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零戦紀69年にして・・・

2009年03月13日 | Weblog
 WiLL4月号別冊『歴史通』を興味深く読ませてもらいました。

 零式感情戦闘機が大東亜の大空に華々しく時めいたあの時から敗戦を余儀なくさせられ、民族の歴史まで自ら封殺して「世界の良い子ちゃんシンドローム」に酔いしれた御目出度い季節もようやく終焉を迎えつつあるようだ。時に零戦紀69年の歳月が流れた。これから、我々日本血族にどれほどの苦難が伸し掛かるか想像もつきませんが、正気でそのときを迎え、克服して行きたいものです。それには、民族として正しい歴史認識を持つことが肝要だと思います。


 私など、「歴史とは民族としての主観であってよい」と思っていますが、本誌において、櫻井よしこ氏がとても良いエッセイを書かれているので、少し抜粋させていただこう。


 「民族の物語としての歴史」  ジャーナリスト 櫻井よしこ

 ジャーナリズムと歴史には明確な共通点がある。現場に立てば、必ず収穫がある点だ。どれほど知っていた積りでも、取材さえすれば、必ずといってよいほど、新しい情報が得られる。それは、時には驚くような事態の展開を促す力となる。

 歴史の探求も同様である。過去に打ち立てられた見方や判断は、新たに発掘され続ける資料によって、震えるほど劇的に、姿を変える。繰り返されるそのプロセスは、好奇心と体力に支えられた挑戦であり、良質の喜びを齎す知的探求の試みに他ならない。

 最近、私を捉えた歴史の新資料は、日中戦争の背後で進行していた国民党とナチス・ドイツの関わりについてのそれである。日独防共協定の裏で、ナチス・ドイツと国民党が蜜な関係を結んでいた。両国は日本を敵と位置づけ、その絆によって大いなる実利を得ていた。この驚きの事実を紹介したのは、昨年10月出版の『日中戦争 戦争を望んだ中国 望まなかった日本』(北村稔、林思雲、PHP研究所)、同じく昨年12月出版の『日中戦争はドイツが仕組んだ』(阿羅健一、小学館)の両書である。

 1920年代後半から蒋介石はドイツ製武器の調達に熱心だったが、ヒトラーが政権を握ると、中独武器貿易は飛躍的に拡大した。37(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件が起き、わずか一月余り後の8月13日、中国軍の仕掛けで第二次上海事変となり、日中両国は全面戦争へと突入する。

 林思雲氏は「当時たとえ日本が戦争を拡大したくなくても、中国側は日本と全面戦争をしたであろう」と書き、日中全面戦争の端緒なった「第二次上海事変の戦闘は正しく中国側から仕掛けた」と断じている。中国はなぜ、戦争を挑んだか。中国軍は日本軍に、人数において圧倒し、資源において圧倒し、列強諸国の支持も得ており、勝利を確信していたからだという。「列強の支持」には、無論、ドイツも入っていた。 

 日本一国を敵とせよ

 20年代後半からドイツは国民党に軍事顧問を置いており、その数は多いときには80名を越えた。彼らは、共産党及び日本との戦いで国民党を支え、武器、装備の調達、軍事訓練、軍隊の編成、要塞の建設に至るまで指導し、実戦では最前線で指揮をとった。

 彼らは蒋介石に、ドイツ製武器を用いて国民党軍を近代的軍隊に作り変えよと、熱心に説いた。33年、フォン・ゼークト大将が蒋介石に、「日本一国をだけを敵として、他の国とは親善政策を採ること」を進言したことを、阿羅氏は紹介している。・・・・・(以下、話は延々と続くのであるがここでは割愛させていただく)。


 ・・・・斯様に、世界は腹黒いのである。唯一の同盟国であったと信じて疑わなかったナチス・ドイツ(ヒットラーでさえ、タングステンと日本国を天秤に掛ければ、支那のタングステンのほうが同盟国日本の命運よりも重かったのである)・・・・だから、日本国史に外国の意思などを介入させてはならないのである。

 結論は、大東亜戦争の仕掛け人は日本国の意志というより、「支那の大日本帝国滅亡への願い」が根本的な動機であったと日本民族側の被害者意識に目覚めるべきなのだと思います。

 我々は、有史以来2000余年の支那との対立関係が大東亜戦争を誘発し、支那の欲望の赴くままにアメリカ合衆国との代理戦争に追い込まれたという現実に目覚めるべきなのだ。

 本当に共産支那の『孫子の兵法』はおぞましく恐ろしい。