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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

省エネ

2008-04-26 | Weblog
 なにもしない、なにも出来ない、ただ空しく仕事している、これを無気力と思い込んでいる人が多いのではないか。だれが、それを無気力と教えたのか。それがテレビ・新聞なのである。
 
 宮崎には「よだきごろ」という言葉がある。怠け者のことである。働かないで縁側で寝てばかりいる。それで近所のおばさんが、枕元に握り飯を置いてくれたが、翌日にいってみると、にぎりめしは、地べたにころがったままであった。問うと、転がったにぎりめしを、起きて拾うのが「よだきかった」というたそうな。

 南米のジャングルに「怠け者」という動物がいる。右肩から左肩まで右手をまわすのにも数十秒かかる映像を見た人もおおいだろう。こんなスローでジャガーや
豹などの餌食にならぬのかと不思議である。その理由は、木にぶらさがったままで降りない。日中は動かず寝ている。それで猛獣の動態視力に入らぬからだという。

 爬虫類なみに体温は外気に連動す。だから睡眠が冬眠状態という。一日の食事は、植物の新芽や若葉が8グラムですむ。動かない食わない、発見された当時は空気から栄養を摂っていると信じられていたという。この省エネが生きる力となっているのだ。

 しかし、なまけものはニュースにはならない。ニュースになるのは、風船のように舞い上がって,大衆の視線をひき付け関心を集め、消費に走らせる記号的な人間模様である。風船のなかみはもちろん空っぽである。写真入りで紹介されるかれらの業績を自分の生き方に引き寄せて、冷静に判断すれば、その達成物などは、自分には何の関係もなければ、価値もないものではないのか。

 だが、空っぽであればあるほど、空高く舞い上がる。メディアはそれをよろこぶ。なまけものだとして、自分の虚ろさを嘆くのは、まちがいである。なにもしないということ、このことは、この消費社会にとって、もっとも有益な省エネの貢献である。やがてはこの無駄な活動に溢れかえった消費社会の変革を促すだろうと、自負をもつべきであろう。
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食育とテレビ育

2008-04-23 | Weblog
 前回のテレビ報道で思い込んだスペースシャトルと実像の違いについて、松浦晋也の「スペースシャトルの落日」はまだまだ面白い真実を教えてくれる。あの三角形の翼、これは設計コンセプトの誤りだという。

2週間の宇宙飛行のなかで翼が本当に機能するのは、地球帰還のときのたった15分だけというのだ。へえ!と思うだろうが、空気の無い宇宙では、翼はなんの役に立たないといわれると、ただちに納得できよう。

 重い、危ない翼なのだ。とくに音速何十倍で空気中に突入するときの火達磨から守るためのシリカ系耐熱タイルは、指で傷がつくほどもろいものだという。コロンビア号は2003年翼のタイルが破損して、空中爆発した。帰還時は飛行ではなく落下なのだ。それにはパラシュートがもっとも安全でコストがかからないと言う。翼は飛行場に舵をとって着陸することができる。見世物のための政治的手段だというのである。

 この翼のためにシャトルはロケットエンジンの補助タンクを両脇に2本装着している。あの魚雷型のものである。これは固形燃料で、火がついたら燃えきるまで止めようが無い。1986年のチャレンジャー号は、このタンクの継ぎ目のボルトが破損して、大観衆の見上げる空で爆発したのであった。

 この不吉な翼は、国防総省の要求で、固形燃料ブースターは、一体型で継ぎ目の無い設計製造も可能だったが、継ぎ目のあるブースターは、ユタ州のサイコアール社に配分するという政治的配慮のためだったと言うのである。設計のコンセプトはこうしてどんどん曲げられていったという。
 
 そしていまある宇宙ステーションは、世界中が迷惑し、だまされたものとなっているのだ。その理由については、本書を一読されたい。

 こういう裏話は、その情報のソース、信頼性が大事だが、この場合はまさに物理法則に反し、1+1=2の法則に照らしておかしいと分かるのである。こういう事実はテレビ映像は伝えないし、伝える意思がなければ錯覚させられる。コンピュータの何百台と並ぶ指令基地で、制御されているスペースシャトルは、自然科学の粋を集めたテクノロージーの結晶だと信じこまされてしまう。

 テレビの恐ろしさである。小学生からテレビと現実の違いを見分ける教育、テレビ育(メディアテラシー)の教育は道徳教育よりも何十倍の効力を発揮するのでないか。食育とテレビ育、国がやらなければ自分でやれ!!


 
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テレビの影響で

2008-04-19 | Weblog
 このベクトルの方向は60年代、70年代は現在と反対方向であった。カウンターカルチャーのヒッピー、アングラ演劇、学生運動などで、既成価値観が揺すられていった。80年代に入ってレーガンの勝利、不景気、消費資本主義の成熟などで、次第にこのベクトルは消えていった。そんなややこしい分析はおいて、直接的な影響はメディア、なかんづくテレビの影響である。

 ぼくはテレビは映画やドキュメント、ニュースなどをエンターテイメントとして楽しむ。どんなものをも批判の対象として視聴する訓練をしてきているが、それでも、洗脳されるのは避けられないと思う。

 そんな一つの例に最近、気づかされた。例のスペースシャトルである。あの打ち上げ映像はなんどとなく見てきたわけだが、はるか虚空のかなたへ一直線に上昇していくスペースシャトルは、このまま500キロかなたの宇宙ステーションへ向かっていくものと信じていた。そうではないのだ。

 あれは空気のある大気圏を60キロの高度で、抜け出すと、こんどは地上と平行に
加速しはじめ、音速の何十倍の速度で地球の重力を離脱し、ステーションに向かうのだ。始めは空気の抵抗があるので、加速に不利、そこで大気圏を垂直に上る、抜けたらこんどは巨体を上に持ち上げるという無駄をはぶき、高度を変えずに加速するというわけで、じつに明快な理屈である。

 ただし、この理屈を知ったのは、航空・宇宙の専門ノンフィクションライターの
松浦晋也の「スペースシャトルの落日」によってであった。本書は2005年の初版であったから、ずいぶん前からシャトルの実像はしらされていたのだが、メディアがこの本を書評でとりあげたことはなさそうだ。ぼくはひたすら青空の虚空へ飛翔していくテレビ映像で、スペースシャトルを理解していたつもり、つまり幻影を信じていたのだ。

 このようにテレビは、われわれを信じ込ませる。その危険を回避する方法は、本であろうう。それよりも簡単な方法は見ない。しかし、そういうわけにもいかぬので、なにを見ても、信じない、せせら笑うベクトルを忘れない。じつに、これしかないのではなかろうか。

 人生の方向をテレビ映像によって、間違うこと、これほどのばからしさはこの地上にはないのだ。
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ベクトルの方向

2008-04-18 | Weblog
 力の向かう方向と、その量を示す矢印、それはベクトルと習ったことを思い出していただきたい。ベクトルの向きは360度、どちらでも向くわけである。この力の方向が、生き方にあてはめてみると、矢印は一方方向しかない。正規社員になりたいというベクトルだけあり、正規社員になりたくないとうベクトルは無視される。

 課長になりたいというベクトルはあっても、課長になりたくないというベクトルはありえないとおもわれる。宮崎市には校長会館、教頭会館というのがある。アスナロ会館も建てればと、冗談にするときもある。アスナロ会というのがあって、明日は校長になろうという会だという。ほんとうだろうか、これもジョークかもしれないが、ともあれここでも、ベクトルは、上昇志向というわけだ。教頭にも、ましてや校長になるなどとんでもないとうベクトルは無いと信じられている。
 
 この逆方向のベクトルは、確実にあるのだ。ただ希少で目に付かないだけだ。

 課長、部長になれなかったのと、課長、部長になりたくなかったの、どちらの人物も、いわゆる平ということになるのだが、おなじ平でもこの両者、前者が落語者であるとするなら、後者は成功者なのである。すなはち、ベクトルの方向がちがうのである。
 
 金が無くて、ものが買えない貧乏人と、徹底して、ものを買わないという貧乏人とは、おなじ貧乏人でも前者は負け犬であるが、後者は哲学者であろう。エネルギーがまったく違う。この消費資本主義社会で、買わないやつは、凄いやつなのだ。

 ベクトルは全方位に向けられ、かつ無視できぬ運動量がある。それが、自然の理というもんだろう。その有り方を問題にするのが科学的であり、なっとくできる人生模様である。

 ベクトルを只一方方向だけにしかないように、洗脳されて力を喪失しているフリーターやニートを自称するものたちのブログを、あちこちよんでいるが、そうじゃないんだ、君のベクトルにもっと自身と勇気を持ってほしいと切に願って止まない。そもそもフリーターにと、決めたところに最初のベクトルの矢印が発生したのだ。それをわすれるべきではない。後はそのベクトルをいかに強化するかである。
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今ある装置で

2008-04-17 | Weblog
 面白くもない、見たくも無い、騒音にすぎない芝居を演じる舞台装置である宮崎市で、くだらぬ思いつきで、たとえば中心市街地活性化とか公園化とか、コミュニティホールの開設とかに頭を浪費するよりも、今ある装置で、こっちで芝居を演出、上演して楽しめば元気もでるのではないかと、いつも提言してきたが、だんだん実行する人も目に付くようになってきた。

 都市論では楽しく、わくわくする場、買い物するだけでなく遊べる空間、文化を発信するのが中心市街地と、わかったようなことを、もう何十年も繰り返されて言い、かつ実現を試み 失敗してきた。それが都市論なら、そんなものは何の役にも立たないのを、この過去の現実からどうして結論できないのだろう。

 今の宮崎市では、そんなことが、出来るわけは無いだろうに。

 だったらどうする。わくわくする場、買い物だけでなく遊べる空間、文化を発信する場は、自分でこの舞台装置を利用して、自分の芝居を上演すれば、金もかからず、楽しみともなり、まさに笑う門に福来るの光景となる。

 たとえば、イオンショッピングモールを健康のため歩くというお年寄りが、かなりいると聞く。まっくらい公衆便所だけがのそっとある公園よりも、イオンは安全、快適で、かつ気晴らしにもなり、刺激もある。楽しんであるける場となっているわけだ。すでに開設当初から、イオンはお年寄りが目立ったが、最近のウイークディの昼間は一番多いのは若者よりも年寄りである。後期高齢者も姥捨て山に捨てられる!弱気から、なんでもしてやろうという意欲こそ大事、街はその意欲を可能にするさまざまの舞台装置があるのだ。

 いつか言ったが、ぼくの孫は学校の近くのファミレスで、気の合うクラスメートとテストがあると、そこで徹夜で楽しみながら勉強してきている。成績もいい。

 ぼくも安く楽しめる場所としてタリーズの「本日のコーヒー290円」を楽しむ。デパート一階にあり蔦屋書店が同じフロワーに隣接し、目下その書架の本の表紙を全部読もうとしている作業の休憩に利用できる。

 基本的にぼくは遊びには金を投じない主義だから、このときには、この街の舞台装置はすばらしい装置と転換できるのである。金をかけずにどれだけ遊び、楽しめるかは、そのこと自体が遊びでもある。

 街は、本質的に人を遊ばせる装置なのである。中心市街の通りの3分の2を公園化しようとう計画が宮崎市で計画されているが、そんなことに税金を使わずとも、街はそもそも人を解き放ち遊ばせる公園なのを、なぜ理解できぬのだろうか。かれらには薬がいるわ。








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三文芝居の装置

2008-04-15 | Weblog
宮崎市は舞台装置、その芝居は三文芝居、演出は才能なく、役者は大根以下、脚本は紙くずなみということを言ったが、具体的な例を数例あげてみよう。あとは、それぞれに考えて見て欲しい。

 まずは、宮崎市中心市街地の裏通りに出来た「バージニアビーチ」公園がある。なんでそこがバージニアビーチというアメリカ東部の都市の名前になったのか、ほとんどが知ることはあるまい。その公園にはバージニアビーチ市にある灯台の縮尺模型が建てられている。模造煉瓦のやすっぼい灯台模型で、これじゃ本物の値打ちも下がるというものだ。この灯台をなんの目的で据えているのかも意味不明である。要するにアメリカ憧憬の三文芝居が意味不明のまま上演されたのである。
 
 市庁舎に隣接する文化会館のホールは「オルブライト ホール」という。オルブライトという人物を知る若者は何人いるだろうか。なぜ、アメリカの国務長官の名前、長官が女性だったからか。その前年だったか
サミットの外相会議が、宮崎市で開催され、そのときの縁だった。そんなことを今も記憶に残しているものもそういまい。なんの記憶にものこらぬ三文芝居であったわけである。

 近くは、Tステージがある。ほこりまみれで、今カリーノで集客の主動力となった大書店ツタヤの入り口で、来店客の邪魔を、毎日演じている装置。どこかの能無しの演出家が、ニューヨークや,パリの広場のイメージでも思い出して、ここで街頭芸人のイベントが、毎日演じられ、街角に活気がもどると夢想した脚本・演出の結果である。

 あるいはアジアの民族文化という、そのイメージだけをアーケードの柱に飾り付けた装置。これも時流にへつらうだけの身勝手な脚本でしかない。だから誰も見ない、見ても感動はおろか、面白くもない芝居の装置であろう。その他、まだまだ例はあげられるが、あとはそれぞれ、歩き回って、装置を見つけ出し、その芝居の本質を考えて欲しい。跡は、この既成装置をどう変換して、自分のものにするかであろう。
 
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街はない、あるのは装置だ

2008-04-14 | Weblog
 ぼくは宮崎市という都市でも都会でもなく、宮崎市という「装置」に暮らしていると、いつかそう思うようになってきている。3月末に小国町への温泉旅行のときに、その実感はますます深まってきた。郊外ロードサイドショップ、シャッター通り、レトロ風の店、レジャーランド、ショッピングモール、どれもこれも消費を誘発させる装置に見えた。

  都市論というのを、ぼくなりにここ10年ほど考えてきたが、いわゆる都市論では把握できない状況があまりに多くなってきた。街づくりというのが、絶えず喧伝され続け、ときにはつくられだすが、どうしても「街」をつくっているとはおもえない。かっての通りをぶち壊す、わけのわからぬ広場をつくる。街路にステージを設けたり、歴史ある横町をいちづに拡張したりするのが街づくりという名のもとに施工されてきた。

 このたびに都市がもっている歴史、由緒、人間らしいコミュニティなどなどが、
いっそうされていく。できるのは街でなく、街こわしというのが、内容である。
しかし、火災や洪水、地震の街崩壊と同じにかんじられぬのは、あらたな街の装置がつくられるからである。

 ぼくはいつのまにか、わが街でなく、まわりの街は、舞台装置だと思うようになって、かえって街の構造や現状が、都市論という定規で計るより、もっと正確に理解できるようになってきている。

 へぼなメロドラマの作品があり、才能のない演出家が、演出し、ものを考えぬ
演出のいいなりにしか動けない大根役者が上演する芝居の舞台装置だとみれば、いろんなことがよくわかる。
 
 そこで、さっき紹介した面白地理読本の宮崎市の項を、宮崎市民は宮崎市を舞台装置と思っているとしてはどうだろうか。いやこれじゃちっとも面白くないな。

 この装置をへぼ脚本や演出家や大根役者にまかせているばかりでなく、自分で自分なりの芝居をそこで上演していくことを発見、実践していくべきであろうか。そのおもしろさは、ありうるということだ。
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宮崎市は都会?

2008-04-11 | Weblog
 正確なタイトルは忘れたが、お笑い日本地理読本というような本が、書店で目に入り、宮崎県のページをめくって立ち読み、するとこうあった。
 
 「県民(宮崎県民)は、宮崎市だけが都会だと思っている」と、思わずふきだしてしまった。まさにその通りであり、ぐさっとくる指摘でもあった。この宮崎県民は
宮崎市だけを「都会」と思っているという指摘は、宮崎県内には、他にも都会はあるのに、宮崎市だけを都会と思っていると言う意味ではないのだ。宮崎市も都会ではないのに、なに考えているのだろうということなのである。これを聞いて、腹を立てるか、その通りとひざをたたくかのどちらの反応をするのか。後者でなければ
お笑いは成立しないわけである。

 宮崎市は、他の県内の他の都市のように城下町でなく、藩政が終るとどうじに人工的に作られた都市であった。しがらみがなく、伝統もなく、その店では、個人の
自由があり、いわゆる田舎臭さがないということで、都会的なのである。

 しかし、こういう地理読本を書けるような批評眼からみると、ここも都会でなく
田舎であるという、つまりめくそはなくそ、池の中の蛙の意識を笑い話にしたということであろう。

 ただぼくに言わせてもらえると、宮崎市は都会でも都市でもないのだし、他の
市ももちろん都会でも都市でもないのであるわけだ。ではなんなのかということになるのだが、まあいうなれば、暮らしていくための装置だということかな。
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元気を出そう!!

2008-04-07 | Weblog
知的好奇心があり、才能も勤勉さもあり、他人とのコミュニケーションもやれながら、張りが無い、本も以前のように読めない、このままで働いていていいのか、先がみえない、何かをしたいという気分でもないと、二人の若い知人から、お茶をのみながらそんな会話になっていくことが数件あった。ではどうするか、何を言えるのか。

 実は、ぼくは人生の先輩などという言葉が大嫌いなのだ、それを聞くと体中に蕁麻疹がでて来そうだ。人生もくそあるもんか、生きるか自殺するか、どっち選ぶかで毎日毎日が流れているわけで、そんな時空間で先輩も後輩もあったもんではない。いかに決意するかが、そやつの力そのものなのだから。先日ある本のあとがきで、ぼくがその著者の人生の指導者だったようなことが書かれていたが、それはない。人生の指導など一番憎むべきことで、そんなことはやらない。どう生きるかしか、これは自分の問題だが、そういうことはしたけど、訓はしないし、する気もない。

 ところで、まず二人に言ったのは、新聞読むな、テレビ視聴するなであった。それで自分で自分の現在位置を探すこと、その工夫と努力だけで、毎日がすぐに張りがでてくるよと。この体性感覚は、一人で山に登るときにも味わえる。

 それと、テレビはとくそうだが、その視聴を止めることで、消費する欲望から開放されることだ。なにが欲しい,かにが欲しいということから自由になれる。よく考えてみると、今の収入の半分で、生活が可能な方法が見つかるかもしれない。それは、できれば挑戦して欲しい。そうなれば、5年働いたら、浮いた分で、5年遊んで暮らせるのだ。労働によって自分の生き方を阻害されるほど、生きるうえの損害は無いのだ。これを断ち切る工夫は、それだけで生きる目標になりうる,体は活性化してくる。

 メディアは人を消費する人間に意識を変え、奴隷労働に追い込んでいることを、テレビ・新聞を絶つことで、自覚できる。その感覚の再生がまずは、エネルギー源となる。

 そしてもう一つ、朝食を自分で作れ、それを十分に食うことで、うまいものを食い漁るという人間だけがやるおろかなる行為から、つまりこれも消費だが、ここからもすっきりと開放される。食い物をあさるな、食うべき時 食う場所(自宅であろうと、外であろうと)が一番大事である。野良人になって、考えられないようない金額の食い物を漁るのは愚かであろう。

 この二つの行為を実践するだけで、毎日は目標たりうるだろう。そして、かなり
面白いことになるはずだ。楽しみになるかも。楽しめるなら、これが人生である。








































 これで一日、一日やってみよう。人生の目標とか意味なんてものは、みつける必要は無い、これで十分ではないのか。まずここから出発しようではないか。
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サルママ&アート展と神谷君について

2008-04-05 | Weblog
  神谷君にこの2ヶ月会ってなかったが、夕べ、3月26日づけの彼のブログ「完全宮崎主義Mの日記」をみて、かれの「サルママ&アート展」の場所が決まったようで、ほっとして、喜べた。

 ぼくもこの宮崎市でテント劇、暗黒舞踏、ニューヨークのダンスカンパニー、喫茶店演劇、映画祭、クラシックコンサート、ライブ、連続シンポなどなどと、ここ30年近くプロデュースしてきたが、どのときも最大の困難は場所探しだった。いたるところに場所はあるのだが、要するにタダで貸してもらえないのだ。公園などは絶対不可能であった。だから,場所が決まれば計画は九分九厘成功したと安心できたものだ。

 すべての企画で、はじめに金は一銭もなかった。また、金を準備してからやろうとしたこともなかった。金なんかのことを考えつかないほど、おもしろさがぼくを圧倒してやらざるを止められなくなったまま、やるしかなかった。金はいつも入場料でチャラにできた。

 これまでの30数回の企画上演で、満席でなかったの1994年の劇団どくんごの公演のときだけだった。台風のさなかに上演を決行したからだ。ちょとやそっとの台風でやめたくないほど、やりたかったのだ。スタッフ一同も燃えていた。

 神谷君にあえて、金づるの相手を紹介しなかったことは、こんな体験があったがためだった。それと、かれほどの才能を、くだらぬやつや組織の前で媚をうらせる姿をみたくなかったのだ。かれは、つねに中学でも高校でもトップの成績であった。トップもトップ文字通り一番のテスト成績を張り出される存在であった。それが、自分の意志に反するといって南高校を自主退学したのだ。そのご、医者になって今安定してしまったぼくの長男は、神谷くんのことをいつも誇りのように語っている。
 この反骨の精神、そのクリエィティーブな能力を、金に屈服させた
くないのだ。
 
 
 神谷君、やりたいことは、君にとってなんなのだろう。大衆を啓蒙するためか?大衆から賞賛されるためか。メディアの注目をあつめるためか?そんなことはくそくらえだよ。自分を楽しませるためだけにやればいい。自分の楽しさを自分以外の人々も楽しめるというだけで完全主義はないのか。そのための自分のレベルの超越性だな。ここだけが核となる。それだけがなにかを生むかもしれない。

 そういうことではないかと、ぼくは思う。

 君らのやったミニコミ誌「サルママ」について、もうしばらくして
連続エッセイを書き始めようと思う。近くまた会いたい。
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消費者マトリックス

2008-04-05 | Weblog
  小国町の「亀山の湯」の翌朝、付近の豆腐所の一店に朝食をしに行った。ここも典型的な和風レトロ建築、柱からテーブルまで黒塗りのお膳のごとくだった。おまけに壁には、例の詩のつもりか、人生訓が額縁に入って掲げてあった。一人であれとか、明日の希望なんとかとか歯の浮くようなくだらぬ文句が並んでいる。

 で、朝食のセットが高すぎるので、ご飯250円、味噌汁120円、つけもの100円とかを頼んでみた。息子夫婦や家内はもちろんセットだ。このご飯というのが、ぜんざいを入れるふたつきの黒い椀であった。小さすぎる椀に夕べの残りご飯のようなばさばさのが、詰まっていた。味噌汁はもっと小さな椀に豆腐とあぶらげがごたごた詰め込まれていて、インスタント味噌汁よりも単調な辛いだけの汁であった。息子たちがいなかったら、こんなものがくえるかと文句を言いたかった。何だ偉そうな壁の人生詩は、レトロでだますな、というわけであった。

 次に「阿蘇ファームランド」というのに昼前に入園した。ショッピングモールと運動施設と温泉があり、ここのショッピングモールは、板の廊下でつながり、そこに安上がりの鉄骨の建築があり、カフエからお土産店、工芸店まで、ごちゃごちゃとつながっていた。おまけにあちこちが工事中で何処がトイレか、温泉はどこか、見当もつかない乱雑な広がりであった。

 温泉は露天が運動場なみに広く、そのあちこちに池のようによどんだ浴槽が点在していた。そして温泉もモールの通路のあらゆるところにあの電飾のランプをつらねたのが雲の巣のように、かすみとなってはりめぐらされていた。「人、自然、元気」という「大自然テーマパーク」とうのだそうだ。孫が入りたがった元気の森の施設は工事中で5施設が使用不能なのに入場料、正規料金で900円。トイレの床はびしょびしょで、ペーパーも切レたまま、それでも人がかなり歩き回っていた。

 ここを出て、午後4時ごろ八代のイオンモール、これもまた安普請のモールが100メートルもあり、どの店の婦人服、カジュアル、靴、家具、雑貨、いわゆる安物、キッチュのみであり、只でも持って帰りたくない代物が洪水のように溢れていた。ここは昔アウトレットの店をイオンが買い取ったとうことで、なるほどとその安っぽさがなっとくできたわけである。ここで毎日働く店員は、神経がもつのだろうか。わくわくするものは何もない空間で

 この旅の風景・情景に共通するものは、なにがなんでも金を使わせて利益をあげるとう消費経済の商魂であり、その商魂に魂を抜かれる消費者の存在であった。

 こういう施設が生き続けることが可能というのは、人格を変換されて、それになんの疑問も感じることが出来なくなったマトリックな均質、非個性の消費人間に変わったぼくらがいるからであろう。

 これから時代はだんだん景気が悪くなるということだ。いいことだ。こんな施設に金を払って楽しんでいるような生活がいっそうされて、消費者から人間になれるなら結構なことではないか。

 次男夫婦や小学2年生になった孫と旅したことは、じつに楽しかったが、ぼくの楽しみは、その風景と情景にあった。これからのかれらの人生もどうなるんだろう。まあ、彼らはこんな時代でも楽しめるようだ。偉いといえば偉い才能、あほといえばあほだ。だが、ぼくにはどうしようもない。どっかで、消費人間から脱却し、このマトリックスから自己を開放して欲しいとは思うのであった。

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小国町の温泉へ

2008-04-03 | Weblog
  3月30日、31日土日は次男が、黒川温泉で知られた小国町の温泉に連れて行ってくれた。「亀山の湯」というのだが、付近は湯坪温泉、岳の湯、筋湯、はげの湯温泉とかまさに温泉の巣であった。孫はこの温泉でははげになっとやとおどろいていた。「亀山の湯」というのは地下1000メートルまで堀って湧き出てくる湯だという。なんでここまでするの!

 今、ここで書こうというのは、この温泉よりも自動車の外に流れていった風景、帰途たちよった、テーマパークやイオンモールなどである。

 ぼくは宮崎市街に暮らして、都市とはなにかとか、中心市街地の問題とか考えることが多いのだが、片方では、どうもぼくの思う都市は、もはや消滅してしまったのではないかという思いも、いつもあるのだけど・・まさにその思いを裏付けるような光景に、つぎつぎと出くわして息を呑んだのだ。

 まずは日向市、そのロードサイドショップの数キロのバイパス風景、昔はぱらぱらとして貧乏臭い感じがしたのだが、今や大都市の密度をもち、いったいここで消費するほどの人口がいるのだろうかと、仰天した。この道路には人影一つも無かった。次は、延岡市の市街地のど真ん中に有料道路は入った。まさにシャッター通り、商店街の十字路から見る店がことごとくシャッターが閉まっているというのは、今や元旦でもお目にかかれないことだ。この空っぽの通りは、改めてみるとショッキングであった。

 宗太郎峠から分かれて国道326号いわゆる「三国街道」の「うめ道の駅」の瀟洒なレストランから北上をつづけ、三重町にいたり、ここから竹田市へと向かう。ここからはなぜか「日向街道」呼び名が変わる。

 そして、とつぜん風景はレトロ調になる。大野町の道の駅は黒い柱の和風建築が何棟も並ぶショッピングモールであった。竹田を過ぎて、国道の脇には、数え切れないほどのだんだん畑が現れだした。数畝の小さな小さな水田の重なりだ。今の消費経済の日本で、こんな非能率な生産をつづけるとは、趣味かこだわりか、そのレトロさに胸を打たれる。その沿線の木造和風のレストランや、カフエもまさにレトロである。

 この黒っぽい木造和風というのが、こんどはどこまでもついてきた。久住高原の高度1000メートルの展望所のレストランも、そば店も土産品店もことごとく黒い柱の和風ショップであった。そのまま「亀山の湯」の広大な敷地に並ぶ離れ造りの家屋に落ち着いたのである。そして、外食の豆腐屋レストランも手打ちそばの店もまた、この黒い和風の木造建築であった。こうなると、レトロを楽しむことでなく、中身が問題と、一瞬にしてかわったのである。

 中身で勝負してもらわなくっちゃとなったのであった。レトロがなんだっていうのだと、またひねくれだしたのである。

 
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2008-04-01 | Weblog
 先日の日曜日、宮崎市街を流れる水路 まあ溝なんであるが、昔からの名前は「小松川」だ。そのコンクリートの水路溝に変じられた小川を、宮崎市庁舎横の川口から水源を求めて、さかのぼっていった。だが、南九大の正門前でとつぜん地下にもぐってしまった。ここは旧宮崎大学農学部の西にあった蚕糸試験場、その後、農業生物資源研究所という偉そうな名前になった施設の跡地である。
 
 仕方なく大学前を左折して大淀川堤防の方へ自転車をすすめると、ここらはなんと生まれて初めて訪れる一帯であるのに気がついた。この宮崎市にまだぼくの訪れぬ地帯があるとは、まさにおどろきそのものである。

 見知らぬ街というのは、見るものすべてが新しい。たちまち、ここが自分の暮らす「Mの国」(宮崎市がつけた気取った無意味なる愛称)内だとは思えなくなった。見知らぬ街の中の不安感もあり、それがまた旅先の感じを与えてくれる。とある角地の住宅などはスペイン風で、とつぜん遊園地にまぎれこんだような開放感を感じた。そしてついに二階建ての西洋館を発見、ここは喫茶店で、日曜日でクロースしていた。平和台病院まえの交差点から,この白い洋館ははっきり見える。これまで気づくことも無かったのだが。

 かくして、午後数時間の自転車での走りであったが、小さな旅となった。
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フリターは不滅なり

2008-03-01 | Weblog
 フリターの仕事は社会的無業と一言で片付けられたその仕事の内容は、インターネットで検索できる。試みにアルバイト情報というようなキーワードで、検索すると、瞬時に水道管が爆発したように、情報サイトが噴出してくる。たとえば:
      fromA navi
      fromA Career
      DOMO NET
      anセレクト
      anエリア
      anレギュラー
      ワークゲート
      ITワーク
      Foopal
      e-aidem
 
 そのどれもが、職種、地域、労働内容、賃金と詳細な情報をつたえ、かつ複合検索をくりかえして、目的のアルバイトにたどり着けるすぐれものである。とにかく、アルバイト情報のキーワードだけで380万のサイトがでてくるのだから、想像をこえる。
 風俗アルバイトで検索すると、ファッションヘルスからイメクラ、デリヘリ、ソープからアダルトビデオ、メールレディなどなど20種以上の「お仕事」内容が写真入りで懇切丁寧に解説され、風俗アルバイト入門をなしている。宮崎市でもファッションヘルスの募集店が11店と紹介される。

 まさにアルバイトは不滅、そしてディープである。OPPOなどを見ると、企業者の成功実例報告が、確定申告の写真入り、家庭生活の写真入りで、その成功物語が多数紹介されたりもしている。やれ、さらば与えられんの切迫感に息を呑まされる。

 これらを見ていくと、アルバイトも正規社員もまったく同じ、経済社会の成員である同じ労働者であり、未来永劫、これらフリーターなしには経済社会はなりたたないと実感させられる。だから、フリターがやることはたった一つ、同じ労働者としての権利を主張することであり、三浦の主張する精神分析でなない。マニュアルの理解とマスターではないか。

 この世にミリオネーゼのあることを彼は賞賛するが、ミリオネーゼ一人に貧乏人が何人必要なのかと思わないのだろうか。この世にミリオネーゼがおるかぎり、貧乏人はなくならないのではないか。精神を入れ替えても、理屈から言って無理だ。パイの分け方こそもっと合理的になるように、制度や会社のあり方をそれこそ「精神分析」する必要があるのではないか。

 それに近未来、フリターがどうのこうのと言ってられないようになろう。なにしろ働く日本人が2000万人も足りなくなってくるというではないか。ミリオネーセを養って、フリターを低賃金でこき使っているような会社は、滅びるだろう。

 そこで提言、仕事など探すより一人で生きる探検家のライフスタイルを確立して、近未来に備えよということだろう。

 最後に「下流社会」や「アルバイト マニュアル」が出版された10年前は、バブル崩壊で会社の首切り、リストラ時代であった。多くの評者が脱会社のエールを発していた。会社に頼るより、自分に頼るのは、原則であろう。

 さて、今日でこのブログは500篇になった。新しいスタイルで書くことを模索してみたいと思う。できるかどうか。できなければやめるしかない。

 
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社会科学は統計、マンガは人が中心

2008-02-28 | Weblog
 
 さて、ここでなぜ人はアルバイトをするかは、マニュアルのほうが、なるほどと、まさに身に染みるように実感させてくれる。小杉氏の分類は、そうだと思えるが、なんの興味も引かないばかりか、現実感もない。前者は人がなぜしなければならぬかの現実感があり、後者は、人でなく「タイプ」が強調される。こちらには、人がなぜアルバイトをしなければならぬかの切実感も視線もない。ここが三浦氏のいう社会的無業という見方ときわめて共通している。フリーターなどやってるのは、まちがいであるという意識が、マニュアルを並べてみるとはっきりしてくるのがおもしろい。

 人を見る感触が決定的にちがっている。マニュアルには生きて変化し、状況に流されたり、超えたりしていく人の生き方が感じさせられるが、一方はタイプであり、統計処理されて終わる社会的問題の対象でしかない。どちらが現況に即応できるのか。


 このマンガを挿入しておもしろ、おかしく、軽く展開していく「おいしいバイトマニュアル」は、いわゆる教養や専門知識、学識を漂わせている新書「下流社会」よりもはるかに現実感がある。なぜアルバイトなのか皮切りに、どんなアルバイトがあるのか、その探し方、労働法の知識、そしてバイトで一花咲かすライフスタイルと、きわめて実践的なバイト入門書になっている。

 「下流社会」では、バイトは「社会的無業」として、その実態はブラックボックスの中に押し込められ、バイトをする若者の意識の弱さ、甘さ、モラトリアムの精神面が問題にされる。ここでは、バイトをするのが人間でなく、タイプであり、失敗者として位置づけられ、その大きな要因のひとつが「自分探し」という夢であり、ここから早く目覚めて、仕事を探さなければ将来は下層人ということになる。人を論じているようで、人でなく統計だけの事実だけを解釈している論でしかないわけだ。

 論でなく、生きている人間を中心に思考を重ねる「バイト マニュアル」のほうがはるかにおもしろく、バイトという現実に想像を馳せさせる。配送、水商売,オヤジを転がして指名料をふんだくろう、ファミレス、空いてる時間で手軽にダブルワーキン、ガードマン 人間関係で悩ます日給一万円などなど、アルバイトはディープで、想像を超えた領域が広がっている。こうなると、フリターとは、一つの特権的ポジションでしかない。気軽で身軽さを武器に人生を楽しむということは、人間の基本であるのではないか。それをやって、なにがおかしいのか、ぼくはそう思う。

 ただ、乞食にならぬように、その生き方のテクニックを学ばねばならない。そこだけ学べば、組織の奴隷となって一生の最終局面に入るよりも、はるかに社会のためになる一生だといえようか。
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