20091013 火 晴れ
朝は長袖でも冷たい。もう半そででは、日中でも過ごせなくなった。
土曜から、延岡の薪能を観劇するために出かけた。
薪能の評判は、絶賛の声をなんども聞いてきたが、今回初めて行ってみることにした。熊本市や長崎市の友人夫妻と、去年から年に一度3家族で小旅行をしようとすることをはじめ、去年は長崎、今年は宮崎で、節子が薪能を選んでの旅行となったわけであった。
評判通り、会場は、2500人の客席はほぼ埋まってしまっていた。延岡の内藤藩主の城跡、その城壁の前に舞台をしつらえて、薪が舞台左右で燃やされる。それで薪能といわれるのだろうと思う。もちろん薪能の表現形式はあるのだろうが、素人には薪の明かりで能を舞うので、薪能と思うくらいのことである。
6000円のスペシャル席というが、面も人の表情も遠くで点にしか見えない。ただ、声だけははっきりとスピーカーで伝わってくる。野球場の照明にそっくりの照明が舞台に向かって注がれている。能という舞台は、城壁とそのまわりに生育している大樹、うまい具合に両袖を覆うように形良く生えている2本の大樹こそは、申し分のない能舞台の要素を形成してしているのだった。ここが、野球場やアイスショーにみえず、能という古代芸能の場となるのは、この延岡城址という装置が生かされているからである。
この観劇でなによりもおどろき、関心をいだかされたのは、この2500人という観衆が、息もとまったように凝縮して舞台に意識をそそいでいる緊張した雰囲気であった。どんなささな音さへ会場をこわしかねないような能舞台一点を中心にしてはりつめている静寂さというべきものであった。この氷のように凝縮した観客2500人の会場に謡の言葉や音曲だけが、満ちていく。能面も表情も点でしかないのに、なぜこれほどまでに舞台に引き込まれてつづけるのだろうか。ほんとうに能に引き込まれているのだろうか。そうは思えない。でななんなのか。
それにしても能の力とはなんなのだろうか、その思いに駆られて、では面も表情も謡ももっと直接に感じられる最前列にて観劇するとどうなるのか、それが知りたくなって休憩時間になったとき、最前列の空いた席を買うべく、ややこし通路を辿りながら、舞台正面の特等席にたどりついた。いくらか空いている。探していると、危ないですわよと優しい声が品のいい中年婦人がかけてくれた。周りの人々もなんか優しげにこちらの動きをみていてくれているようだった。さすがこの贅沢を楽しめる層は、余裕があるなと感じて、しばらく通路にしゃがんで空いた席を確認しようとした。やがて会場はふたたび暗くなり、席は10席ばかり空席のままであった。そこで、そこへ座ってしまった。
椅子には座布団まで敷いてあった。周りにもまえにも同席者はいず、これほどの恵まれた観客席は、この2500席のなかにはありえないほどの位置であった。そこで、ぼくはすべてを舞台に集中しだした。この薪能が発する求心力とはなんであろうかと、舞台「一角仙人」の能面とその美女に惑わされる動きを注視つづけていったのだ。
そしておどろくべきことは、ここで観る舞台もはるか後ろのスペシャル席で見る舞台もなんら変わらぬことであったことだ。この席でもやはりアイスショーか野球、ライブを感じるのと変わらない感じであったことである。
能面ははっきり確認できても照射するサーチライトのなかでは平面であった。なによりも声をどの役者や謡手が発しているのかわからない。スピーカーの声だけがスペシャル席とおなじように聞こえてくる。かえって口だけが動いているのがみえるので、違和感があった。動きも遠くでみたほうがきれいであった。そしてあの緊張あふれる静の時間、動の盛り上がりも近くても遠くてもかわらない。つまりこの特等席でも、この巨大観覧場という空間の本質は同じであったのだ。
薪能の煮詰まった本質などというものは、最前列の最上の観客席にもなかったのである。では、ぼくは、能のなにを見たのであろうか。
そのとき、ぼくが気づいたのは、能を消費しているという消費行動という欲求満足であった。つまり現代消費社会では、われわれは、そのものが現実でもつ機能や存在価値でなく、その雰囲気を消費しているという事実である。ビールを飲むというより、そののどこしとか端麗とかイメージを飲んでいるという事実である。寒暖や防護で衣服を着るようなやぼなやつはいなくなった現在、衣服とは自分がどれだけ他に勝るかという表現である。衣服の機能は、自己表現の言語になって消費される。
能もまた伝統文化、武士の精神文化を理解できる自分の存在価値の確認として消費されているのである。城壁はそれを高める。数百メートルとつづく提灯の明かり、要所、要所のかがり火の火、城壁と伝統的日本の美意識が、きわめて典型的な要素を使用して観客を納得させていくのだ。観客はすでに延岡城の石垣のしたに着いたとたんに、この雰囲気にまきこまれていく。
開演が始まるまえの時間で、薪能のお弁当(1500円)弁当が、庭の縁台で予約者には提供され、ここも一杯でみな食事していた。一週間もたったかという鮎の寒露煮やかんたんな煮物などのついておいしくもない弁当であったが、これも魅惑的な舞台前の食になる。本質とはなんの関係もない。ペットボトルのお茶が甘露になる。すべては、薪能の舞台機能より、それがもつシンボルを消費していっているのだと理解できたのであった。
このおおがかりな現代消費社会の条件にみごとに一致すべくプロデュースした仕掛けをやった意図の成功をあらためて感心するのであった。これで6000円しはらってもほとんど観客が満足されるのであれば、文句のつけようもないわけだ。現代消費社会の消費は芸術の消費においてもその原則は生きているのだった。
その夜、終って、ホテルの一室で、3家族、深更まで話がはずんだが、能の話はほとんど出なかった。前列でも後列でもぜんぜん変わらなかったというぼくの話にみながさもありなんと肯定したのも、能の本質はもともとかれらも欲求していなかったせいであろうかと思えたのであった。現代消費社会の凄さがおもしろかったのである。
朝は長袖でも冷たい。もう半そででは、日中でも過ごせなくなった。
土曜から、延岡の薪能を観劇するために出かけた。
薪能の評判は、絶賛の声をなんども聞いてきたが、今回初めて行ってみることにした。熊本市や長崎市の友人夫妻と、去年から年に一度3家族で小旅行をしようとすることをはじめ、去年は長崎、今年は宮崎で、節子が薪能を選んでの旅行となったわけであった。
評判通り、会場は、2500人の客席はほぼ埋まってしまっていた。延岡の内藤藩主の城跡、その城壁の前に舞台をしつらえて、薪が舞台左右で燃やされる。それで薪能といわれるのだろうと思う。もちろん薪能の表現形式はあるのだろうが、素人には薪の明かりで能を舞うので、薪能と思うくらいのことである。
6000円のスペシャル席というが、面も人の表情も遠くで点にしか見えない。ただ、声だけははっきりとスピーカーで伝わってくる。野球場の照明にそっくりの照明が舞台に向かって注がれている。能という舞台は、城壁とそのまわりに生育している大樹、うまい具合に両袖を覆うように形良く生えている2本の大樹こそは、申し分のない能舞台の要素を形成してしているのだった。ここが、野球場やアイスショーにみえず、能という古代芸能の場となるのは、この延岡城址という装置が生かされているからである。
この観劇でなによりもおどろき、関心をいだかされたのは、この2500人という観衆が、息もとまったように凝縮して舞台に意識をそそいでいる緊張した雰囲気であった。どんなささな音さへ会場をこわしかねないような能舞台一点を中心にしてはりつめている静寂さというべきものであった。この氷のように凝縮した観客2500人の会場に謡の言葉や音曲だけが、満ちていく。能面も表情も点でしかないのに、なぜこれほどまでに舞台に引き込まれてつづけるのだろうか。ほんとうに能に引き込まれているのだろうか。そうは思えない。でななんなのか。
それにしても能の力とはなんなのだろうか、その思いに駆られて、では面も表情も謡ももっと直接に感じられる最前列にて観劇するとどうなるのか、それが知りたくなって休憩時間になったとき、最前列の空いた席を買うべく、ややこし通路を辿りながら、舞台正面の特等席にたどりついた。いくらか空いている。探していると、危ないですわよと優しい声が品のいい中年婦人がかけてくれた。周りの人々もなんか優しげにこちらの動きをみていてくれているようだった。さすがこの贅沢を楽しめる層は、余裕があるなと感じて、しばらく通路にしゃがんで空いた席を確認しようとした。やがて会場はふたたび暗くなり、席は10席ばかり空席のままであった。そこで、そこへ座ってしまった。
椅子には座布団まで敷いてあった。周りにもまえにも同席者はいず、これほどの恵まれた観客席は、この2500席のなかにはありえないほどの位置であった。そこで、ぼくはすべてを舞台に集中しだした。この薪能が発する求心力とはなんであろうかと、舞台「一角仙人」の能面とその美女に惑わされる動きを注視つづけていったのだ。
そしておどろくべきことは、ここで観る舞台もはるか後ろのスペシャル席で見る舞台もなんら変わらぬことであったことだ。この席でもやはりアイスショーか野球、ライブを感じるのと変わらない感じであったことである。
能面ははっきり確認できても照射するサーチライトのなかでは平面であった。なによりも声をどの役者や謡手が発しているのかわからない。スピーカーの声だけがスペシャル席とおなじように聞こえてくる。かえって口だけが動いているのがみえるので、違和感があった。動きも遠くでみたほうがきれいであった。そしてあの緊張あふれる静の時間、動の盛り上がりも近くても遠くてもかわらない。つまりこの特等席でも、この巨大観覧場という空間の本質は同じであったのだ。
薪能の煮詰まった本質などというものは、最前列の最上の観客席にもなかったのである。では、ぼくは、能のなにを見たのであろうか。
そのとき、ぼくが気づいたのは、能を消費しているという消費行動という欲求満足であった。つまり現代消費社会では、われわれは、そのものが現実でもつ機能や存在価値でなく、その雰囲気を消費しているという事実である。ビールを飲むというより、そののどこしとか端麗とかイメージを飲んでいるという事実である。寒暖や防護で衣服を着るようなやぼなやつはいなくなった現在、衣服とは自分がどれだけ他に勝るかという表現である。衣服の機能は、自己表現の言語になって消費される。
能もまた伝統文化、武士の精神文化を理解できる自分の存在価値の確認として消費されているのである。城壁はそれを高める。数百メートルとつづく提灯の明かり、要所、要所のかがり火の火、城壁と伝統的日本の美意識が、きわめて典型的な要素を使用して観客を納得させていくのだ。観客はすでに延岡城の石垣のしたに着いたとたんに、この雰囲気にまきこまれていく。
開演が始まるまえの時間で、薪能のお弁当(1500円)弁当が、庭の縁台で予約者には提供され、ここも一杯でみな食事していた。一週間もたったかという鮎の寒露煮やかんたんな煮物などのついておいしくもない弁当であったが、これも魅惑的な舞台前の食になる。本質とはなんの関係もない。ペットボトルのお茶が甘露になる。すべては、薪能の舞台機能より、それがもつシンボルを消費していっているのだと理解できたのであった。
このおおがかりな現代消費社会の条件にみごとに一致すべくプロデュースした仕掛けをやった意図の成功をあらためて感心するのであった。これで6000円しはらってもほとんど観客が満足されるのであれば、文句のつけようもないわけだ。現代消費社会の消費は芸術の消費においてもその原則は生きているのだった。
その夜、終って、ホテルの一室で、3家族、深更まで話がはずんだが、能の話はほとんど出なかった。前列でも後列でもぜんぜん変わらなかったというぼくの話にみながさもありなんと肯定したのも、能の本質はもともとかれらも欲求していなかったせいであろうかと思えたのであった。現代消費社会の凄さがおもしろかったのである。