少し間が空いてしまったが、四方田犬彦著「『かわいい』論」の続き。
ひとつ前の記事では、「かわいい」と「美しい」の違いについての指摘を取り上げた。
そう言えば、古語では「うつくし」が現代語の「かわいい」という意味である。
枕草子に「うつくしきもの」という段がある。これは、ちいさくてかわいらしいものという意味である。
というわけで、少しややこしいのだが、歴史的な変遷をたどると、おおよそ、貴族階層が使っていた上品な言葉である「うつくし」から、庶民階層が使う語である「かわいい」に移り変わってきた、ということが言えるらしい。
同書では、それ以外にも、「かわいい」の言葉の意味を探るのに有効な比較対象として、最近になって新しく使われるようになった「きもかわ」という言葉が挙げられている。
「きもかわ」は「きもかわいい」であり、「気持ち悪い」+「かわいい」ということである。
「きもかわ」の意味は、「気持ち悪いけどかわいい」ということであるが、この言葉が発明されたことによって、「かわいい」の語義の考察は俄然広がりを持ったということができるだろう。
ちなみに、「かわいい」の語の意味を考えるにあたって著者は、明治学院大学と秋田大学の学生250人ほどにアンケートを行っているが、「きもかわ」で思い起こすのはほとんどの学生がアンガールズだった、と報告されていたと思う。たしか。(手元に現物がないので、記憶に頼っている。)その意味では、アンガールズという存在が「きもかわいい」の「きも」になっている(笑)。(あるいは、もう少し一般化していうと、テレビにおけるお笑い芸人というものの存在が、ということでもあろう。)
著者は、ある人にとっての「かわいい」の対象は、およそ他人から見れば不格好で気持ち悪いものだ、と指摘する。
そもそも、赤ん坊がそうであるし、ペット、ぬいぐるみがそうだ、という。
面白かったのは、「E.T.」について、澁澤龍彦が、あれは近所に住んでいる主人公の子どもたちのおじいさんのことではないか、と言っていた、とのくだりである。
なるほど、そういう受け取り方もたしかに可能だ。
一方で「美しい」と近似の意味を持っていたはずの「かわいい」が、他方では、なんと「気持ち悪い」(「きもい」)とほぼ同義語になってしまう、というところに「かわいい」の不可思議さ、幅の広さがあると言ってよいだろう。
なお、著者はこの本の冒頭近くで、「かわいい」の多様な用例を示すのに、太宰治の「女学生」という短編小説を使って、手馴れた手つきで見事な分析を行っている。
この部分の考察を導入部におけたことで、現在の社会現象の観察に基づいた考察というだけでなく、文芸論・比較文化論としての骨格が設定されている。
さらに、二葉亭四迷の作品中に、早くも年長者に対して「かはゆい」という用例が出てきていることも指摘している。
というわけで、「かわいい」は、近年の女子高校生、女子中学生による新発明というよりは、かなり歴史的文化的な広がりを持った考察が可能な文化現象であることがわかった。
このように、本書は、四方田犬彦という書き手を得てこその「『かわいい』論」であったわけだが、後半部では、「かわいい」の本質が自己充足的な世界観にあるらしいことも示唆されていて、オタクと関連付けた考察もある程度なされている。
ただし、オタク論の本質は押さえてあると思うが(そのことは別に説明が必要)、オタクの行動様式についてのエスノグラフィーを意図したものではない。
(その点は他の研究者による研究の深化を望むと書かれている。)
ともあれ、いろいろなヒントが次々に与えられて、非常に考えさせられるし、参考になる本である。時間があれば、この本をネタにして何本でも際限なく記事を書けそうなところだが、とりあえずはこのあたりで。
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ひとつ前の記事では、「かわいい」と「美しい」の違いについての指摘を取り上げた。
そう言えば、古語では「うつくし」が現代語の「かわいい」という意味である。
枕草子に「うつくしきもの」という段がある。これは、ちいさくてかわいらしいものという意味である。
というわけで、少しややこしいのだが、歴史的な変遷をたどると、おおよそ、貴族階層が使っていた上品な言葉である「うつくし」から、庶民階層が使う語である「かわいい」に移り変わってきた、ということが言えるらしい。
同書では、それ以外にも、「かわいい」の言葉の意味を探るのに有効な比較対象として、最近になって新しく使われるようになった「きもかわ」という言葉が挙げられている。
「きもかわ」は「きもかわいい」であり、「気持ち悪い」+「かわいい」ということである。
「きもかわ」の意味は、「気持ち悪いけどかわいい」ということであるが、この言葉が発明されたことによって、「かわいい」の語義の考察は俄然広がりを持ったということができるだろう。
ちなみに、「かわいい」の語の意味を考えるにあたって著者は、明治学院大学と秋田大学の学生250人ほどにアンケートを行っているが、「きもかわ」で思い起こすのはほとんどの学生がアンガールズだった、と報告されていたと思う。たしか。(手元に現物がないので、記憶に頼っている。)その意味では、アンガールズという存在が「きもかわいい」の「きも」になっている(笑)。(あるいは、もう少し一般化していうと、テレビにおけるお笑い芸人というものの存在が、ということでもあろう。)
著者は、ある人にとっての「かわいい」の対象は、およそ他人から見れば不格好で気持ち悪いものだ、と指摘する。
そもそも、赤ん坊がそうであるし、ペット、ぬいぐるみがそうだ、という。
面白かったのは、「E.T.」について、澁澤龍彦が、あれは近所に住んでいる主人公の子どもたちのおじいさんのことではないか、と言っていた、とのくだりである。
なるほど、そういう受け取り方もたしかに可能だ。
一方で「美しい」と近似の意味を持っていたはずの「かわいい」が、他方では、なんと「気持ち悪い」(「きもい」)とほぼ同義語になってしまう、というところに「かわいい」の不可思議さ、幅の広さがあると言ってよいだろう。
なお、著者はこの本の冒頭近くで、「かわいい」の多様な用例を示すのに、太宰治の「女学生」という短編小説を使って、手馴れた手つきで見事な分析を行っている。
この部分の考察を導入部におけたことで、現在の社会現象の観察に基づいた考察というだけでなく、文芸論・比較文化論としての骨格が設定されている。
さらに、二葉亭四迷の作品中に、早くも年長者に対して「かはゆい」という用例が出てきていることも指摘している。
というわけで、「かわいい」は、近年の女子高校生、女子中学生による新発明というよりは、かなり歴史的文化的な広がりを持った考察が可能な文化現象であることがわかった。
このように、本書は、四方田犬彦という書き手を得てこその「『かわいい』論」であったわけだが、後半部では、「かわいい」の本質が自己充足的な世界観にあるらしいことも示唆されていて、オタクと関連付けた考察もある程度なされている。
ただし、オタク論の本質は押さえてあると思うが(そのことは別に説明が必要)、オタクの行動様式についてのエスノグラフィーを意図したものではない。
(その点は他の研究者による研究の深化を望むと書かれている。)
ともあれ、いろいろなヒントが次々に与えられて、非常に考えさせられるし、参考になる本である。時間があれば、この本をネタにして何本でも際限なく記事を書けそうなところだが、とりあえずはこのあたりで。
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