
『トロン:レガシー』を観た。

“奇跡の続篇”製作が決定してから、長い間その動向を注目し続けた作品である。
先に公開された予告篇やヴィジュアル・イメージを見た時より、その期待は高まっていく一方だった訳だが…。
(注意!:以下ネタバレ御免!!)
正直に言う。
本作を観て、ガッカリしたと言うのが感想。
確かにオリジナルを踏襲しながらも、更にスタイリッシュに洗練されたヴィジュアル。
3Dとの相性も絶妙だったVFX。
よりパワフルかつスピーディーになったアクション。
どれも桁外れにカッコ良く、素晴らしい。

しかし、極端な言い方をすると「それだけ」。
肝心の作品の核となる“物語”が、致命的なまでスカスカでガタガタと言うのは酷い。
続篇に対して相応しい脚本が出来上がるまで「NO」と言い続けたらしいが、こんな陳腐な物語に良くもディズニーは「GO」サインを出したものだと失望した。

確かに、僕が偏愛する27年前のオリジナルも、コレと言って何が凄いって物語ではなかった(苦笑)。
最初はチェス・ゲームのプログラムであったMCPが人工知能となり暴走、東西冷戦を利用して人類を支配しようと画策する。
MCPによる電脳世界に取り込まれた主人公ケヴィン・フリンは、MCPの計画を阻止する為にセキュリティー・プログラムである勇者“トロン”と共に戦う…って感じだ。
今のSFでは当たり前のような設定でありストーリーではあるが、当時は他には無かったし斬新でもあり、正にそれこそがセンス・オブ・ワンダーであったと思う。
だからこそ、今もオリジナルなカルトなSF映画の傑作として熱狂的に支持され、愛され続けているのだと思う。
しかし、本作には全くそれが無い。
本作は続篇ながらも、ある意味オリジナルのセルフ・リメイク的な要素も持ち合わせている。
でも、そもそも何故『トロン』と言うタイトルを持つ意味が非常に曖昧になっている。
コレならば、別に『トロン』というタイトルでなくても良かった。

確かに本作で舞台になるのは「トロン・ワールド」であり、フリンのサイバー・ワールドを管理する最強のプログラムとして登場するのが“トロン”だ。
しかし、その“トロン”の扱いがハッキリと言うと酷い。

本作の主人公は、失踪した父・ケヴィンの息子・サム。
幼い頃よりケヴィンより聞いて憧れていた、サイバー・ワールドに遂に訪れる。
でも、この息子サムのキャラクターが弱い。
物語を牽引し、作品の持つ「父と息子」という普遍的なテーマを描き、その裏にある「世代交代」というドラマチックな側面も、サムのキャラクターが弱くて感情移入出来ないので単に陳腐な親子モノにしかなっていない。
更に物語の発端となるケヴィン。

前作でMCPという恐怖を体験している筈なのに、そこから何の教訓も得ておらず自身が単なるマッド・サイエンティスト化している。
コレではオリジナルの意味が何もない。
自身の理想に妄執するあまりに自分を見失い、MCPよりも恐ろしい存在となる自身のサイバー・クローン“クルー”を生み出してしまう…。

確かに、20年前のケヴィンの姿をしたクルーのVFXの凄さは驚異的。
もはやデジタル技術の進歩は、既に死者との完全な共演も可能になったのも証明している。
そのVFXの凄さ、ケヴィンに扮するジェフ・ブリジッス(祝・アカデミー賞)のカリスマ性もあり、正にサイバー・ワールドでの神的存在としてインパクトもある。
しかし、逆に父ケヴィンのキャラが立ちすぎてしまい、更に物語の「父と息子」というテーマ性を希薄にしている。
そんなフリン親子の前に立ち塞がる、クルーが放つ最強の刺客リンズラー。
何とこのリンズラーこそ、クルーが起こした叛乱によりケヴィンを庇って行方不明になっていた、前作の主人公である“トロン”であるのがクライマックスで判明する!!

コレは本来、クライマックスにかけて更に燃える展開になる筈だが、正体が判ったらアッサリと退場となる(没)。
クライマックス、クルーの呪縛を解かれたトロンが、フリン親子の味方として復活を遂げる…って展開だったらどれだけ燃えただろう?!
失速した物語を充分に救っただけでなく、本作が「トロン」というタイトルを持つ意味もそれだけで補完出来た。
どう考えてもツボをハズしているし、「トロン」と言う作品の持つ意義を考え過ぎて作り手側が大切な事を見失ったようだ。
ただ、そんな中でも本作を救っている要素はある。
まず、本作のヒロイン・クオラ。

その美しくクールてセクシーな雰囲気ながらも、時折見せる少女のような無邪気さは何とも言えない可愛さ(特にあの特徴的な笑い方)を持っている。
実は超電子生命体でもある彼女。
その彼女がラスト、生まれて初めて朝陽を見た時に見せる表情は素晴らしい。
そして本作の音楽を手掛けたDAFT PUNK。

本作の企画段階より深く関わっていて、オリジナルの熱狂的なファンだけあり、しっかりとツボを心得た音楽は本当に素晴らしい。
ハッキリ言うが、この音楽が無ければ本作の世界観は確立出来てはいなかっただろう。
是非、音響の良い劇場にて大音量で体感して欲しい。
サントラ、滅茶苦茶欲しくなりました(笑)。
オリジナルに対する個人的な思い入れが強過ぎたのかもしれないが、この『トロン・レガシー』には心底ガッカリとさせられてしまったのは事実だ。
幾らでも面白くなる要素を一杯持っていながら、それを上手く使いきれなかった監督・脚本(オリジナルの熱狂的なファンだと言うが…)、そして当のディズニーに対する失望感は消える事は無い。
「ボクはユーザーの味方だ!」

“奇跡の続篇”製作が決定してから、長い間その動向を注目し続けた作品である。
先に公開された予告篇やヴィジュアル・イメージを見た時より、その期待は高まっていく一方だった訳だが…。
(注意!:以下ネタバレ御免!!)
正直に言う。
本作を観て、ガッカリしたと言うのが感想。
確かにオリジナルを踏襲しながらも、更にスタイリッシュに洗練されたヴィジュアル。
3Dとの相性も絶妙だったVFX。
よりパワフルかつスピーディーになったアクション。
どれも桁外れにカッコ良く、素晴らしい。

しかし、極端な言い方をすると「それだけ」。
肝心の作品の核となる“物語”が、致命的なまでスカスカでガタガタと言うのは酷い。
続篇に対して相応しい脚本が出来上がるまで「NO」と言い続けたらしいが、こんな陳腐な物語に良くもディズニーは「GO」サインを出したものだと失望した。

確かに、僕が偏愛する27年前のオリジナルも、コレと言って何が凄いって物語ではなかった(苦笑)。
最初はチェス・ゲームのプログラムであったMCPが人工知能となり暴走、東西冷戦を利用して人類を支配しようと画策する。
MCPによる電脳世界に取り込まれた主人公ケヴィン・フリンは、MCPの計画を阻止する為にセキュリティー・プログラムである勇者“トロン”と共に戦う…って感じだ。
今のSFでは当たり前のような設定でありストーリーではあるが、当時は他には無かったし斬新でもあり、正にそれこそがセンス・オブ・ワンダーであったと思う。
だからこそ、今もオリジナルなカルトなSF映画の傑作として熱狂的に支持され、愛され続けているのだと思う。
しかし、本作には全くそれが無い。
本作は続篇ながらも、ある意味オリジナルのセルフ・リメイク的な要素も持ち合わせている。
でも、そもそも何故『トロン』と言うタイトルを持つ意味が非常に曖昧になっている。
コレならば、別に『トロン』というタイトルでなくても良かった。

確かに本作で舞台になるのは「トロン・ワールド」であり、フリンのサイバー・ワールドを管理する最強のプログラムとして登場するのが“トロン”だ。
しかし、その“トロン”の扱いがハッキリと言うと酷い。

本作の主人公は、失踪した父・ケヴィンの息子・サム。
幼い頃よりケヴィンより聞いて憧れていた、サイバー・ワールドに遂に訪れる。
でも、この息子サムのキャラクターが弱い。
物語を牽引し、作品の持つ「父と息子」という普遍的なテーマを描き、その裏にある「世代交代」というドラマチックな側面も、サムのキャラクターが弱くて感情移入出来ないので単に陳腐な親子モノにしかなっていない。
更に物語の発端となるケヴィン。

前作でMCPという恐怖を体験している筈なのに、そこから何の教訓も得ておらず自身が単なるマッド・サイエンティスト化している。
コレではオリジナルの意味が何もない。
自身の理想に妄執するあまりに自分を見失い、MCPよりも恐ろしい存在となる自身のサイバー・クローン“クルー”を生み出してしまう…。

確かに、20年前のケヴィンの姿をしたクルーのVFXの凄さは驚異的。
もはやデジタル技術の進歩は、既に死者との完全な共演も可能になったのも証明している。
そのVFXの凄さ、ケヴィンに扮するジェフ・ブリジッス(祝・アカデミー賞)のカリスマ性もあり、正にサイバー・ワールドでの神的存在としてインパクトもある。
しかし、逆に父ケヴィンのキャラが立ちすぎてしまい、更に物語の「父と息子」というテーマ性を希薄にしている。
そんなフリン親子の前に立ち塞がる、クルーが放つ最強の刺客リンズラー。
何とこのリンズラーこそ、クルーが起こした叛乱によりケヴィンを庇って行方不明になっていた、前作の主人公である“トロン”であるのがクライマックスで判明する!!

コレは本来、クライマックスにかけて更に燃える展開になる筈だが、正体が判ったらアッサリと退場となる(没)。
クライマックス、クルーの呪縛を解かれたトロンが、フリン親子の味方として復活を遂げる…って展開だったらどれだけ燃えただろう?!
失速した物語を充分に救っただけでなく、本作が「トロン」というタイトルを持つ意味もそれだけで補完出来た。
どう考えてもツボをハズしているし、「トロン」と言う作品の持つ意義を考え過ぎて作り手側が大切な事を見失ったようだ。
ただ、そんな中でも本作を救っている要素はある。
まず、本作のヒロイン・クオラ。

その美しくクールてセクシーな雰囲気ながらも、時折見せる少女のような無邪気さは何とも言えない可愛さ(特にあの特徴的な笑い方)を持っている。
実は超電子生命体でもある彼女。
その彼女がラスト、生まれて初めて朝陽を見た時に見せる表情は素晴らしい。
そして本作の音楽を手掛けたDAFT PUNK。

本作の企画段階より深く関わっていて、オリジナルの熱狂的なファンだけあり、しっかりとツボを心得た音楽は本当に素晴らしい。
ハッキリ言うが、この音楽が無ければ本作の世界観は確立出来てはいなかっただろう。
是非、音響の良い劇場にて大音量で体感して欲しい。
サントラ、滅茶苦茶欲しくなりました(笑)。
オリジナルに対する個人的な思い入れが強過ぎたのかもしれないが、この『トロン・レガシー』には心底ガッカリとさせられてしまったのは事実だ。
幾らでも面白くなる要素を一杯持っていながら、それを上手く使いきれなかった監督・脚本(オリジナルの熱狂的なファンだと言うが…)、そして当のディズニーに対する失望感は消える事は無い。
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