市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

延岡薪能を観劇

2009-10-13 | 演劇
20091013 火 晴れ
 朝は長袖でも冷たい。もう半そででは、日中でも過ごせなくなった。

 土曜から、延岡の薪能を観劇するために出かけた。

 薪能の評判は、絶賛の声をなんども聞いてきたが、今回初めて行ってみることにした。熊本市や長崎市の友人夫妻と、去年から年に一度3家族で小旅行をしようとすることをはじめ、去年は長崎、今年は宮崎で、節子が薪能を選んでの旅行となったわけであった。

 評判通り、会場は、2500人の客席はほぼ埋まってしまっていた。延岡の内藤藩主の城跡、その城壁の前に舞台をしつらえて、薪が舞台左右で燃やされる。それで薪能といわれるのだろうと思う。もちろん薪能の表現形式はあるのだろうが、素人には薪の明かりで能を舞うので、薪能と思うくらいのことである。

 6000円のスペシャル席というが、面も人の表情も遠くで点にしか見えない。ただ、声だけははっきりとスピーカーで伝わってくる。野球場の照明にそっくりの照明が舞台に向かって注がれている。能という舞台は、城壁とそのまわりに生育している大樹、うまい具合に両袖を覆うように形良く生えている2本の大樹こそは、申し分のない能舞台の要素を形成してしているのだった。ここが、野球場やアイスショーにみえず、能という古代芸能の場となるのは、この延岡城址という装置が生かされているからである。

 
 この観劇でなによりもおどろき、関心をいだかされたのは、この2500人という観衆が、息もとまったように凝縮して舞台に意識をそそいでいる緊張した雰囲気であった。どんなささな音さへ会場をこわしかねないような能舞台一点を中心にしてはりつめている静寂さというべきものであった。この氷のように凝縮した観客2500人の会場に謡の言葉や音曲だけが、満ちていく。能面も表情も点でしかないのに、なぜこれほどまでに舞台に引き込まれてつづけるのだろうか。ほんとうに能に引き込まれているのだろうか。そうは思えない。でななんなのか。

 それにしても能の力とはなんなのだろうか、その思いに駆られて、では面も表情も謡ももっと直接に感じられる最前列にて観劇するとどうなるのか、それが知りたくなって休憩時間になったとき、最前列の空いた席を買うべく、ややこし通路を辿りながら、舞台正面の特等席にたどりついた。いくらか空いている。探していると、危ないですわよと優しい声が品のいい中年婦人がかけてくれた。周りの人々もなんか優しげにこちらの動きをみていてくれているようだった。さすがこの贅沢を楽しめる層は、余裕があるなと感じて、しばらく通路にしゃがんで空いた席を確認しようとした。やがて会場はふたたび暗くなり、席は10席ばかり空席のままであった。そこで、そこへ座ってしまった。

 椅子には座布団まで敷いてあった。周りにもまえにも同席者はいず、これほどの恵まれた観客席は、この2500席のなかにはありえないほどの位置であった。そこで、ぼくはすべてを舞台に集中しだした。この薪能が発する求心力とはなんであろうかと、舞台「一角仙人」の能面とその美女に惑わされる動きを注視つづけていったのだ。

 そしておどろくべきことは、ここで観る舞台もはるか後ろのスペシャル席で見る舞台もなんら変わらぬことであったことだ。この席でもやはりアイスショーか野球、ライブを感じるのと変わらない感じであったことである。

 能面ははっきり確認できても照射するサーチライトのなかでは平面であった。なによりも声をどの役者や謡手が発しているのかわからない。スピーカーの声だけがスペシャル席とおなじように聞こえてくる。かえって口だけが動いているのがみえるので、違和感があった。動きも遠くでみたほうがきれいであった。そしてあの緊張あふれる静の時間、動の盛り上がりも近くても遠くてもかわらない。つまりこの特等席でも、この巨大観覧場という空間の本質は同じであったのだ。

 薪能の煮詰まった本質などというものは、最前列の最上の観客席にもなかったのである。では、ぼくは、能のなにを見たのであろうか。

 そのとき、ぼくが気づいたのは、能を消費しているという消費行動という欲求満足であった。つまり現代消費社会では、われわれは、そのものが現実でもつ機能や存在価値でなく、その雰囲気を消費しているという事実である。ビールを飲むというより、そののどこしとか端麗とかイメージを飲んでいるという事実である。寒暖や防護で衣服を着るようなやぼなやつはいなくなった現在、衣服とは自分がどれだけ他に勝るかという表現である。衣服の機能は、自己表現の言語になって消費される。

 能もまた伝統文化、武士の精神文化を理解できる自分の存在価値の確認として消費されているのである。城壁はそれを高める。数百メートルとつづく提灯の明かり、要所、要所のかがり火の火、城壁と伝統的日本の美意識が、きわめて典型的な要素を使用して観客を納得させていくのだ。観客はすでに延岡城の石垣のしたに着いたとたんに、この雰囲気にまきこまれていく。

 開演が始まるまえの時間で、薪能のお弁当(1500円)弁当が、庭の縁台で予約者には提供され、ここも一杯でみな食事していた。一週間もたったかという鮎の寒露煮やかんたんな煮物などのついておいしくもない弁当であったが、これも魅惑的な舞台前の食になる。本質とはなんの関係もない。ペットボトルのお茶が甘露になる。すべては、薪能の舞台機能より、それがもつシンボルを消費していっているのだと理解できたのであった。

 このおおがかりな現代消費社会の条件にみごとに一致すべくプロデュースした仕掛けをやった意図の成功をあらためて感心するのであった。これで6000円しはらってもほとんど観客が満足されるのであれば、文句のつけようもないわけだ。現代消費社会の消費は芸術の消費においてもその原則は生きているのだった。

 その夜、終って、ホテルの一室で、3家族、深更まで話がはずんだが、能の話はほとんど出なかった。前列でも後列でもぜんぜん変わらなかったというぼくの話にみながさもありなんと肯定したのも、能の本質はもともとかれらも欲求していなかったせいであろうかと思えたのであった。現代消費社会の凄さがおもしろかったのである。 
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どくんごテント演劇は、絶滅品種

2009-08-18 | 演劇
 盆休みで霧島旅行人山荘で温泉ざんまいの時間をすごして、実行委員会もテント劇上演をも忘れた。て、ホテルのキーも、ぼくの携帯も、デジカメも時計も家の台所の鍵も、財布も手帖も、今回は忘れることも無く、みんなあるべきところに安全に持ち帰った。ホテルには13日と15日を泊り、連泊ではなく通うのであったし、7歳の孫を連れ、15日はその両親もいっしょでかれらのペースにあわせてのんびりするどころか、忙しい毎日でもあったが、それでもおかげでリフレッシュできた。

 帰ると、どくんごから、UHB(北海道)スーパーニュースでの劇団どくんご特集のDVDが送られてきていた。7月8日余市町(よいちちょう)・丸山公園での上演までを何日か追い、舞台シーンとともにエピソードをまとめてあった。吉田さんとう若い女性が、たった一人の実行委員としてがんばって、彼女のほかに上演委員が集まらなかった。それでも上演を成功させたストーリーで、思わず涙がでた。たった一人で上演まで、アア、彼女にくらべればなんというぼくの贅沢か、これで盆休みで生き返ったなどというべきではなかった。

 こどもたちが楽しめるという芝居、児童劇ではない「ただちに犬 deluxe」の内容の豊かさをあらためて再認識させられるのであった。こちらもよしがんばらなけりゃと思うのであった。

 ちらしを手渡して、ただちに行きたいという反応を、今日も一人からもらう。ただし、その人の背後には何人かが、また関心をよせてくれそうな気もする。ほんとに「犬も歩けば人に当たる」という感じである。

 昨日、「タウン みやざき」の9月号で、紹介してもらえるとして、先日インタービューを受けたが、はや紹介記事を記者はまとめていた。その記事の内容をチェックしてほしいとメールがとどいた。写真入りの紹介はありがたい。

 また、夏休みで休憩中ということでHouちゃんに電話したところ、休憩どころか連日、県内での唄旅をつづけている彼女は、わざわざチラシをとりに立ち寄ってもらえた。わたしが行くところには、こういう芝居を好きな人が多いとおもうということであった。彼女も9月からまた全国唄旅にまわり、11月にはかならず観るからとうれしいエールを送ってくれた。

 ちんどん屋さんで、就業中の未来君が、どくんご上演に協力をしたいといい、4年ぶりにランチをともにした。また、国家公務員の課長さんに出世した昔の「黒テント上演実行委員会」の鉄の会計と賞賛した久美ちゃん、今は忙しくすぎてついチケットをあずけるのを遠慮したが、私だって10枚くらいは売れるわよと、ぼくに言っといてと言付けをよこしてくれた。わたしにちらしを作らせてというデザイナーもあらわれたし、あちこちで、むくりむくりとひとがおきあがりだしている。金をためるより人を貯める、これは真実なりかも。

 テント芝居上演はなんといっても、一人一人の楽しみのためにある。ひとりひとりのよろこびのためにやろう。どいの代表は,インタービューで答えていた、テント芝居なんで、いまや絶滅品種、みなさまの保護がなければいきられませんと、それは自負かそれともジョークか、それほど、今年はあちこちで盛会がつづいている。

 絶滅品種だからこそ価値があるのではないか。これを失っては大損であるという思いがするのである。そうではありませんかね。

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 どくんご実行委員会第一回 ここのところ脳が割れている

2009-08-11 | 演劇
 8月7日夜7時から、テント劇上演の実行委員会を開くことができた。みな生きるための忙しすぎる。公務員でさへ残業、残業でまともに家へかえれない。こんな社会なんで、ほんとおかしい。

 ということで、ぼくもどうすればいいのか、今のところ実行委員会活動の具体案さへ思い浮かべられない。かってない活動のやりにくさを痛感する夜であった。おまけに送付されてきたチケットには、料金のほかは、日時・場所、主催者、問い合わせ先、ホームページやメールのいアドレスなどもすべて、このチケットに追加記載しなければならない。11月2日と3日のチケットも区別しなければならない。チケットだけでも問題発生した。そこでいまは販売するかなどには程遠く、話も進めないのだった。結局、一時間後は、近くのマクドナルドで歓談してすごし、そこだけが盛り上がり楽しい夜となって散会した。盆休みが終っての21日にチケット販売計画には入ることになった。

 8月には入って、天候まで不順、例年なら太平洋から乾いた東風がたえまなく吹き寄せ、まるでハワイのような過ごしやすい季節になっているのだが、蒸し暑く、疲労感がとれず、雨なら人を訪ねるのも一苦労である。おまけに異様なほど、物忘れがおき始めている。始めは喫茶店「シャングリラ」で山崎と、過去のどくんご売券記録を検討したが、翌日、名簿が見当たらなくなった。その日、フィットネスクラブに泳ぎに行ったとき、用心してキャビネットのハンガーにG-ショックの電波時計をもつるし、わすれぬようにしたのに、忘れて帰った。その2日後、16日までに販売をたのまれているコンサートのチラシとチケット5部をどこに置いたかわからなくなった。また水曜日に協力をもうしでてくれた女性と喫茶店であったとき、財布をわすれていた。そして昨日、山崎とランチしたとき、携帯をショルダーバッグに入れたまま、わすれて帰った。おどろくことに忘れたという記憶さへ完全に抜け落ちてしまっているのであった。

 幸い、全品、ぶじ手元にもどってきたのは、運命の配慮というか、幸運がついているとしかいいようがないのだ。山崎にいわせると、ランチの30分で、ぼくの話した項目は、ブログの「かれ」の近況、その成功、ウイングママとその後、知人のA,B,Cのこと、アートセンター竣工、文化状況、行政の対応、次回イベントの進捗具合、プロショップコンサートとEの評価と嵐のようにしゃべり論じたというのだ。忘れるというのは、興味のないことに脳が働かないからでしょうと、慰めてくれた。たしかに、イベントや委員会などの記録は残し、プログラムは具体的であり、話したことも記憶にしっかりとどめて、再現できる。多くはノートに残している。だが、カバンも財布もノートも、その前後に記憶は、完全に脱落しているのである。どんな手がかりもそこにはない。

 すべてに意識がまわらない。そして記憶も残らない。これはアルツハイマーの現象と本質的にはおなじじゃないのかと思う。もっともそうじゃないという気分があるので恐怖感にはいたらないが、ほんとに安心していいのだろうか。

 幸い、ようやくどくんご関係も他も第一段階がすべて終った。チケットも無事に
印刷刷り込みが、パソコンの山崎がやってくれた。そんなわけで14日から露天風呂で有名な霧島山ろくのベスト温泉ホテル旅行人山荘(りょこうじんさんそう)へ行く。ここで頭の割れが塞がるかどうかだ。ここの金港湾を見晴るかす露天風呂で。

 大丈夫だろうと思う、でなかったら覚悟をどう決められるかだ。



 


 
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テント劇団どくんごと全国公演リンク集

2009-08-04 | 演劇
今年のどくんご全国巡演は、各地で満席もおおく、4年前とおおきく状況が変わってきていると思えた。なせだろうと思っていたとき、今回、思いがけなく各地公演の記録や情報、感想のインターネットページのリンク集が登場した。水俣の受け入れをしているkouheiさんという人の労作である。どくんごホームページでリンクできる。

 これはすばらしい。テント劇団どくんごの意味をこれほど多面的にとらえた評価は、新聞・テレビの既成のメディアではありえない情報である。端っこであり、貧乏であり、無名であるものの発する創造への可能性を、このページリンク集は、わくわくする感動とともに伝えてくれる。

 まずわかったのは、どこの場所のテント劇場でも観客は、上演者と一体となって歓喜し、乱舞し自己解放へと興奮する一夜となっている事実である。どいのが、電話で今回はよく「自由」ということばを聞いてと伝えてもらえたが、自由、自律 解放への現実感を、観客のおおくが感じられたのだという事実を、各地の感想から知りえた。

 それだけで多くのひとびとは半自由なのだろうと思う。芸術という母は、かれらを慰撫し、元気付けるものだが、かれらが母と信じておっぱいをちゅうちゅうしている母体は、人間ではなくアンドロイド、鉄のメカニズムから出ているチューブを吸わされているにすぎない。チューブをたどれば管理機構という人間解放とは異質の飼育装置にたどりついてしまう。ちゅうちゅう吸っているのは栄養ではなく、やがて脳の解体・アンドロイドとの溶融を醸成するものにすぎない。そんなものが芸術の名のもとに膨大な税金を乱費しながら、宮崎市では今日も行なわれている。そんなときにマトリックス的な機械でなく真の人間が営んでいる芸術の力は大きな救いを与える。ここではじめて観客もおなじ創造するものとして舞台を作り出していくのだ。リンク集の全体からは、こんな現況を理解できたのであった。

 つぎにぼくが、参考にしたのは、どくんごへの芸術批評は可能かどうかということであった。ぼくは、どくんごテント劇をぼくなりに歓喜を根底にもちながらも、冷静な分析で、なぜおもしろいのか、なぜ歓喜するのかを書こうとしてきた。しかしいつでも書いたとたんにテント劇のインパクトが消えてしまうのを感じてきた。そして、ふたたび、「よくわからないけどおもしろい」ということばに集約・収斂されてしまうのだ。しかし「ただちに犬はどんな劇ですか?」とどくんごを初めて見ようかという人には、これじゃ説明にならないジレンマがあるのだ。で、ずーっと何年もテント劇をみたたびに、ことばをさがしつづけている。いまだない。

 今回、全国リンクで感想を通読して、このいわば、批評系の感想と、歓喜系の感想が並存しているのを知りえた。ぼくの好みでいえば、歓喜系の感想である。でも、批評系もやはり意味があるなと思えだした。たとえば、ぼくはうまく表現できなかったが、あの一見、乱舞しているようなダンスの凄さを感じたが、そのことでは、自分も舞台にたつ演劇人が、その乱舞を冷静に分析してくれている。たとえば青森のエゴイスト劇団の康子さんとういう女性が、彼らの足首からの下の足の動きを指摘している。また、kouheiさんは、探偵と犯人さがしという劇の主題を、現代社会の出来事を視聴するものは、すべて探偵という現実に置き換えて劇の現代性を説くというなっとくのいく批評を載せていた。

 またどくんごは嫌いという観客の存在、また、五月さんのここなんねんもの異形の表現を批判する批評にたいして、自分の解釈を述べるブログなどがあるし、逆に五月さんの表現がいかにすごい技術にうらづけられているかというデザイナーの分析もある。こうして、言葉はしだいに適切なことばがつみあげられていく。言葉によってどくんごを捉える批評が可能と思われる。やはりどくんごテント劇のことばによる分析も有用であることが、理解できるのであった。

 このようなリンク集でどくんごテント劇が広く知られ、理解され、したしまれるようになる可能性はひろがっている。それはファンのネットワークとなり、こんごの上演の集客の大きくプラスになっていくだろうと期待できる。たぶん、今年の成功は、これまでの3年、4年置きの巡回からもっと期間を短くできる可能性も起きている。かれらは、毎年全国巡演をしたいという意志もあるようである。こうなると、阻害されたひとびとへのほんとうの人間の母の役割が、人間を育成することになると、インターネットの可能性をも感じるのである。

 追伸:このリンク集では、公演の記録写真も
    多く掲載されているので、楽しい。
 
 
  
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テント劇団どくんご上演実行委員会

2009-07-31 | 演劇
 今日で7月が終る。あっという間に今年も猛暑の8月かあ。まさか、こんなに暑くなるとは、毎年経験しているのになってみないと分からないとは。いよいよ、テント劇公演の実行委員会を立ち上げねばならない。10日以内に委員会を開き、チケットを数百枚、チラシを数千枚配布する目標を具体化しなければならない。もし、実行委員になる人がいなければ、これを、3人でやらねばならない。

 それにしても上演場所を許可されたみやざき臨海公演の「多目的広場」はいい。ここに遊びにくるだけで解放される。だが、それをどうやって大衆に知らせるか、チケットをどうやって売っていくかこれから始まるわけである。

 テント劇上演では、テントを設営する場所さへ確保できれば、ほとんど仕事は終ったような気分になるのであるが、いざ、チラシやポスター、入場券がどさりと宅配便でとどくと、いよいよこれからだなと、ずしーんとくるのである。これからたくさんの人に会い、セールスをやっていかねばならぬ日がつづく。なんでや、それしか道がないからである。
 
 とにかく今日午後、山崎さんと会い、小林さんは仕事で日南に行くので、月曜からの展開を、8月3日月曜日に計画していくことにした。イオンの安いコーヒーショップで、軽食で話を煮詰めて、月曜に3人であい、おそらく携帯をかけまくって、委員となるような人をあつめなければならない。

 なんか、上演までの数ヶ月のこういうプロセスは、プラモデルを時間かけてくみ上げていくようなワークにどこか似ている。山崎さんは、この計画にかかったとき、これで年末まで遊べると、楽しげであった。あの言葉をときどき思い出して、にやりとしているのである。

 あそべること、これこそ、プラモデル製作の本質ではあるのだ。出来上がったからといって、世界になんの影響もあるわけではない。しかし、あそばせてもらいます。そう思うと、この猛暑も、近くに開店した、マクドナルドの、これまたお変わり自由の120円というクールコーヒーでたのしめるというもんだ。


 
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劇団「どくんご」を訪ねる リハサール「ただちに犬」を観る

2009-05-26 | 演劇
  夕暮れから夜へと移るテントの中で、リハーサルが開幕した。童話風な話と唄による話で、ぼくは4年前の「ベビーフードの日々」を回想していた。そして今夜、かれらにまた再会できたのであったが、その感傷を吹き飛ばすようにテント内は爆笑があちこちからはじけだした。
 
 お話は、どこかの屋敷内の床に転がされた一匹の犬の死骸を巡っての騒動から始まる。タイトル「ただちに犬」とあるようにただちに犬をめぐって、使用人たちがくるったように立ち回りながら、犯人探しをやっている。数分して、一人がとつぜん一人に指をつきつけて「犯人はお前だー」と絶叫、と指差された相手は驚愕のあまりのけぞり、硬直する。が、たちまち、他の一人がなにごともなかったように割って入って、また死骸のまわりをまわりながらの犯人探しにもどる。数分してこんどは、べつの一人がさきとはべつの一人を「犯人はお前だー」と絶叫、驚愕、硬直、そしてふたたび一人が割って入り、またも全員がくるったように犯人探しを始める。そしてまたと、くりかえされる。


 この設定の人をくったおかしさに、笑うもの、唖然としてへの字に唇をかむものがいる。だんだん繰り返しは熱狂をおびはじめていく。単純明快、そしてナンセンス、これがまたおかしい。15分もしたころ、二人連れの老女がテント内に入ってきて、ぼくの斜め前の最前列の席に座った。とたんに一人の白髪の80歳にもみえるご近所のおばあちゃんらしき老女は、笑いだした。やがて、腰を曲げ、体をひねり、こらえきれぬ笑いにみもだえだしはじめた。

 ふとまわりの様子をうかがうと、笑うもの、ぼうぜんたるもの、なにかの考えを懸命においかけているものと、それぞれの気配がある。そのなかで、この白髪の老女は、だれよりも、芝居に反応しだしていた。しばらくすると、笑うたびに三木ちゃんとぼくに顔を向けて、共感のエールのような表情でうなづきかわすのだった。もはや、おばあちゃんは、ぼくと、ともに笑い、ともにおかしさをこらえるというしぐさになった。

 わらうものはわらえばいい。かんがえるものはかんがえればいい。どっちでもかまわないと、このときくらい実感できたことはない。これまでは、笑えぬものの頭の硬さをなげいたりしたこともあったが、じつはどういう反応しようが、そんなことなどどうでもいいのだと、ぼくは思うようになってきている。どくんごのテント劇は、はちゃめちゃの「宝塚」であると言えるかも。レトロなサーカスを連想させる大衆性、見世物性、紙芝居のわかりやすさ、哀愁と誇張のダンディズムが湧き上がって観客をつつみこんでいく。

 でたらめな騒動の動きも音楽〔今回はこれがいい)に合い、瞬間、みごとな振りの一致、そのテクニックがすばらしい。で、「ただちに犬」は、まるで、テレビの報道で社会の問題を毎日つげられるぼくらの生活の喜劇、その虚しさと、不安をしらされたような現実をおぼえさせられた。犯人、つまり原因や答えは分かったが、なんの解決にもならず、すぐに次の問題は始まり、また解決になるが、これもまたなんの足しにもならない、そんな毎日。ぼくらは犬のように隷属しているにすぎない。しかし、この繰り返しのなかの、あくなき日常に生きるわれわれの日々は、これもまた笑いのエネルギーと批判精神ではないかと、感じ取ることができるのだ。

 そして、これは劇団「どくんご」の生活そのものから生まれている。貧乏であり、無名であり、そこから自由の頭をもたげてくる。全身でぶっつかるかれらの日々そのものである。だからこそ笑いでありながら、不安も哀切も、反対に闘争も勇気も楽天もあり、それがぼくらの生活を元気付けるのだと思える。この劇は、メアリー・ホプキンの「嘆きの天使」のカバー曲で締めくくられた。どいのは、歌ったが、初めて彼の歌をきいたのだ。ここで、ぼくは仰天したのだ。じつは、この曲こそ、ぼくには永遠にわすれられぬ曲だった。1968年、今から40年前、ぼくはそのとき、英国のリーズ市で勉強していたのだ。9月半ば、すでに北欧の夕暮れは果てしない寂しさと郷愁で、ぼくをさいなむのだったが、リーズ市の寂れたカフェで耳にしたこの曲のメロディーは、その哀愁と、リフレイン部分の明るさで勇気をもあたえられた。これはもともとロシア民謡であったという。この曲が、かれらの演奏でながれだしたのだ。当時かれらは、まだ幼児、もしくは生まれてもいなかった。この一致になにかの縁をまたかんじたのであった。

 「ただちに犬」は、ぼくにとって、哀愁と明るさをあわせもつ、懐かしさの舞台となって終ったのである。

 さて、この劇は11月2日、3日、宮崎市の「みやざき臨海公園・サンマリーナ宮崎」のヨットハーバーにて上演されることになった。ぼくはその実行委員長を引き受けた。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 
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劇団「どくんご」を訪ねる 新住所とかれら

2009-05-24 | 演劇
到着したのは午後5時ごろであったが、冷え冷えとして湿り気のある空気が流れていた。高原というより山峡という感じであった。ここは夜になると、漆黒の闇につつまれる、今日のような晴れた日はいいけど、曇りや雨の夜、雪の日などは市街ではあじわえぬ真っ暗がりでしてねと、手伝い人が感嘆したように話すのだった。夜にならずとも、ぼくなどはすでにしめつけられるような自然の圧迫感をおぼえるのであった。広大で美しい出水平野は、まだ山の彼方でここからは30キロほど山間を走って行くしか望めないと知った。

 雑林、雑草、崩壊のままの厩舎、空っぽの住宅と、荒れ野と視界をさえぎる林、ここに到着したとき、団員たちはどんな感じであったのだろうか。浦和市という大都市圏から一夜にしての環境の激変に心理的な動揺はなかったのだろうか。ぼくは、日々をつづるかれらの日誌をブログで読んでみた。5月16日の引越し当日からの日誌が、どいの、健太、さつき、まほ、みほし、時折旬と交替で毎日書かれてきている。おどろくのは、そこにかれらは、気分的なことはだれひとりとして書いてなかったことである。到着翌日から、あたらしい住居に必要な電気、水道、浄化槽の業者との交渉、役場への住民登録、ご近所へのあいさつ回りとはじまり、テント劇場の設営、作業小屋の開設、稽古とすすめられ、2月中旬には、代表の伊能を残して、団員それぞれが、九州、中国、北海道までと上演実現への交渉の旅に手分けして出発している。かれは一人で夕飯を食うのは空ろだとさすがにもらしてはいた。

 そして3月早々、40数箇所の上演成立の成果をもって団員は帰ってきた。すぐに巡回日程の12時間を越える作成会議を重ね、チラシ、チケットの発注がなされる。そして日に夜をついでの練習が開始される。雪、嵐、雨がつづく。そして、春となり、あっというまに今夜のリハーサル公開となったわけである。そして今はすでに別府公演を成功させ、明後日は山口市公演から巡演に出る。その間、まさに嵐のような毎日がつづき、計画どおり全国巡演の旅を実現させたのは、驚異的な集中力だと、感嘆せざるをえない。ああ、環境などに胸をしめつけられるという己の弱さを情けないと、思う次第であった。そしてまた、かれらの20年におよんだテント劇全国巡演からかちとってきた人とのつながりの強固さを、思うのである。これこそ金や権威にまさるものである。

 リハーサルは、7時に開幕、テント内は座り心地も良くなり、真っ暗闇の中での照明の明るさが、ステージの華やぎを掻き立て、開幕の音楽シーンがいやがうえにも楽しさを盛り上げる。観客は、客席半数ほどか、それだけでも良くここまで観客が集まったものだと思う。ぼくは前から2列目、中央の席で、隣に三木ちゃん、毛布がくばられ膝を覆って夜の冷えに備えた。しのぶちゃんには持参したダウンを着てもらった。真後ろに白人女性が座り、オーストラリアから鹿児島に英語教師で来ているという。あまりことばがわからないから、この芝居も理解できぬかもと不安げであるので、ことばはぼくにも理解できない、ことばがわからぬでもおもしろい。オペラでもロックでも歌詞など分かって聞いている日本人などいないわけで、それでもみんな分かっているからというと、喜んでもらえた。

 かくして劇は始まったのである。

 
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劇団「どくんご」を訪ねる

2009-05-23 | 演劇
 今年1月16日、浦和市から鹿児島県出水市へ引っ越してきた「どくんご」は、5月15日の別府駅まえ通り近鉄跡地での公演を皮切りに、5月27日山口市中央公園西端公演からいよいよ全国テント劇巡演の旅にでると通知を受けて、ぼくら4人で急いで、9日午後1時に出水市へ出かけることになった。

 牧場の跡だと聞いていたので、ぼくらは出水市を見晴るかすひろびろとした高原を想像していた。手がかりになった一枚の写真でもそのような広野であり、五月さんのブログ日誌には窓から広い野がみえるとあったし、ピクニック気分であった。車はシノブちゃんのバンで、彼女がドライバー、3列のシートで彼女の愛息、せいや君(小学2年)とぼくは2列目に後部座席は、三木ちゃん、彼女は何ヶ月いや何年か毎日平均午後10時すぎの残業がつづいているとかで、ここで仮眠してもらい、休みをとってもらうことにした。ドライバーの隣に山崎さん、最初は山さんに車と運転をたのんでいたのが、シノブちゃんのたっての願いで、せいやくんを連れてで、彼女の車で行くことになった。彼女もここ数年は忙しさに追われるようになったというのだ。彼女とは20年あまり、三木ちゃんとは、8年ちかく演劇上演の実行委員会をやってきた仲間、国家公務員と地方公務員の二人は4年まえくらいは、まだゆとりがあったが、今はそうでなくなった。しかし、声をかけたら、ただちに行動を起こしてくれたのは、さすがと心強い。ということで話はおおいにもりあがり、走っていったのだが・・・。

 大口市の市街を2キロも走り大口病院から左折して野にはいると一分くらいで山地へ突入していった。山はたちまち深山の様相を帯び始めた。高原への坂道かと思われ進んでいくと、上ったり下ったりをしながら両脇の樹木もうっそうとなり、高原に出るという感じよりも谷底へ沈んでいく感じになってきた。この道路から小道が左折するようにグッグルの地図ではあったが、どくんごはその指示を道路に立てているのだろうか。「どうもかれは、そんな細かしい気遣いはせんかもなあ」というと、不思議と全員、そうかもとうなづくのであった。

 思ったように標識はないまま、小学校に着いてしまった。地図はこの手前から小道があるようになっていたが、あったかなとおもいだすもよく思いだせない。たぶん私道のようなものがあったが、あそこかもと、また引返して私道風な道にはいると、ふたたび深い樹木、高原など気配もなくなってきた。これはミスったかと車を停めたところに、民家の庭先があり、老女がいたので、どくんごの引越しの事実を聞くと、あ、それはそのさきに看板がでていると教えてもらえた。そう、30メートルさきに墓標のようにちいさな板きれにマジックで「どくんご」と書かれてモノが地面に突き刺されていた。そこを曲がると20メートルほどの、のびりになって上ると、ひろびろとした野の光景にかわり、そこに、テントが設営されていて、のぼりや花やすだれやらで、にぎやかにかざられていた。となりに発電をしているバスくらいの自動車が停車してあり、頼もしいエンジン音をたてていた。並んで住居もあり、作業所らしき家屋なども目に入った。ここかア、やっと着いたと、あたりを見回すと、およそ高原とは思えぬ場所であった。

 
 
 
 
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