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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

大学は「等価交換」社会ではない

2005-09-30 15:04:35 | 大学
大学の秋学期のスタートに向けて、このところ、学年別のガイダンスが行われている。
跡見の同僚のKさんが、4年生に向けて行ったガイダンスの中で、標題のテーマにさらっと触れていた。

ところが、「何故そうなのか」について、自分でどう説明したらよいか考えてみたが、どうも明快な説明ができそうにない。

そこで、たしか同じ内容のことが内田樹氏のブログに書いてあったはずだ、と思って再確認してみた。

→ 「内田樹の研究室」 アーカイブ 「オレ様化する子どもたち」 (2005年3月19日)

該当するのは、内田氏が諏訪哲二著「オレ様化する子どもたち」について述べた文章だった。

オレ様化する子どもたち
諏訪哲二著
中央公論新社

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したがって、諏訪氏の著書を引用するのが筋だが、てっとり早く内田先生のページから引用させてもらう(いわゆる孫引きである)。

以下、引用。

授業中に私語をして、教師が注意すると「しゃべってねえよ、オカマ」と怒鳴り返す中学生、喫煙の現場をおさえられて注意する教師に「吸ってない」と言い張る高校生、カンニングペーパーを発見されても「見てない」と言い張る高校生たちの「不可解な」行動を諏訪さんは、彼らが「商取引」における「等価交換」の関係を教育の場に持ち込んできたことの効果であると考える。
つまり、彼らは自分がした「行為」とそれに対する「処罰」が等価交換でないことに怒っているのである。
教師による処罰は、子供たちを「社会化」「公民化」するための教化的なバイパスである。それは直接に喫煙やカンニングという行為を照準しているのではなく、ある私的な行為がその主観的意図とはかかわりなく、公的空間では別の水準での「解釈」にさらされるという「公私のフリクション」を教えるためのものである。
例えば、喫煙がなぜ「悪い」のかということを合理的に高校生に説明できる教師はいない。
それは「共同体におけるフルメンバーとはどのような人間のことか」ということについて熟慮したことのある人間にしか答えのでない問いかけであり、もちろんそのような人類学的回答は人生経験の足りない高校生の頭では決して理解できないから、結果的には誰も説明できないのである。
あるいはカンニングがなぜ「悪い」のか。
これもきちんと説明できる教師はいないだろう。
「フェアネス」ということの重要さにまだ気づかない人間に「フェアネス」の原理を説いても始まらない。
つまり、学校が「規則」を通じて教えているのは、「学校には規則があり、教師たちはその遵守を子供たちに要求するが、その規則の起源を教師たちは言うことができない」という(人類学的=類的スパンにおいては合理的なのだが)個人的=短期的スパンを取るとまったく意味不明の事況に子どもたちをなじませるためなのである。
この「ぜんぜんはなしがみえねーよ」的事況を混乱のうちに通過することによってしか子供は大人になることができない。
しかし、今の子供たちは、それに耐えることを拒絶している。
カンニングや喫煙をする子供たちは、学校側が用意する「処罰」と自分の「行為」を「合理的に」勘定してみて「引き合わない取引」だと思っている。
「彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(…)そこで、自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『事件』の展開はこれと同じものになる(今でもそうである)。」(83-84)
(引用終わり)

私が付け加えるべきことは何もない。以上の見解や諏訪氏の著書を紹介することに意味があるので敢えて書きおいた次第。

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