『猿の惑星:新世紀(ライジング)』を観た。
今や不朽の名作である『猿の惑星』。
その前日譚を描いたのが、前作『猿の惑星:創世記(ジェネシス』。
この企画を聞いた時、正直かなりネガティヴな印象を持っていたと当ブログでも語った。
しかし実際に作品を観た時、その素晴しい内容に驚愕した。
正にオリジナルに匹敵すると言っても過言ではない、SF/アクション映画の傑作だった。
その続篇となる本作、期待するなと言うのは無理でしょう…と言う状態で劇場に駆けつけた。
(注意:ネタバレ有り!!)
前作を監督したルバート・ワイアット監督は、映画会社の決めたスケジュールに反発して降板した。
その後任に何人もの候補が挙ったが、監督に選ばれたのはマット・リーヴスだった。
そう、あの新しい怪獣映画の形を作った『クローバーフィールド/HAKAISHA』を撮った人物だ。
その冷たくて硬質かつドキュメンタリー的な演出は、新世紀版『猿の惑星』には合うと個人的には思っていた。
実際に作品を観て、この人の起用が正解だったと感じた。
前作と違う意味で、本作も素晴しい傑作となっている。
前作以上にダークな作品であり、そこに漂う空気は圧倒的に絶望的なモノだった。
ここが大きなポイントだと思っている。
この『猿の惑星:新世紀』、前作と大きく違うポイントは人間ではく猿側視点でストーリーが展開する事。
前作のラストで暗示された、ALZ113によるウィルス感染と言う脅威。
人間は「猿インフルエンザ」の感染の猛威によって、アッと言う間に絶滅の危機に瀕してしまう。
本作では冒頭の5分程度で、この「猿インフルエンザ」の脅威によって人間が危機的状況に陥った事が語られる。
確かに、治癒方法の見つからない「猿インフルエンザ」によって多くの命が奪われた。
でも実際にはウィルスの感染以上に、人間は互いに混沌の中で自ら地獄を造り出してしまった。
本作では、その「自滅」とも言える経過を淡々と語るのが観る側を突き放す様な印象を与える。
そんな本作の主人公は勿論シーザー(演:アンディ・サーキス)。
今や猿たちの指導者という立場となり、猿の世界に平穏をもたらす存在となっている。
自身の描いた理想を実現し、猿たちの理想郷とも言える社会を築き上げた。
猿たちの生活や未来を思い、前作以上にその存在は思慮深い理想主義者でもある。
猿たちの指導者であり、同時に家族を守る父親となったシーザー。
そんな彼の唯一の弱点とも言えるのが、彼を育てた「人間」という存在。
この「人間」という存在によって、シーザーは苦悩と重大な選択を迫られる事になる。
本作の「もう一人の主人公」と言えるのがコバ。
前作でも匂わされていたが、シーザーとコバの関係は非常に危ういものがあった。
それが本作の冒頭ではシーザーの信頼すべき存在としてコバは登場し、二人の信頼関係が強い事が判る。
ただ、そこに想定外の「人間」という存在が入った時に、その関係は静かに崩壊に向かってしまう。
劇中、シーザーは「コバは人間から憎しみしか学んでいない」と語る。
ウィル(例えマッド・サイエンティストであっても:苦笑)とその家族という人間によって、愛情も持って育てられたシーザー。
一方、人間たちの都合によって実験動物として虐待を受けて育ったコバ。
両者には埋め隔たりが存在したが、猿だけの社会ではソレが問題になる事は無かった。
猿たちの社会に、滅んだと思っていた人間が介入して来た事。
更には、その人間たちに指導者シーザーは好意的な態度であった事。
おまけに人間側が、密かに猿たちとの戦争に備えて武装している事実を知るまでは…。
コバは暴走する事は無かった。
シーザーの前に現れたマルコム(演:ジェイソン・クラーク)。
彼は不必要な争いを避け、猿と人類に共存を願っている。
それはシーザーも同じで、一度人間と戦争になれば後戻り出来ない状況に陥る事を理解している。
互いに家族や未来の為に、より良い道を模索しようとする。
しかし猿側には、人間を心から憎むコバという存在があり。
人間側にも、僅かに生き残った人類の指導者ドレイファス(演:ゲイリー・オールドマン)という存在があった。
コバにしろ、ドレイファスにしろ。
猿と人間という違いはあれ、両者の貫く姿勢が全く同じである事が重要となってくる。
敵対する存在を理解しようとはせず、機会があれば駆逐してしまいたいと思っている。
ソレは単なる私怨と言う訳ではなく、自身の辛い経験によって憎悪となって牙を剥く事につながる。
ここに「猿の惑星」というシリーズが持っている、もう一つの側面である「社会批判」と言うドラマが浮き彫りとなる。
前作が「科学の倫理を越えた暴走」というテーマが根底にあった。
本作には、人種や宗教の違いによって今も世界各地で続く紛争。
そしてアメリカという社会にあって、どんどん深刻さを増す「銃社会」への警鐘という問題がある。
本作の根底に流れているのは、この二つのテーマと言える。
猿と人間、その緊迫した微妙な距離感でのドラマが前半で繰り広げられる。
それも後半になると、コバの策略によって最後の一線を越えて猿と人間の全面戦争に突入してしまう。
かつて自分を虐げて来た、人間に対するコバの凄まじい憎悪。
僅かに生き残った人間の為に、やっとの思いで復興させた社会を守ろうとするドレイファス。
両者の主張には、両者なりの「正義」が存在する。
だが、この極限状態において両者は互いに対する寛容さが欠けてしまっていた。
シーザーもマルコムも最悪の事態を回避する為に努力するが、一度引かれた引き金によって事態は最悪の方向に突き進む。
“銃”という力を得たコバは、アッと言う間に独善的な暴君と化す。
破壊と殺戮の快感によって自分を見失い、大切な仲間にすら恐怖によって支配する。
本作のキャッチコピーに「心まで進化した」とある。
その「心まで進化」した事によって、皮肉にも猿のコバ自身がより人間的な存在となっていく。
本作において、猿とは人間という存在の“鏡”となっている。
シーザーも自虐的にその事を、自ら自虐的に「猿の人間化」だと振り返る。
暴力には暴力を、恐怖には恐怖を…この「負の連鎖」が猿と人間の全面戦争に突入する結果となる。
その争いこそ、どちらかの種族が絶滅するまで続く戦いになる事が判っていながら…。
いくらでも「共存」という選択肢は存在した。
ただ人間も猿も、その選択肢を自身の怨恨によって拒絶する。
その間でシーザーとマルコムは苦渋の選択を迫られ、自身も望まぬ戦いに身を投じる。
コバの裏切りがあったとは言え、シーザーは「猿は猿を殺さない」という掟を自身が破る苦渋の選択を取る事になる。
その結果、事態は更に悪化して終焉に向けて突き進む事になってしまう。
クライマックスの激しく壮絶な戦いの後、残るのは何とも言えないやり場の無い切なさと哀しみだけ。
そして訪れる結末。
もう、その両者にとって避けられぬ悲劇的な事態が待っている。
それを知りながらも、仲間の猿たちを前にしたシーザーの決意の表情が観る側の心を抉る。
捨てきれぬ人間への思い、同時に猿たちの指導者として、また家族を守る父親として。
シーザーは苦渋の決断をくだす。
この何とも言えない重い空気を孕んだまま、本作を終わりを告げる。
ソレは猿と人間、どちらかの種族が滅ぶまで続く戦いの始まりを意味している。
本作を観ていて思うのは、やはりアンディ・サーキスの熱演。
パフォーマンス・キャプチャーと言う手法だが、この演出を開拓した人物であるサーキス。
その熱演の前に、テクノロジーを超越した魂を感じる。
あと監督のマット・リーヴス。
下手すれば、その演出がやや淡白だと批判される可能性もあった。
本作では観る側を突き放す冷たいドキュメンタリー的演出と、派手なアクション・シーンとのバランスも見事だったと思う。
既にシリーズ3作目の監督をする事も決定済みであり、完結篇となる次回作への期待が高まる。
次回作では、遂に猿たちを駆逐する為に軍隊が登場する事が明らかになる。
あの状況で生き残っていた軍隊だ、より強力な「敵」として猿たちの前に立ち塞がるのは必至。
ただ猿たちも、本作で人間の武器を使う事を学んだ。
そんな人間と猿の戦いが、絶望的なまでに凄惨なものになるのは予想出来る。
ただ闇雲に偉大な父に反発していた、シーザーの息子ブルーアイズ。
コバと裏切りや、人間との戦いがどれだけ惨い事になるのかを知った。
そんな彼は自身のこれまでの行いを悔い改め、偉大な父の後継者となる可能性もある。
人間側も、オリジナルにリンクする物語ならば猿たちを核兵器で攻撃してくる可能性もある。
この世界の覇権を握るのは、どちらの種族なのか?
2016年公開だと言う3作目は猿と人間の最終決戦を描くと言う、その公開を楽しみに待っていたいと思います。
ダークで重い作品です。
でも傑作である事は変わりありません。
超おススメです!!
「もう戦争は既に始まっている…。」