市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

戦争 殺人 悲嘆 

2015-03-10 | 社会
朝ドラ「まっさん」はなにを主題にしているのか、まっさんの家族も仲間も戦争で、希望が破壊され、息子が召集される。戦争を知らぬ世代でも、その悲しみは、テレビの物語であろうと、悲劇を、痛切に再体験できるであろう。戦争の悲惨が、視聴者に伝わり、悲劇を二度と繰り返してはならないと、実感させる。こうなると、中島みゆきの主題歌、進軍らっぱのメロディーはまた戦争の虚無感を逆に訴えてくるのだ。あの歌を唱和しながら、まっさんのシーンを視てみよう。あほらしいスローガンが、うつろにくりかえされているに過ぎない空虚さが、感じられてこよう。

 そして、戦争は悲惨だ、戦争はいやだ、戦争は絶対、してはならないと、気持ちが湧き上がってくる。戦争の悲劇は、戦後70年、意識に刷り込まれて、すでに耳にたこが出来てしまっているように記憶にも積もり積もっているのだ。そしてまた、今朝も涙をながす。そして犠牲者への心痛と同情の涙が溢れてくる。しかし、いくら泣いても戦争は、それで起きぬわけではない。戦争をおこした国家権力、その当事者の犯罪を明確にし、そういう権力を生み出した社会の矛盾を明確にし、つまり戦争の原因を突き止め、この原因を探りだすことによって、再度、戦争権力が出現しないための具体的な政治の方向がしめされねばならない。だが、泣いたところで、先へ進めない。テレビもそこまでで、綺麗な涙を流すことで、終わりとなっている。

 さて、ドラマではなく、先月、母親一人、子一人の男子中学生が、同じ少年たちのグループから長期の暴力を振われ、あげくの果てに、川岸で殺された事件である。その川辺には、花束が草の生えた斜面にうずたかくなってきた。その前にしゃがみ泣きながら言葉をつまらせている老若男女があらわれている。助けてあげたかった、守ってあげたかった、なにもしてあげられなくって御免ねと、なくじゃくる一人一人が、放映される。かれらは真剣に泣いている。おどろくほど何人もの人たちが悲嘆のことばを発する。何日も何日もつづいている。 
 
 こうして山づみになった花が出現している。花たちは、自らの死を曇天に晒しながら訴えてくる。だが、しかし、死者は、おまえら生きている人間であると。花の命を受け継がなくてはならないとの思いがのしかかってくる。

 今朝また田舎で一家5人が、隣近所の男から殺害された。男はツイッターで、氏名、場所を挙げて、一家への殺人予告の投稿をくりかえしていたにもかかわらずである。
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思考と食うこと 殺人事件

2015-03-07 | 生き方
先月26日の朝、もはや毎週、心理的に三日ごとに殺人事件が起きる現実を本ブログに投稿した。その殺人が、幼児、小・中学生・女性・高齢者に向けられている、無抵抗で安全で殺すことが可能だからである。3月に入って第一週に、殺す対象は、ついに赤ちゃんと癌患者もしくは肝臓病者へと、絶対無抵抗者に及んできているのが報道された。赤ちゃん、重篤な病人を殺すことが可能なのは、殺しているという意識が無いから可能なのである。無抵抗者に対する恣意的な殺人は、殺しているという意識がないということを、今回の殺人事件で象徴している。

 そして、さらに嘔吐感がするのは、この殺人事件に当事者がだれも止められなかったことである。経過についてテレビ番組では大衆を相手にして、ということは高視聴率をも期待して、しかも経済的に、ニュースはもちろんワイド番組で、具体的な殺人までの経過を執拗にまで、毎日、アキがくるまで、コメンテーターが分析し、意見をのべつづける。これも呆れた番組であるが、それはそれとしてそのプロセスは、テレビで知るかぎり、嘘八百とは思えない。だとすれば、なぜ、これほその予兆をだれもきづかなかったかということである。分かるのは、殺人が起きる後まで、だれも無関心であったという事実である。そして、無関心の巣は、考えない脳の中であるということである。従って、この殺人は「考えない」日本人の犯罪であるということである。

 今、われわれがやれることは、考えることと、飯を食うということは、同じことであるという自覚を実践することであろうと思う。生きているかぎり、考えることを停止してはならないということである。飯を食うこと、また同じである。しかし、考える行為も食事も、消費社会では、本質を遠ざける。消費行動は、快楽になって欲求を満足させ、快楽が目的となる。食事も生きるためでなく、ファッション化され、食事ではなくなる。考えることは、考えるを停止したときが、快楽の充実感を保障する。これが、今の日本である。従って、無抵抗者の殺人は、現況では、これからも三日置きにつづきつづけていく予感がする。そのうちにだれもが、もう取り上げない些細な事件となって、狎れて行くのであろう。その後にはどんな殺人行為が出現していくのであろうか。
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無関心という関心

2015-02-28 | Weblog
 
 吐き気のする少年犯罪がまた起きた。高校生のグループが、一人の中学生をなぶり殺したのだ。グループのリーダと、その支配下の二人の高校生が、その14歳の少年にそれまで、日常で、執拗な暴力をくりかえしてきた。それもリーダーの万引きせよという命令を断ったといったようなことである。右目がつぶれるほどに紫に晴れ上がった顔の少年の写真もテレビに現れた。登校拒否は、リーダーの命令によっていた。ついに少年はグループを抜けるという決意を告げて、3人の高校生のリンチによって絶命した。近所の川べりで、数十箇所の暴行のあとを残したまま、首をナイフで刺され、素裸で、岸辺の草むらの放置されたままであった。その嗜虐性はイズラム国をまねた様子もあったと述べるものもある。
 
 この殺人は、高校生らに人を殺すという意識がまったくかんじられないという一点で、まさにテレビ的である。そこにあるのは、映像というシーンだ。深夜午前2時、高層マンションに近い川岸で、執拗に14歳の少年の体にナイフを刺しつづけた少年たちには、テレビの一こまか、ゲームかの感覚しかなかったと思える。

 こういう高校生たちを生み出したのは、彼ら自身の非人間性、素質、学校教育、家庭環境があるわけであろうが、今回とくに痛感せざるをえないのは、殺されるにいたった中学生の切羽詰った日々に学校も家族も、だれも無関心であったという一点である。右目のまわりが、赤黒くなるほど変形していたのを、だれも理由を追求しない。登校拒否が始まったのも、少年の日ごろの生活からはありえないと、だれも気づかなかったのか。その他、学校生活の毎日で、だれも異変を、とくに教師がき気づかなかったことだ。

 つまり、ここで、理由を知りえたならば、少年をグループから引き離すことも、守ることも可能であったはずである。だが、だれもが、理由をしらなかった。ここで、かんがえてみよう。一つの兆候がある。それが兆候に見えるには、まずなぜという疑問がなければならない。つまり関心がなければならない。なぜか、そんな関心は、少年にまったく注がれてなかったということである。つまり他人のことなど、知らないという無関心が、当たり前のこととしてあるということである。

 しかし、その意識はほんとうに無関心からであったのか。おそらく、なにか変ときづいても、そのことに関心をもつことをしない。関心はあれど、無関心のままであるとくいう意識が、常にわれわれにあるということを、改めて思い出すのである。とくに中学、高校に姉弟を置く両親たちは、教育課程に口を挟まない。おかしいと思いながら、無関心を装いながら、だまったままで卒業日を迎える。この無関心という関心こそ、忘れえない苦い経験、行為の体験として、ほとんどの日本人は記憶している。そして、こんどは、一般社会でも、この無関心という関心を、やらざるをえないし、やってきたし、今もやっている。この臆病さ、卑劣さを、グループの高校生たちは、見抜き、やりたい放題の反社会的行動を繰り返してきたのが、他方の現実である。かれらにとっては、この卑劣な空気のような社会が、かれら自身を幻想的な立場に落としこむ
空ろとして、内面に巣をつくっていたに違いない。かれらにとって、現実は無いのだ。すべては無関心でしかなくなったのだ。

 逮捕されたリーダーの少年は、殺人はやってないとこたえているという。後の二人もやってないといったそうだ。自分の意識のうつろさを見事にさらけだしているではないか。おそるべきは、無関心という関心では大人たちもたいしてかわらぬ構造をもっていることである。テレビのコメンテータもまた然りである。
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軍歌とスローガン

2015-02-26 | Weblog
軍歌の本質は、洗脳であり、そのためにスローガンを歌うことに尽きよう。今朝もテレビの朝のドラマ「まっさん」から中島みゆきの軍歌が流れてきだした。なぜそれが軍歌に聞こえてくるのか、つまりスローガンの機械的かつ無神経の繰り返しであるからである。

 まっさんは、ドラマとしては見飽きないし、おもしろいし、その意図に反して、日本人批判になっているからである。個人の尊厳、自由つまり民主主義の力を、エリーの役柄が、本人も意識せずに、つたえてくるからである。そこで、学ぶべきは、なんといっても、個人がしっかりしなくては、どうしようもないことである。しかし流れてくるのは、国の賛美のくりかえしである。それがどこの国とは、はっきりしない。まさにあいまいもことしているのが、このイメージ性だけは中島みゆき風ではなる。国、国、国である。

 スコットランドのようにも感じられるし、また日本のようにも受け取れる。はっきりしたらどうなんだと、いらだってもくる。美しい国、育った国、愛する人の国などと国がさしだされ、それはそれでいいだろうと思う。だが、いったいそれがどうしたと不愉快になる。

 ところで、その同じ朝に、殺人事件が、日本のあちこちの市でおきたの知らされる。毎週、とんでもない常識をはるかに越えた殺人事件である。女性、年寄り、幼児、小、中学生などが、殺したい欲望によって嗜虐的に殺される。殺すのに抵抗されないで、容易く殺すことの可能な対象が、恣意的に選ばれて殺される。理由は殺人者本位である。なぜ、このような殺人が、毎週のように、心理的には三日置きに起きているのか。人を殺したくなるほどのストレスを、この国の社会が発生させているからである。それ以外にさしたる理由は考えられない。つまり今日の国のもつ歪みが、殺人者を生み出している。この現実を痛感させられる朝ごとに、美しい国、育った国、愛する人の国などと、歌われる、なにも国を否定するわけではないが、これほど能天気に国を歌い上げる前に、この国で生き、育つ人間について、何が今、一番必要なことなのかに、思いがいくならば、それは考えることであり、哲学であろう。まずは人である。あほになったのか、君は、ぼくはそういいたいのだ、中島みゆきの昔の歌を思いながら・・・
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料理三ツ星 ただし宮崎市

2015-02-21 | 街シーン
ミシュランの星つき、和食やすし店が、宮崎市にはないので、幸いである。あったとしたら、驚きだが、あくまでも、無いのがいいのである。

 東京都内で、ミシュランの三ツ星がついたという寿司屋で、来客の長い列が、毎日つづいているというテレビ放映をみた。この三ツ星のかわりに、口コミでいいと評価されたものが、スマホで流れて、われもわれもその店が、押しかける現象は、宮崎市でもあるようである。

 そんな星やら、個人の書き込みに頼って、和食や寿司屋や、レストラン、カフェ、居酒屋、エスニック料理店などと、満足できるとは情けない話である。

 料理が自分にとってどれが一番(星の数、口コミ数)という判定は、ほとんど役に立たないことを、どうしてわからないのかが、不思議でさえある。料理が自分にとって美味いということは、数量化されるものではないからである。ミシュランの星なんかは、皿の上の料理品だけで判定するそうだが、いつどんな情況で、どんな店のもてなしや雰囲気で食べるのかが、満足度にかかわってくる。それにしても、レストランに入って皿の上の料理だけに注意が向くというのは、判定人という可笑しな存在の感覚にしかないのではなかろうか。

 ぼくなんかは、料理というのは、この店に明日にも来るか。また近いうちに来るか、もう来ないかで極める。これが案外有効なのである。そしてなにより、こういう店を自分で探すという行為そのものが至福の快楽にもなりうるのである。自分だけの口にあう、自分のためだけにあるような店を、なんとしてでも自分の足とお金でさがしだすこと、これが、わが三ツ星である。

 2015年の今年、二つでけそのような店がみつかった。
これこそ宝ものである。

 それと、宮崎市のような街で、ミシュランや口コミで一つも店に市民が大挙して押しかけるような大衆性は全体の店の発展に大きな障害になる。目につかぬいい店が経営不振で閉店においこまれるからである。大衆化された愚行にならずに街の発展に意を注いで行くべきであろうかと思う。
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NHK朝ドラ「まっさん」の主題歌

2015-02-14 | メディア批判
まっさんは、中島みゆきの作詞・作曲を彼女が歌う主題歌で始まる。ぼくにはそれが軍歌に聞こえてならないのだ。毎朝軍歌とともに出勤しているようだ。生まれた国、育った国、美しい国でわたしたちは麦となるというのだから、お国のために世界市場に出せるウィスキーをつくるというようにしか解釈できない歌詞が、力んだ歌い方で流れてくる。これはドラマのまっさんにはそぐわない。
 
 元気のない国から元気に溢れる国となって、みんな元気をだそうではないかというのだから、そういう意味では、この麦の歌なる主題歌は一致しているともいえる。

 しかし、まっさんの主題は、エリーの助言・考え方・行為によって、まっさんは危機を乗り越え、乗り越えしながら、国産ウィスキーの製品化へと至りつつある。でそのスコットランドから日本へ来た嫁のエリーのかいがいしい嫁ぶり、夫への愛情、二人の夫婦愛が、家族愛として語られる。ここが、問題なのだ。たしかに愛情が描かれているのだが、まっさんがどん底に陥るたびに解決のヒントにきづき、立ちあがってこれたのは、エリーの愛情だけではなくてエリーの具体的な考えや意識、行為がまっさんの危機を乗り越えさせているのだ。

 エリーはなにをまっさんにあたえることが可能だったのかを、注意してみると、それは愛情だけではないのだ。その根源にあるものは、危機にあって彼女自身をも動かしてくるのは、西欧の近代化が生み出した、市民的自由・独立である。その価値感が、困難を克服させる意識と行為をうみだしている。自由・独立の個人としての勇気、だれにでも通用する普遍的な合理性をまっさんに自覚させるのだ。つまり、ムラから都市へという近代化の道を、彼女は、いつも示しているのだ。愛情も日本人との付き合いも、無為意識に行為するこの近代化されたエリーの姿がきわだって美しい。

 ドラマは大正時代の話だからというわけではなく、現在ただ今こそ、エリーの近代化は、視聴者の胸にせまってくるようだ。おそらく半分くらいの日本人は、現在でも会社と家族でしか世界はないのではないか。その全体のなかで安住しているばかり。個人であるまえに場の空気に調子をあわせるものをいわぬ人間、つまりものをかんがえられない人間なのではないか。会社も安定せず、
家族も崩壊してしまい、何を頼りにしていいかわからぬものは、ムラもなく、国家に頼る幻想に陥る。つまり全体主義の中に意識を溶かしていく。おそらくまっさんのドラマは、国の賞賛を狙ったのかもしれないが、不思議なことにエリーをリアルに描こうとして、遅れた日本の近代化の問題があぶりだされているのが面白い。

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015年2月の宮崎市街

2015-02-07 | 宮崎市街
自転車で街をうろうろと走り回っていると、熟知してい街路や道路が取り壊されて、市街風景が一変してしまっていることに出会う。そうなってから、しまった、前の風景を撮影しておくのだったと悔やむのであった。そう思いながら、前もって撮影しないのだ。理由はかんたん、まさかこうなるとは思えなかったからである。街路や道路は自分の暮らしのように、これからもずーっとそのままつづくと思うからである。道路を利用するものの習慣である。おそらく英国やフランスの街なら、道路は何百年の不変のまま、暮らしのなかに存在しつつけるであろう。日本の都市は、とくに宮崎市街は変わりまくる。なんといっても歴史が浅い。街として市街が整ったのが、明治20年前後、戦前までの街が、現在の街路風景をもちだしたのは昭和40年以後だから、ようやく50年の市街形成の歴史しかないのである。だからまだ成長期といえばいえないことはない。地質年代で言えば地殻変動でヒマラヤ山脈がもりあがるころ(紀元前2億年)にあたるのである。
 
 2015年今年正月に見たのは、このブログにも投稿したと思うけど、宮崎駅の東にまだ健在に残っている旧住宅街のなかの1キロに及ぶ裏路地が、一本の直線道路に改修された風景である。大町の高宮病院の正面玄関から曽師町の南涯までの新道路が出来つつある。ここは以前は、不思議な路地で、自転車一台やっとの草ぼうぼうの通りや、なぜか木枠が横切り、両脇の家屋で視界がさえぎられ、進む方向もわからなくなり高宮病院の脇からさらに降りがあったり、ビルの壁に突きあたったりと、2キロほどつづき大通にでる裏通りであった。それガ今は、両脇に並木でも植えられそうな新道でぴかぴか光っていた。自動車ではしれば、一分で過ぎ去る風景となってしまっている。

 もう一つは、宮崎駅東口の正面から宮脇町に至り、貞蔵道路を越えて道は狭くなり、すぐに墓地になってここから、先の裏路地の道路に至る路地裏があった。そこの墓地が取り払われて広場になっていた。この墓地の南際には陸橋もあり、その橋脚のレンガ色が、空間に映えていたのだが、それも消えていた。ついに宮崎駅東口から宮崎市街を南北につらぬく道路が、宮崎新港に向かうということが、準備されだしたのかと思えるのであった。

 道路が出来ればまた街は変わる。とどうじに、その道路のもっていたいうにいわれぬ風景の面白さも消滅する。どちらを優先するべきか、これは意識のどこかに留めているべきことではないだろうか。

 戦前の道路工事をみると、「改修」ということが良く使われていた。それは道路の悪い箇所を改めるという意味であった。現在は改修ということばではなく、「改良」ということはになっている。悪いところを直すという意味で、道路専門に使われる用語ではない。現在は、道路整備という。ぼくはこの整備ということはには、どうも違和感がある。機械の整備、エンジンの整備といい、故障などをなくして使えるようにするということだ。道路は、機械を越えた点があり、広げたり削ったりだけで、良くなるとは限らないからである。とくに商業道路は、整備で商店街が繁盛するどころか、人通りも無くなるということが起きている。道路とは生き物であるということを、考えてみるのだ。








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ピケティ現象

2015-01-31 | 政治
またまたベストセラー本のわけのわからぬ日本人の読書行動が起きている。ピケティの「21世紀の資本」が売れまくっている。去年の暮れにぼくもつたや宮崎店で、手にしたのだが、統計を駆使した分析という分厚い600ページの本を読解する暇はないということと、6千円という価格、また読んだ後の置き場もないということで、買う気はしなかった。ところが、これがベストセラーとなりつつあるという。一体どんな層が買いかつ読むのだろうか。いや、いつどこで、600ページの難解な読書を持続するのだろうか。学生も一般人も、本を読んでいるシーンを見たことが無いのだ。ぼくは、ややこしい本は、温泉に行っては、ラウンジで読んできた。かれこれ10年は一年のうち何十日はそうしてきたが、その間、本を読んでいる人をみたことは、まったく無い。だから、家内は温泉で本をよまないようにと文句をいう。難しい本はたいがいものものしいハードカバーの本である。見たからに重々しく近寄りがたい、こんな本を温泉の休憩室で読むというのは、私はこんなに教養があるというのを、見せびらかすという卑しい自己顕示でしかないというのが理由である。いわれてみるとその通りだ。ただ、目が長時間酷使できず、温泉で血液の流れとどこりなく、かつリラックスできて集中できる時間は、ぼくにとってかけがえのない読書時間なので、他人の目などはかまってられないのだ。それほどに大衆から読書という週間は消えてしまっている。本のベストセラーというのは、どこからとなく、100万単位で、読む人が現れてきて大衆現象となってくるのだ。だれがよむのであろうか。

 いろいろ解説をみると21世紀の資本主義社会では、格差は広がるばかりで、資産家は遊んでいてもいっそう資産がふえ資産の無いものは、働いても働いても、資産はふえないので格差がますますひろがっていくと、のべられているということだ。そして、格差を解消するには、金持ちの税金を増大して、これを貧乏人に還元するというしかないというのだ。なんだ、こんなことは、こんな大層な経済学書を読まなくても、暮らしのなかで実感している。ぼくの知人でも、たまたま街のど真ん中で自動車工場をしていたが、なんと自動車技術が進歩して修理が激減、ために工場を閉鎖したところ、その跡地を全国的なレストランに貸したので、毎月200万円の地代収入が入り始めた。あれから25年以上も経っている。かれはますます資産家となっていった。こんな例は、この産業のない宮崎市街ではごろごろと転がっている。

 だから、働かないものこそ、ますます金持ちになるという資本主義社会の非合理世界が、もはや矛盾の限界状態に近づきつつあるとき、どうするか、ピケティは、金持ちの税金を増やせというのだ。まったく当然きわまる話である。そこで、もう一度問いたい、だれが読んでいるのかである。どこから、この大衆が、地上に湧き出してきたのかである。かれらは、この格差社会の流れを変える力となりうるのだろうか。そこが問題だ。たとえば、自民党政権を支持する30パーセントの日本国民の対抗勢力になりうるのだろうかである。自民党では、金持ちから税金をとるどころか、税金を減らしていることが、貧乏人を豊かにするとしているのだ。その矛盾をどうするのか、ピケティ読者は気づくのだろうかが。読破と6000円の資源をどうか生かしてもらいたいものだ。
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住宅街のパン屋さん

2015-01-26 | 日常
 土曜日の午後自転車で、宮崎駅西口から北へとゆるゆると走っていった。快晴で冬というのに、無風、真昼の日差しを受けて、マンションや事業ビルが白やピンクに輝き、何キロ先まで続いている。目を眇めなければならないほとの陽射しが、街を大都市のように感じさせてくれる。このままどこまでも行くことでもいいのだが、路地があったので、とにかく右へ曲がることにした。まもなく宮崎神宮の森に突き当たった。正面の鳥居から、境内を左周りをしだして、また路地があったので、ここを左折した。辺りは、低層のマンションや新築の住宅が区画整理さてて、並ぶ住宅街となった。午後1時半とうのに、自動車のエンジン音も、人声もせず森閑とした住宅街となった。

 と、角にパン屋さんがあった。ショーウィンドウからみえた棚は空っぽだが、オープンという案内は下がっていた。おそらくカフェかもしれない、となると、今ランチをパン食で終えたばかりなので、入っても注文できないなと、気になりながら通り過ぎて行った。

 次の角の二階建てのアパートの西壁に薄紫の地の看板が目を惹いた。細い針金をくるくるまいて一匹の犬にしてあり、毛深い犬の毛を針金が表していたのだ。あまり上手でない手描きの英語で、dog trimming FAIRY TAIL と描かれ、右下に電話番号があった。たったこれだけだ。fairy tail は、fairy tale のもじりなのか、尻尾(tail)が同じ発音のtaleといれかえられたのだろうか。ふさふさした尻尾を、おとぎ話と詠ませた。そのセンスの面白さが、人の気配の耐えた住宅地の真昼に密かにかかっている。パンの無いパン屋さんといい、にわかにここらの雰囲気に興味がわいてきて、あのパン屋さんに入ってみようと、自転車をめぐらせたのであった。

 こんどは、店から女子高生が一人出てきたので、パンはここで売っていますかと声をかけると、売ってます、だけどもうほとんどないですと、にこにこしながら答えてくれた。中に入ると言われたとおり、左右の籠に大きな丸型のドイツパンが数個あり、ほとんどパンは無かった。人も居なかった。奥の部屋から上品は40代半ばの女性が、出てきて、もうこれしか無くてすみませんと挨拶された。すぐにぼくは、同じ形、同じ色をした大型の丸パンを指して、どう違いますかと訪ねた。こちらは小麦100パーセントですが、あちらはライ麦が入ってます、値段は高いですけど返答された。ではライ麦の方をくださいというと、小さいほうの丸パンを手にしたので、大きい方をというと
有難うございますと大きい方を手にした。
 「このパンを切ってもらえますか」
 「どの厚さにしましょうか」
 「まあ、このくらいでしょうか、いや10枚くらい」
 と遠慮がちに言うと、
 「もっと薄くても大丈夫ですよ」といわれ、
 「では、8ミリくらいでもいいですか」と申し出た。
彼女は、すぐに奥の部屋に入ったが、また出てきて
 「このパン半分でもお売りできますよ」といわれるので
 「いや、全部いただきます」というと、安心されて、薄く
  切りそろえたパンが出来上がった。それを手にすると、今は
はっきりと、これは、ドイツのミッシュブロートと分かった。
ドイツパンを焼くところは、宮崎市では、珍しい。ライ麦のシュヴァルツ・ブロートの重たい黒パンなどとなると、2店舗を知っているばかりである。
 「奥さん、このパンはここで焼いていらっしゃるんですか」
 「はい、この部屋で焼きます」
 「このお店はいつごろ開店されたのですか」
 「今年で9年目になります」
 「そんなになるんですか。その頃、ここらに住宅はあったのですか」
 「古い家はありました。このビルが出来たのは3年前で、それ以前は、店も木造の小さなも  のでした。」
 「その当時でも、ここらでパンは売れたのですか」
 「え、なんとか、ここは、抜け道のような道路でして図書館  や芸術劇場などに行く人た  ちの通り道になってました」
なるほど、そういう地の利もあったのかと、想うのであった。

 帰って妻に見せると、なにかというと、こっちの買い物にケチをつける彼女が、人目みただけで気に入ってくれた。その一切れをちぎって口にすると、ライ麦の酸味と香りが豊かさを感じさせ、塩味ながら、かすかな甘味もあって重厚であった。これは材料がいいわねえと、彼女は賞賛した。あんな住宅地にこんなパン屋さんが、あったのだ。こうした意外性に、市街を自転車で彷徨っているとであえるのだ。自分でみつけるということは、この価値感が錯綜しているなかで、大きなもうけものをしたような気持ちにさせられる。 
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とある街角の物語

2015-01-20 | 生き方

その街角には旧知のたばこ屋さんがあった。以前は街角のあちこちにあったたばこ店での一つで、たばこの販売だけで商売が成り立っていた時代には、たばこ店は街の風物詩であった。その一店が、平成に入っても生き延びていたのだが、もはや生業となってはいず、自動販売機のような機能を、その街角で果たしているに過ぎなかったようだ。店先には自動販売機もすえられ、三畳の店先に座っている店主の姿もなくなっていた。ただ、その店はあった。知人の暮らす住居でもあったのだ。大正期からつづいていた小売店であったとも聞いていた。

 
 昨年、平成14年11月3日文化の日の連休日、たまたまいつものように自転車で、裏町の路地をあちこちとぶらぶらと辿っていたとき、そのたばこ店に気づいたのだ。長い間ここに来なかったなあ、それに店主のかれとも、2000年に山形屋前で立ち話して以来、音信普通になっていた。あのとき、ぼくはバイオ茶というお茶を、無理に買ってもらったことで、気の毒なことをしたと自責の思いがして、しばらく会わぬうちに連絡がとだえてしまっていたのだ。今日は店を覗いてみよう、そこに居るとは思えないが、会えるかもと、自転車を押して道路を横断し店先に近づいた。

 店は完全な廃屋に変わっていた。木枠の正面ドアの硝子は一枚が割れて、敷居から外れたまま傾いて停止していた。陳列棚の硝子窓はさすがに割れてなかったが、汚れ果てて、顔をおしつけて、中を覗くと、床も奥の畳間もみえ その天井には半メートルほどの穴が開いていた。二階の畳敷きの破れが荒れた模様を強めていた。店は黒いビニールのゴミの山でびっしりと覆われ、土間にも流れ落ち、うずたかく積みあがっていた。奥の居間の天井から赤い傘のついた室内灯が、電線一本に引っかかって、首吊りのように下がっていた。猫がとつぜんごそごそと奥に逃げていった。店先の煙草自動販売機は、倒れて壁に支えられていた。中をみると、ハイライトやマイルドセブン、ラークなどがあり、みたこともない「さくら」というパッケージもあった。こんなのは何時販売されていたのだろうか。店の壁にマイルドセブンの広告が一枚だけ残っていた。奈良の大仏さんの大きな顔が描かれ、真っ黒な背景に青白く例のおだやか表情が描かれ、紫色の右手の指に一本の煙草が挟まれて、吸い口は赤く光っていた。大日如来とシガレットの取り合わせとは、奇抜でかつまだ喫煙が平和な時代であったのかなと思いつつ、マイルドセブンがひらがなで書かれているのもおもしろいと、もう一度読むと、それは「まいるぞせぶん」であった。ふだんなら吹き出すところなのだが、この笑いの空しさがたまらなかった。やはり彼はすでに他界していたのだと、廃屋に変わり果てたたばこ店をみたのだ。写真を撮っておこうと、板ガラスの引き戸から内部にカメラを構えようとしていたら背後から「なにをしていますか」と声をかけられたのだ。とがめるとうより、様子を聞こうとするおだやかな声であった。なんとか説明できそうと、ふりかえると、目の先に死んだと思った知人が、立っていたのだ。仰天して、生きていたのかという声を寸前で押さえこみ、「元気でしたか、おひさしぶり」と返答できたのだ。「あなたもお元気そうで」と一五年の年月が無かったようないつもの彼がたっていたんだ、

 ネクタイ・背広姿で色白、小太りで、その姿が生活のゆとりを以前のまま匂わせていた。それからぼくらは、それぞれの近況を伝え始めたわけだが、ぼくは、この廃屋化したわけを問うことは出来なかった。かれもまた、この廃屋には、なんの関心もないかのようであった。そんなことより、お互い健康が一番大事だというようなことに話は落ち着いていくのだった。どうですか、お茶でもしませんかと提案すると、そうだ食事でもしましょう、ぼくが案内しますと、彼は即答してくれたのだ。もっと話をつづけるのに、依存はないばかりか、ひさしぶりに旧交を温めるという心情も感じ取れてうれしくなった。かれはもともと美食家だったし、書道家であり、短歌を詠み、薔薇の花を育てるのが趣味であった。そのどれもぼくは、関心がないことであるが、不思議とうまがあっていたのだ。かれのイメージがだんだんと、前のままにもどってきて、ぼくはデパートのほうへと、彼と一緒に歩いていったのだ。

 まだ午後5時前でかれのいう店はしまっており、近くのカフェに入り、やや込んでいたが、席も確保できた。かれはここにはよく来るから、ぼくが注文していいかというので、よろしくと頼むと、しばらくして、コーヒーと上等のスイーツを盆にそろえてもどってきた。そしてかれの話をききはじめたのだ。コーヒーは熱く、気分はくつろぎ、静かな時間が流れていった。一時間半ほどその店にいが、今、思い出してみると、かれの話は、以下のようなものだった。あの家には住んでいる、裏のほうに住んでいるということだ。住んでいるといわれて、それ以上、よごれているとか、危険だとか、どうのこうのと詮索もできず、そうと、頷くしかなかった。住居の話はべつとして、かれのライフスタイルについては、聞き出せるので、話を聞いていくと、それなりの変化は起きていた。短歌は、もうやらないという。本気で熱心もやるものがいなくなった。情熱もないし話も合わない、短歌の内容もつまらなくなり、将来性もあるとは思えないのでグループは辞めた。毎年鹿児島の短歌の集まりも意味がなくなったので、それも止めたとうのであった。温泉は好き、青井岳温泉にも、月になんどかは行く。一番行くのは青島の温泉だ。あの温泉で時間をゆったりと過ごす、また海岸で、暮れを見るのは至福のひとときであると、その耽美を語ってくれた。青島には週に3回ほどは温泉に行っている。それはいいことだねえと、ぼくも温泉通いを話した。この住居の庭にあった樹木は大部分引き抜いて、薔薇園にした。その薔薇が宮崎市の展覧会にだしたとき、宮崎交通の岩切社長さんが、これはいいとほめて貰えたと話すのだ。薔薇はとても金がかかり英国の宮廷の庭園に育つ薔薇について具体的に話しだした昔のようにうまいビフテキを出す店も少なくなったなという。そんな話であるが、婦人雑誌の口絵をみるような、贅沢の香りがかれをつつむのが、どこかで安心させられるのであった。すべてが、ゴミで覆われた廃屋と化したたばこ店となんの関係も関連もなかったのだ。そのまま店の件について、まだ彼が住んでいるということ以外は、知ることもできず、住所と電話番号を交換して、そのカフェで別れてしまった。彼はもうしばらくここでコーヒーを飲んでいるというので、別れた。あれから、電話もなく、ぼくもまた電話してない。

 平成15年となり、1月13日成人の日の連休、ふたたびたばこ店に行った。板壁は一部が剥げ、割れ竹を格子にして、わらを刻んで入れた粘土を塗りこんだ壁の土台が、剥き出しになり、その漆喰の滑らかな仕上げが黄色く変色していた。棟も真ん中ころで折れまがって落ちこんでいた。ガラス戸の硝子は割れてしまい、木の枠だけになっていた。荒廃が一段とすすんでいた、ここには彼は住んでいない、住めるわけがない、いったいなぜ裏に暮していると、彼は言ったのだろうか。裏とは、この家の裏でなくて、店の面した表通りの裏の区画ということだったのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。かれがまだ生きているということでいい。その優雅さを、以前として寸分違えず保持していること、そのモノにとらわれない、まけないスタイル、これがぼくを感銘させてくれたのだ。家は廃屋と化したが、かれの品格は健在であったのだ。これでよしである。電話などかけても意味はないとおもうのである。
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どくんごテント芝居「OUF」宮崎市公演

2014-11-19 | 演劇
公演当日。2014年11月14日(日曜)夜は雨という天気予報が出ていた。どくんご到着の14日金曜日は最低気温3度、真冬並みの寒波が来ると予報された。金曜日現在、直接売った券は、去年の半分に届いていなかった。雨に寒さ、観客は来るのかと、不安が膨れ上がってくる。それでも冷たい曇り空の下、KITEN広場にテントが設置されると、賑わいが生まれ、劇団員に混じりつつわれわれ4名も、高揚感が沸いてきだした。雨でなく曇りとなり、曇り空が寒気をゆるめ、無風となった。気温もゆるんできた。予感どおり出足があまり良くなかった。そして夜の暗闇が広場を覆いだしてきた。そのとき、暗闇からぞくぞくと来場者があらわれだしたのだ。午後5時半の開演時間を越えると、心配をよそに、またたく間にテントは、満席となり、臨時の席を舞台ぎりぎりに並べ、テントは、観客で沸きかえったのであった。昨年と同じことがおきた。新しい観客の来場であった。

 どくんごテント芝居公演は、1995年宮崎東口公演を受け入れて19年目にして、公演場所の安定的提供を受けられ、売券の労苦から開放される見込みができたようだ。探検地への道が出来たようなものである。リスクはつづくが、目標には近づける。この探検の冒険の意味はなんなのか、観客とテント劇団「どくんご」は、なにを冒険しているのであろうか。それは、生きる場所と自分についてである。つまりどう生きるかという共有点を課題としうるのではないかと、ぼくはこのごろ、思うようになってきていた。

 今回ほど終演後の観劇アンケートを読んでみたいと思ったことは無かった。今はまだその機会がない。なにが、観客にその若者たちに、生じた意識を知りたいのだ。そのことで、当ブログに先日紹介した森川弘子さんの「テント芝居を観に行こう!!」に沿って芝居と観客の接点を推し量ってみよう。前々回のブログでも言ったように、文章では表現するのが難しいどくんごテント芝居が再現されている。今もう一度みると、「こんなにおもしろいものが、まだまだあるんや!!」「あふれる魅力、パワーに圧倒された」の駒と「その名は劇団どくんご」の団員の似顔絵が駒の並んだ2駒に前に見落としたものを気づかされた。これは、芝居の面白さへの賞賛だけでなく、かれらの生き方にむけての賞賛であったのだと・・。このマンガの本質は、ここにあるのだと思えだした。まだこのように生きられる、このような楽しさが、破れかかった地球に咲いていると、この希望が彼女をゆすぶったのではなかったか。その後、彼女はテントの四国順延17日に同行、ブログにただ一言だけ、観に来てくださいとだけ、毎日書き綴った。この行為の純粋さに圧倒された。「いつでも楽しく 暮らしたい!」この連載マンガのタイトルである。現在、希望をもつことの意味は、消費という受身でなく、冒険であり、それこそが、楽しく暮らす意味であることを、どくんご芝居で語っているのだ。

 この生き方が、どくんごテント芝居が、観客を納得させる、実は内容なのだと、ばくはこのごろは思えるようになった。どくんごテント芝居には、われわれがいつのまにか忘れていた、脱ぎ捨ててかえりみなくなった生活衣装を、気づかせる。その最大のものの一つは恐れるなということである。消費社会という繭を目的もなく編み続ける安全な暮らし、この生き方を止め、繭の外に出て、裸の無防備の幼虫となる。自分で生きると嘯く。安寧の繭の外部に転がり出て、怯えるものに今日も立ち向かう。まさにドンキホーテ的幻想と行動に観客は哄笑しつつ、いっしゅんにして、自分の現実を見る目を与えられるのだ。実は繭の中こそ、繭を永遠につむぎ続ける暮らし方こそ幻想ではないかと、気づかされるのである。
 
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なにが要因 ランパス

2014-11-11 | 社会
だれもかれもが、ランチパスで貧魂亡者になり、我利我利行者となったわけではあるまい。また、その人も日常では、当たり前の隣人として、同僚として、ふるまっていくしかない。いや、単なる普通の市民であろう。だが、人は欲望を制御できなくなるし、制御不可能にするシステムで、そうなるという話である。それが怖い現実である。ようやく晩秋が来て、おまけに曇り日の廃墟感のただよう寂れた商店街に向かった.メインストリート橘通り1丁目のカフェ「COiN de Cafe」が目当てであった。ランチパスポートの1ページにあるカフェである。近くに市庁舎と県庁舎が石棺のように見えている。

 小さな店で、窓際に取り付けられたテーブルに一人で座った。あと3、4人は可能だが、合い席となる。室内にはテーブルが一台とカウンターである。ブラウンと白い壁の落ち着いた店内である。母親と息子さん(30歳)が二人カフェを運営していた。窓際から、県庁通りの豊かな楠の並木が見え、人通りは少なく、秋を感じさせた。午後2時前、客はぼく一人で、しばらくすると、母親の知人の女性がはいってくるなり、二人は大きな声で、夢中で会話が弾みだした。ぼくは自分の書いた都市論の本を読んでいた。と、母親が、ふとぼくに気がついたようで、「ごめんなさいね、大声でしゃべってて」と声をかけられたので、「聞いていて面白い話しで」というと、二人とも気さくな感じをぼくに示しだしたので、ランパスというのがありましたが、こちらはどうでしたかと、話をきりだしたのであった。
 
 来店者の殺到による経営者側の消耗をつたえ、様子を聞くと、二人そろって、ここもそうだったといい、什器が足らず、皿から、カップから買い足したり、息をつくまもない注文をさばくのに疲労困ばいの毎日だったということだ。ただ店を経営するうえで、大きな宣伝効果となり、利益もあがったというのだ。夜の来店者も増え、終わって今も、前よりもお客はふえつつあるというのだ。また、ここは県庁や市役所の人が多く昼休みがあるので、長いする客はいなかった。そうした雰囲気とテーブルがないので、回転は十分であった。他の店の例を紹介してもらえたが、スタッフも数名おり、テーブルも数十名は収容かのうな、レストランでも満席と予約の殺到が生じ、温厚な店主が、みたこもない不機嫌な態度を示すようになったという。かれが言うには、店、店によってランパスが合う店とあわぬ店が出てくるのではないかと、自分の店は合い、来年一月の次回も参加するというのだった。

 話を聞きながらなるほどと、納得できるのであった。話を聞き終わって、改めて店内を見回し、店主の感情を推し量り、母親の心情を感じながら、200円の損得を軸に、人はなぜ貧魂になるのか、あるいはならずに済むのかが、心に残った。すくなくとも一つわかったことは、店が限界まで小店舗であったことがある。ただそんな物理的要因だけで、人は常軌でない動きをするとは、驚きである。いやもっと、根源的な状況があったのかもしれない。ランパス期間中、どの店舗がどうだったのか、その情報を知る必要がある。人は、いっしゅんで常軌を逸するのだ、意識の噴火を知る必要がある。
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晩秋とランチパス

2014-11-08 | 生き方
今度、またランチパスポートに参加するときは、500円で利益がでるようにやらねばと、店主夫婦は言う。1000万円の売り上げを達成した出版社と本屋に、死ぬほどの働きを、90日間無料奉仕したのが、日本国宮崎市(パスポートの表紙記載)の店主とその使用人たちは、そう決意するのは当然であろう。パスポートが終わると、だれも来なくなった店先で、店主夫婦はそう決意した。だが、どんなメニューが可能なのかと、頭をかかえるのであった。

 来店者は、来店者で、700円以上のランチが、ごまかしなく、そのまま提供されているかどうかについて、注意おこたりなかったのだ。写真と違ってないかどうか、これは序の口である。仲間の一人が通常料金で注文して、500円のものと、直接比べてみるという手段がとられたりと、こまかいですと言う。品質を落としたり、量を減らしたりは、いっぱつで見破られるというのだ。この話は、別でも聞いた。彼女はあるレストランの店の待合室で、あの店のこの料理はいいが、この料理はだめだとか、ことこまかに評価し、あの店はいい、この店はだめだと、お互いが、情報交換で盛り上がっているのだと話てくれた。

 800円が、500円になって感謝するどころか、だまされずに800円のものを500円でたべられたかどうかに、関心があるのだ。感謝もなければ恥じらいもない。やっている消費行動の意味も理解できない。「得」だけが、命なのである。世界がどうなろうと、明日がどうなろうと明日も過去も未来も、今だ、今、200円得したかどうかに、意識はすべて、そこに集約されている。こうしたランパス人のなかには、3ヶ月で40店舗以上を回って人もいるという。

 ある店では、使用人たちが、こういうのだそうだった。ただ今、1000円のお客さまお帰りですと、アナウンスされると、店舗内で、働いているシェフもウエイターたちも、ありがとうございましたの斉唱があがる。500円の客には、だれも言葉をかけないで無視したというのだ。ここにも感謝という行為は消滅した。この店に存在したものはなんのなのか。それは、ランパスが図らずも生みだた虚無であったと言えよう。実数と虚数を組み合わせた複素数は、現実社会を見事に示すこともあるのだと、感銘した。

 それにしても、2度目のランパスでは、レストランもまた実数になるべく、その難問を解いて欲しいものだ。それは、食事の貧魂を救うためにも必要である。
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ランチパスポート

2014-11-01 | 社会
  ランチがすべて500円になるとうランチパスポートが、7月25日に登場、10月24日で一回目を終わった。ランチパスポートというのは、ここ宮崎市近郊のレストラン、カフェ、居酒屋などで700円以上のランチが500円でたべられるという本(定価926円+税)である。店はパスポートに無料掲載できる。その代わり3ヶ月は700円以上のランチを提供、ランチタイム(12~14時)もちろん、定休を除く日は必ずランパスを利用できるようにしなければならないということになる。全国27都道府県・35エリアで発行中で、メディアも取り上げ、新規来客の空席の活用、知名度のUP、売り上げUPと、その実績が喧伝された。

 ランチタイムでも、ガランとしたカフェ、レストランの空しさと不安を解決する具体的方法として、輝くオーナの活動場を生み出せるグッドアイデアとして、店主たちにアッピールしていったのだ。

 オーナー夫婦二人が働くある小さなレストランで、7月25日、常連の一人が、今日は御免ねえとランチパスポートで500円を恥じらいながら差し出したという。毎日何人か、そういう客があり、新しい客も確実に増えてきた日々がつづくようになった。空席も埋まりだし、長年味わなかって平和な満たされた店の活気に癒されるようになった。しかし、急変が起きてきた。いきなり子連れの主婦たちが、グループとなって大挙押しかけるようになったのだ。八月は、夏休みの盛夏であったのだ。これをきっかけに店内は、来店者でごったがえす毎日になってきわわけだ。

 4人の主婦がこどもづれで、10席を占有、ぎゃーぎゃーと騒ぐこどもたち、ジュース、ジュースとねだるのを無視、彼女らはおしゃべりに夢中、ランチが終わっても、おしゃべりは長々とつづく。そして、こどもにジュースはなく、2000円を払ってやっと4人組はでていった。窓の外には順番を待つ来店者たちの行列。またすぐに別グループ、女たちの一人は、コーヒーはつかないのと、あきれたような顔をする。店の電話は予約でなり続ける。やっと一組が出て行くと、ただちに席は埋まる。息をつくどころか、常連と挨拶をかわす暇もない。

 やがておばさんグループが、やってくるようになる。一家族が夫婦子供を交えて、各人がランパスを持って、一家で日曜のランチする。なかには、世間話のつもりが、朝から、あちこちを回ってやっとここでみつけましたと、3時間の苦闘を告げる主婦たち、わずか200円でここまでやるかと、あきれかえるオーナー夫婦の反応も気づけない。この満席状態が、連日、つづくようになっていったのだ。やがて、午前7時には、予約電話がなりっぱなしになるようになった。午前10時開店まえには、行列ができる。

 店はごった返している。来客のほとんどが、席に着くなり、スマホを取り出して、一秒をも惜しんで、予約電話をパスポートをみながらかけ始めるのだ。おそらく予約がどこも困難らしい。しかし、どこまでも、探し求めて、予約にありつこうと、スマホに魅せられたように
電話をかけづつける来店者たち。ここでは、予約を断ると、激怒男が予約可能と書いてあるじゃないか、うそをつくのか。なに満席だ、ふざけるな、15分後にくるから用意しとけと、どなりつける。またもやこどもづれ4人組み、ランチ代2000円をランパス挟んで差出す、一言も言わずに。二人組みの中年女性、ランチが終わると、保険の契約書類の説明・記入がスタートする。どれほど、席順を待つ客が居ようとまったく気にもかけない。ランチタイム終わりのぎりぎりまで粘った一家は、午後5時まで予約可能な店に電話を掛け捲っていく。聞けば夕食を、そこで済ますのだというのだ。

 こうして、連日、開店前から行列ができ、予約電話は午前7時からなりっぱなし、昼間だけはもう線を抜くしかなかったという。そして、毎日信じられないようなお客に一件は当面するということになる。それはわずか200円の値下げのためにである。
 
 ランチパスポートをもって大型の自家用車でやってくる。年寄り連もやってきだした。あと一ヶ月がんばらなくちゃならないと、夫婦は、言う。
 
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内と外 テント劇

2014-10-30 | 演劇
いよいよ11月(2014年)16日劇団どくんごのテント芝居「OUF!」の公演がやってくる。今回は、森川弘子さんのマンガ(PHP雑誌くらしラク~ル10月号掲載テント芝居を観に行こう!!)で、これまでのように内容説明をいちいちしなくて済むと、おおいに宣伝に楽観していた。先日、銀行の支店長さんがみえて、テント芝居公演の話を始めた。早速マンガを差し出して、こんなものですと、かれの反応を期待した。折からマンガのコピーしたのを持参してくれた実効委員のしぇ・こぱんのマスターと、今回は説明は楽だと小話を交わした。支店長さんを見ると、憮然とした様子で、チラシにも見入っていた。どうです、テント芝居おもしろいでしょうと、声をかれにかけた。

 「どこがおもしろいのか、ぼくにはさっぱりわかりませんけど・・」
 
 と、思いもしなかった返答であった。いや、このマンガではストリーとかテーマとかはでていません。しかし、歌、踊り、役者の特色、観客の反応、テントにどよめく、共感、興奮は、このマンガの通りでしょ、そこ、そこがテント芝居なんですけどと、はなすと・・

 「それが、このマンガのどこにでているんでしょうか?」
 「どこにというか、全体にあの活気みたいなものがあるでしょ」
 「いや、なんにもわからないんですよ、それが」
 「受付嬢も、楽器を引いている役者たち、ステージの掛け合い、客席
  の興奮する観客たち、そのリアルな表現を、感じませんか」
 「ぜんぜんわかりません」

 かれは40代半ば、都市的な洗練された紳士で、ぼくの奇妙な情報をいつも楽しんでくれて、ここにくると、いつもそんな非日常の話でもりあがれる人なので、好奇心は旺盛なはずであるが、この反応はなせと仰天したのであった。つづけて、かれは聞いてきた。テントとはどんなものですか。何人は入れるのですか。100人くらいは可能、テントはチラシに写真がありますと示すと、かれはその白黒の写真を見詰めだした。

 「寒いでしょ」「寒いです」「雨がふったら、ござのうえでどうなるんですか」「ござ?! 客席はちゃんと階段状に設けてあるんです」
と答えつつ、いったいぜんたい、かれはテントについてどんなイメージをいだいているのだろうと思い、いきなり聞いてみた。チラシの写真を指し示しながら。このテントに入って芝居を観ますかと。
 
 「いや、わたしは、このテントに入ろうとは思いません。そんな
  気分にはとてもなれません。うっとうしいし、みじめです」
 
 そこでぼくも写真を検めてみると、どこかの空き地に設営されたテントの写真は、どんよりとした曇り空の下に地を這うように、まるで小屋のようであり、さびれて、旗も垂れたまま、まるで疲れたホームレスの
ハウスに見えるのであった。その瞬間にぼくは気がついたのだ。このマンガの一こま一こまは、ぼくの記憶の再現であるのだと気づいたのだ。演出家どいのをはじめ役者たちの出演のシーンもすべて記憶の再現である。観客のどよめきも音楽の盛り上がりも体験の再現、このこまは、ぼくの記憶の再現であったのだ。テントは写真であるまえ、体験の再現なのである。

 このマンガは、記憶のあるものにとっては、リアルであるが、ないものには、そのリアル感を伝えるものがないということである。もっともマンガをみて、テント芝居をおもしろいという人もいるかもしれないがぼくのもつリアル感は、マンガからは得られない。

 ここで改めて再認識できたのは、自分がおもしろいと思うものを、他人がおもしろいと思うことは、ある条件をクリアしなければ、ありえないということである。内なる自分と外なる他人を、頭から能天気に同一視することは、とんでもない独りよがりである。共有するものを、慎重に見出し、それを他に自覚させるワークがいるということである。自分の欲望を他人も欲望するということ、つまりこの画一化、非人間的精神・意識である、内も外もない世界は全体主義国家の構造である。そうはなりたくないものである。

 ここで、切実な追伸!! ここでぜひ森川弘子さんの楽天ブログを訪問してほしい。9月30日から10月28日まで21回、ブログはどくんごを観てほしいとほぼよびかけのブログ。数回は舞台写真、その美しさを見てしまえば、だれもテント芝居に魅惑されてしまう。もう写真なら現実感を共有できそうだ。10から27日まで、彼女は四国巡業ツアーに同行しながら、ぶろぐをつないていった。対象にこれまでのめいりこめるという情熱に、彼女の想像力の力をかんじざるをえない。僕は、所詮まだテントを目でおっているしかない、知識人にすぎない。なにかが創造されるのは、彼女のような人からであろうと思う。適わない。ぼくらの実行委員で三木ちゃんが、宮崎市にはいる、女性の力を感じさせられる。
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