼が珍しく歩いていたので、今夜はどうしたのと聞くと、止めましたというのだ。理由を聞くのはまずいかなと思ったが、なぜと聞いてみた。すると、我慢の限界でと、日ごろにない強い口調で、理由をしゃべりだしたのだ。

 つまり、サービス残業を強いられつづけるのが、もう耐えられなくなったというのだ。それは、肉体的でなく自尊心の問題だ、馬鹿にされてと、話をつづけてくれたのだ。コンビニの出勤は午前零時で、朝、八時に上がる。そのころジュースが何ケースも運び込まれる、それを配架してくれと店長に言われて、さらに一時間、二時間、ときには、午前10時、11時となる事もしばしばあったという。これが、入ってすぐからというから二年近くつづいてきたという。

 彼の話だけだから、事実がどうなのか、にわかに判断できないが、これは十分にありうる話であろうと思えた。はかにも、ある自動車デーラーのセールスマン、かれは正社員であるが、そのすざまじい過酷なサービス残業時間と、給料の低賃金に信じられぬ実態を聞いた事もある。そんな事例と重なり、かれのサービス残業は信憑性を感じざるをえなかったのだ。

 会社がこき使い、使い捨てる実態は、かなりの人が聞きもし、自分も当事者であることはかなりの事例を身近な人たちにも見て来た。

 もちろん、こういう残酷な事例ばかりではない、いい例も多く聞いてきた。しかし、今は、この悪事例をなんらかで公開する、そのデーターベースを公開するサービスがあればと、つくづく思う。これによって仕事をえらぶ指針と戦略がえられるはずである。ほんと、労働基準局の公務員などは天国暮らしというべきかもしれないと、実はそこで勤める長年の旧友に申し訳ないが、言わせて貰う。

 県立美術館は、ある美術資料をボランティアでデーターに整理する人を募集していると、新聞に出ていると聞き、そんな整理技術の司書がいるものかとせせら笑った。そしてさらにボランティアは勿論ただ働きで、弁当代も交通費も自分もちという。まさにサービス残業そこのけの発想である。なにを考えての広報だろう。そんなことをするくらいなら、生活に今、必要な、職場の環境のデーターベースをつくることが、はるかに美術品の目録をつくるより緊急時であろうと思う。芸術だから只で働いてもらっていいという発想、これが芸術を管理するものの発想だろうか。
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食えるという視点

2008-02-08 | Weblog
 今朝、庭先に会社名を大きく書き込んだバンが停車していた。五ヶ月になった子犬の「小鉄」に、お手を教えていたら、そのバンから初老の男性が降りてきて面白そうに、その様を覗きに来た。こいつは、小石でも枯れ葉でも、プラスティックさへ、なんでも食いつき噛み砕き、食べるんですよ。いかなるとき、どんな食べ物でも、飛びかかって食いつくんです。
 立て飢えたるものよ!という調子で、訓練中です。

 「どうなっとでしょうかねえ、この不景気は、ひどくなる一方ですが・・・」と、冬というのにまっくろに日焼けした顔で、悲鳴ともためいきともいいいようのない口調で話しを、このごろの世相に振ってこられた。この前も言ったように死ぬことはないからと、答えつつ、今回はただ、心配なことは一つあるとぼくは言ってみた。
 
「食い物、食料です。これが足りなくなったら恐ろしいです。だんだん不足しだすのでは。中国、インド、アフリカとみんなが日本人なみに食べだしたら、どうなるんですかね」

 自動者や洋服や、液晶テレビやなどなど、買わんでもぜんぜん心配ない。だけど、食べものだけは食べぬわけにはいかんし、買わねばならないでしょうが、いくら高くなっても!!」

 今朝、マーボのブログをみたら、偶然にも食料不足の近未来を書いていた。宮崎県は、食料自給率が240
パーセントあるとのべていた。へえそんなにと、驚いた次第だった。いまのうちに土地を買って宮崎に移住してはというのが、話のテーマであったが、まんざら
宣伝だけでもない現実感を感じた。

 ぼくもよく宮崎の自然の豊かさ、いや大地の豊かさには感銘するのだが、イスラエルやアラブ、アフガンで不毛の大地で生きる人々は、この農村を見たら、生きるということは、なんとたやすいことと思うにちがいない。こんな大地で貧乏というのはかんがえられないと、イスラエルや、オーストラリア、ギリシャに社用でなんとも行っていた家内は、よく車窓から宮崎のの自然をさしながら、話題にした。

 そうか、喰える大地という視点からみると、宮崎の
豊かさは群を抜いているわけなのだ思うのだった。

 
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レトロな心

2008-02-06 | Weblog
  一昨日の「極楽湯」のつづきだが、Mは統合失調症を20年以上、薬でコントロールしながら普通の生活を送ってきている。Nは中央の公募展で特選を連続二回受賞したが、その直後に絵を止めた。2年ほどまえからまた画けるようになったが、その心境はぼくにはまだわからない。

 Mは障害者年金で、Nは熟年フリターで生活している。しかし、どちらもうっとうしくも、みじめでもない。それは二人とも考えるのが好きなためである。かんがえるといっても身の上でなく、世界をかんがえるからである。ふざけているが、かんがえている。

 ものすごく絵を描きまくる老画家が、いつものようにまた新聞で賞賛されていた。僕は労働としては文句のいいようがないよ、でもあれは芸術作品の創造という気持ちで、本人はやっていらっしゃるのではないのではないかと、言えば、Nは、とにかく、なんのためらいもなくぎもんもなく、ただひたす描けるというのはしあわせだなあ、、あれではストレスもなく長生きでくるよなあと嘆息したのであった。

 人がなにをやろうと自由だし、ひとにめいわくかけさへしなきゃ、結構なことだよね。ただ労働というなら、しぇこぱんの夫妻が、毎日、お好み焼きを焼く労働もすばらしいじゃん。味がぜんぜん変わらない。之はプロだよなあ。でも新聞はこんな労働は問題にしないだろうが・・。

 そう言えば、公園の公衆便所を掃除するおばちゃんは一日に100槽くらいすると聞いたぜ。あるとき
ミックの裏の公園の大便所で、糞が壁中に塗られていて、3日くらいつづいたという。よっぽど腹がたつことがあったんでしょねえと、おばちゃんは同情していたね。自分のつらさはわすれてね。

 新聞もテレビもこんな便所掃除の労働ガ存在するということを発想することもないんじゃないかな。

 なんで芸術の労働だけが、そうやいのやいのと、賞賛されるのか、かんがえてみると、バランスがおかしいのではないかと、湯煙にうだされて話がはずんだが
変なのは湯にのぼせたぼくのほうだったかも。

 あれから、若い知人が貸してくれた西原理恵子のマンガ「ぼくんち」に出会えた。そこにはレトロがあった。風景でなく心のレトロ、つまり生きるのがやっとの貧乏人だった時代の人間らいし、こころのレトロ。それこそ芸術だと、こころを慰めてくれた。
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街の点と面

2008-02-04 | Weblog
  ときどき、ぼくは宮崎市街にありながら、見知らぬ街にいる意識に
なろうとする。なにもかも、初めてめて見るときのような意識に自分をもっていくのだ。なかなかむづかしいが、やってやれぬことはない。夜間になると、かなりやりやすくなる。

 先週の水曜の夜、崩壊喫茶というWの常連の二人に「極楽温泉」に行かないかと誘われ、二つ返事で承知して、雨上がりの午後7時に温泉玄関に向かったときのことであった。冬の7時は、雨の来そうな曇り空であった。宮崎駅正面で交差点赤になり、自転車を降りて、あほくさいほど長い時間を待っていたときに、意識は知らぬ街にいる自分となった。

 駅前というのに街灯ひとつない、そして馬鹿に広い正面の大通り、左右に広がる、これもまた広い大通りがある。幸い、風があまり無く、寒さはないが、駅前というのになんにもないとは、どういうことか。どの方角に賑わいの街通りはあるのだろうか。いっそ暗闇ならまだ自然を感じるのだろうが、中途半端な店の、斜め前のセブンイレブン、ホテル、空になった事務所の玄関などの明かりが、いっそう空漠とした感じをあたえてくる。

 宮崎市は面では楽しめないが、点なら楽しめるといったが、異郷の街にいきなり行って、ちょうど今のこのときのように駅前の正面に立ってその点を探そうとしてもほとんど不可能に近いのである。どこの街に行っても、見知らぬ街を点で楽しめるのは、ほとんど不可能ではないのかと思うのであった。

 さて、現実にもどると、あと10分もたたずに「極楽湯」という点にうたどり着けて、頭はいいが、ちょっと変な、それゆえに純でおもしろい悪友2名と、湯の中で馬鹿話を数時間は、楽しめるということになる。この街を知っているおかげである。テレビだけが現実であるような人は、この感覚は無いのではなかろうか。

 だからどんなイベントにもテレビが煽れば、群れとなって走っていくのだろうと思う。
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今日の実感!

2008-02-03 | Weblog
 今日はひさしぶりに日光が拝めた。冬のじとじと雨のなかを自転車で街の中を走るのは、不愉快だ。そんな毎日がつづいていたので、この晴れの日曜日は、天国のはずだが、ホームページの作成に追われて、午前中はあっというまに終わった。

 ようやく午後一時に街へでかけたのだが、一番ラーメンが目に入ったので、中に入った。べつに腹がへっていたわけではなかったが、はずみであったし、ひさしぶりであったし、ご近所の商店であったからであったが、やはりここのラーメンはうまかったし、安かった。

 午後2時近くになった。義姉が転倒して足を骨折、入院していたことを昼前の電話で知り、そのお見舞いに行くことにしたので、4時前には
帰宅しなければならないのだ。街で遊ぶには時間が足りない。どうすべきかと、つまりどの方角に行けばいいのか、急に迷ってきた。おまけに
風が強くなった。自転車だから向かい風ではめんどうだ。

 そこで、今日は、北でなく南に方角を決めた。「ダイエー」に何年かぶりに行ってみようと思った。今朝、妻がダイエーは洋服は一番多いわね、イオンもボンベルタも敵わんよと感嘆したように言ったからだ。うそかほんとかこの目でみてみようと思っただけの選択であった。ついでに言うと、あそこはスーパーなのか、デパートなのか、ダイエーと人々はいうが、また「宮交シティ」ともいう。どうなっているのか、よく理解していない。たぶん、シティの部分が専門店のならぶショッピング街風に構成されているからだろう。

 入ってみてびっくりした。もうなにもかも変わっていた。その変わり様というのが、垢抜けしたところが、一切無くなったということだ。どういったらいいのか、つまり見栄も外聞もなく、実質本位というか、何でも安いよ、何でもあるよという感じである。昔は専門店が並んでいたようであったが、今は広大な体育館にうねる波のように、商品が簡易な商品台に積まれて広がっているのであった。なるほど、これなら洋服が一番あるといわれても理解できる。タカキューもここではおしゃれであった。

 とにかくこういう安い品物を売るということに徹し、かつターゲットを捕らえたように思えた。ダイエーの安売り商法は時代に後れたといわれて久しいが、来客者は、かなり溢れていた。かってあった、贅沢な感じのレストラン街はなくなり安っぽい大衆レストランが数店あったが、田舎ほどレストランは高いが、ここもそのようだった。食い物はだけは高い。昔の高級カレーの「がんじす」はまだあるのが案内にあったが、店はみつけだせなかった。

 田舎都市に居るのだという実感をぐっと味わえた午後であった。


 

 
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マーボへのエール

2008-02-02 | Weblog
 マーボと去年の11月、houちゃんのライブ(ニューレトロクラブ)で会って、4回目のデートである。かれが、5月にやる音楽、美術のイベントの企画書を興味をもって読ませてもらった。楽しい土曜のひとときになった。ありがとう。


 そこで、もういっぺん話したことを再確認しましょう。一番肝心のことは、この企画書から「街起こし」の条は除くこと、これです。君が宮崎市を去って13年間、君は知らなかったかもしれないけど、この宮崎市でどいつもこいつも「街起こし」というお経を唱えまくってきた。それで街がどうなったのか、なんも起こらなかった。街を起こしたけりゃ街のどこかで、商売して生き延びていけばいいのだ。それで、この街で生きられるか、ここが問題ではないかな。

 はっきり言って、現在、宮崎市で、一人の人間が、自立して生きることは、不可能に近い。つまりここはもう都市ではないのだ。野原や砂漠よりももっとわるい、コンクリートの平面であろうか。

 宮崎市街を立派にしようとか、そんなことはいらない。マーボの場合は、街のなかの空き店舗や、がらんとした駐車場や、廃屋や、路地やでアートをやるということにだけ、全力を集中させればいいと思う。そこで表現されるミュージックが、芸術劇場での音楽とは、異質の感動をひとびとに与える、そこでのアートが、宮崎美術館のコレクションにない
現代性をはっきすることを実現することである。このことに全力を注げば、それでだれも文句を言うことはできないはずである。

 宮崎市には、街を作る100人委員会というのがあると聞いている。
一人より百人が、100倍の有効な街作りが可能という、とんでもない
発想からきているのだろう。100人、1000人でも愚は愚である。
そう思えるのではないかな。

 マーボは、今は一人でやっているといっているが、これでいい。一人なら間違いない。100人倍しても、その中にマイナスが一人でいては
結果はマイナス。ゼロがいるならゼロを生むしかないのだから。

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くだらぬ街も使いよう

2008-01-30 | Weblog
  わが宮崎県庁に、昨年1月から今月まで、訪れた観光客が、昨日30万人目を迎えたと報じていた。こっちは、金をもらっても行く気色にもならぬ場所なのに。歴史的建造物としての魅力もあると、テレビの解説者は述べていたが、よく言うわ。撤去する金もなく、新館を建てる金も無かったので、現在まで建っていたにすぎないのを、忘れてはしませんかだ。現在の庁舎は、すでに建築当時の手すりや階段や天井や壁面、その他いろいろと、不便ということで、破壊され、改変され、モダン風にやりなおされてきている。それを忘れてはならない。

 思えは昭和41年に取り壊された宮崎県公会堂は、県庁庁舎昭和8年建設よりももっと古い大正期の建築物であった。その天井にあった畳大の宮崎八景のステンドガラス8枚は、さすがに取り外されて県庁庁舎に保存されていたのだが、今は行くへ不明と聞いた。歴史的建造物などを大切にする気風や政策などまったくなかったし、今もない。これが事実である。
 
 今やっとその意味が知られだした。しかし、あまりにも遅すぎるわい。もう残すにもなにも、ほとんどすべて、公であろうと民であろうと、きれいさっぱり取り壊されてしまったのだから。

 だから「くだらない街」というのだが、そんな街でも使いようである。視点を変えれば生き返る。ある知人の息子さん中学2年生は、期末試験や実力試験などとなると、よくジョイフルに仲間と集まって、試験勉強を楽しみながらやるということだ。街はかくして楽しくなる。

 日曜の一日をこのブログで報告したのも、街を面白く利用することを報告したかったとのでもあった。

 宮崎市は、面つまり2次元の街としてはまったくおもしろくないが、点つまり1次元であれば、それをつなぐことでおもしろくなる。この「点」にはなんと興味あるところの多いことか。
 
 点に視線をそそごうではないか。市民や県民、国民でなく、一人の人間にこそ目をそそぐのが、はるかに意味が深い。
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うらやましい!!

2008-01-29 | Weblog
 うらやましい!と、ぼくは月曜日にうらやましがられたのだ。日曜のイーチャフェでお茶を飲み(ここはコーヒーでなくお茶がメニュー)それから薩摩蒸気屋でコーヒーを、そしてカリーナでスタバでなくたリーズのコーヒーをという一日が、うらやましい、うらやましいと、しぇこぱんの青木さんが、ママに何回も言うのだったと翌朝、聞いたのだ。

 こんなことで、うらやましがられるなんて、ありがたいというべきか不安というべきか、気にかかっている。あの一日を書いたのは、金は使わずとも遊べるよということを、レポートしたつもりだった。いーちゃふぇで、250円、ブックオフで買った2冊の本代は210円、薩摩蒸気屋では500円のランチ、タリーズは時間切れで寄れなかったので0円で、締めて910円である。サラリーマンの一日の小遣いは、今はどのくらいなのだろうか。1000円くらいではないのだろうか。

 これでも贅沢きわまるという労働者諸君の現実なのだろうか。

 しかし、それにしても中国の個人よりも国家の価値が絶大で、中国社会で成功するには受験競争に勝つしかないというテレビを見たが、その競争に敗れた子供たちはどうなるのかと心に焼き付いていた。その一部が、インターネット依存症となっているというまたもテレビのドキュメントがあった。自分とはなにものかという思考も価値観も与えられない社会なのだから、インターネットでお互いを殺しあうオンラインゲームで、いらいらを開放するしかないというのは、じつによくわかる。

 とにかく度肝を抜かれるゲーム中毒なのだ、何週間も泊まりこんだまま一日2時間程度の睡眠のほかは、喰うものも喰わずゲームに没頭しつづけるという。

 こういう子供たちをみて、その子供の人間性の弱点の分析とか、行動における意志薄弱とか、生活の崩壊や自堕落とかを、克明に分析する気になるだろうか。ただちに国家の社会のあり方を問題にとりあげるだろう。これは、至極当たり前の思考であろう。本人よりも制度が追求さるべきなのだと、だれしも思うだろう。

 3年前は、実は、わが国では、社会の落ちこぼれとばかりにフリーター問題は、本人の自己責任として、追求されていた。2005年の4月2日
「どう思いますか格差社会」という視聴者参加の長時間の討論番組をNHKは放送したことがあった。IT企業の社長がフリターの若者に、君の部屋をみただけで、うちの会社では採用しないと批判するシーンもあった。
テレビはかれの部屋を、その番組で参考までに流した。これほど、かれらは、まさに精神分析の対象ほどに、分析されるのだった。


 そこでだ、日曜にブックオフの100円で買った2003年発行の2冊「仕事をしなければ、自分は見つからない」(三浦展)と「おいしいバイトマニュアル」はフリーターを扱った本である。今読むと、きわめて示唆に富んでおもしろい。いずれその内容を紹介してみることにしよう。

 さて、今は、ぼくとしては、金が無くても楽しいということをレポートしたつもりであったが、所詮、甘い生活意識でしかなかったのかと反省しきりだ。



 
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