小田博志研究室

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地域分散ネットワーク型の教育

2015-07-10 | 学問

 文部科学省が「国立大学」の人文社会科学系(文系)学部の「廃止」!を打ち出している(もう「国立大学」ではなくて、独立行政法人なんだけどなあ)。その背景のひとつは経済至上主義的な世界観だ。大学の(すでに進んでいる)企業化をさらに推し進めるということになるだろう。それは「儲かるかどうか」でものごとを判断し、そうでなければ切って捨てるという発想だ。目先の経済的利益を追い求める路線が、福島原発事故に行き着いたことへの反省はないのだろうか。歴史に学ぶことができないということ自体が、現政権の人文社会科学的な知性の欠如を表している。

 二つ目には、時流に流されない批判的知性の意義を、政権中枢がわかっていない、あるいは警戒しているのかもしれない。先般の憲法学者による集団的自衛権行使の違憲判断のようなことが起こらないようにしたいのだろうか。そして政権に対して異を唱えない、機械の歯車のような従順な人間の「養成」が望ましいとでも思っているのだろうか。しかし、歴史から学び、他者の視点に共感することができ、広く多様な視野から自己をふり返ることができるようになるために、そしてその上でより望ましい社会を構想するために、人文社会科学の知は必要である。もっとも従来通りの大学のあり方、文系/理系の縦割りの仕組みには限界があることは確かだが。ではどのような教育を構想することができるだろうか。

 日本の学校制度は、明治期に国民国家の担い手を養成するために設計された。そこには人々を地域社会から引きはがし、国民国家的に均質化するという問題はあったが、内田樹氏の指摘では一定の「公共性」があった(内田樹の研究室‐「学校教育の終わり」2015年7月10日閲覧、http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php)。しかし「グローバル資本主義」の流れに教育が取り込まれた結果、「公共性」は失われ、「自己利益の最大化」が追い求められるようになった。内田氏がそこで私塾(江戸時代の「適塾」のようなあれ)に可能性を見出しているのは興味深い。

 「隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。」(内田、同上)

 国民国家に従順な人間を画一的に作り出すのではなく、グローバル資本主義の競争社会で走り続けるのでもない(「国際化」「グローバル化」のかけ声に踊らされない)、第三の道。それは何だろうか。内田氏の提言にはヒントがあると思う。ただし「小さな共同体」に閉じる印象を受ける点は違うと感じる。来るべき教育は、具体的に生きている地域の現場に根差しながら、地域を越え、国境をも越えて、世界の様々な地域の人々と顔の見える関係でつながった場であるべきだろう。ローカルな生活を大切にしながら、国境を越えた親しい人々とのネットワークへと開かれた場。その場が持つ、人を育む力。地域的な価値を大切にし、そこで生きる力を身につけながらも、地球大の意識へと開かれた人が、これからの世界を担うに足るのではないか。

 実はそれはすでに大学の内外で気づかないうちに実践されているのだ。

 例えば、宮城県気仙沼の牡蠣漁師・畠山重篤さんは、牡蠣をよく見つめることから、海と川と森と里とのつながりを認識し、山での植林イベント(森は海の恋人)、上流の子供たちのための海での環境教育、京大の研究者との連携、フランスやフィリピンとのネットワークへと展開している。これは内田氏が言う「私塾」というのでもない、もっと別の可能性に開かれたユニークな場だと思う。

 あるいは、徳島県上勝町の葉っぱビジネス(いろどり)による地域振興。ここでは地域資源の活用が、経済的利益を生み出しているだけではなく、高齢者福祉にも寄与し、それこそ世界各地からの視察が後を絶たず、地元の大学の学生の現場教育の場ともなっている。

 探せばまだまだ実例を発見することができるだろう。霞が関で会議をしていても、研究室で本を読んでいても分からない実際の取り組みが地域にはある。それらの実例では、教育研究と現場との循環的で相乗的な関係が見られる。人文社会科学の知は現場との生きたつながりの中で生気を取り戻すだろう。そのつなぎ役の働きをするのがエスノグラフィーであり、アクションリサーチだと僕は思っている。このような各地の豊かな取り組みから学び、それを引き延ばしていくことに教育の未来はあるはずだ。

 付記:「内田樹の研究室」の「憲法と戦争-日本はどこに向かうのか」http://blog.tatsuru.com/2015/07/13_1100.phpより

 「日本人はもう「衆知を集めて最適解を探す」という思考習慣を失ってしまった。アメリカの意向を忖度することに長けた人間たちだけが政治家も官僚もビジネスマンも学者もジャーナリストも指導層を独占するようになった。…学術の世界もそうです。過去30年間、日本の大学はひたすらアメリカの教育システムをそのまま導入しようとしてきました。自己評価活動とか、シラバスとか、アクレディテーションとか、秋学期とか、任期制とか、英語での授業とか、いかにして「アメリカの大学みたいにするか」のために全力を尽くしてきた。そんな制度改革がほんとうに必要なのかという議論がされないままに「アメリカではこうなっているだから」だけで強行された。教職員は30年に及ぶ度重なる制度改革で疲労の極にある。

 大学の社会的使命が「グローバル人材育成」というところにまで劣化したところで、さすがに日本の大学教員たちもほとほと疲れ果てたらしく、僕の知っている中でも何人かの東大教授が定年前に辞職しました。」

 アメリカとか、どこかよそから理想のモデルをもってきて、トップダウンで現場を従わせる。そんなことは止めればいい。今目の前にいる学生とのあいだ、それを取り囲む社会の中で、何が求められるのかを、地に足つけて、長期的な視野から考え、それをボトムアップに現場にフィードバックする。これをやるべきなのだ。それを可能にするには、大学の「自治」が不可欠の前提となる。


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