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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子「遡る日」、秋山基夫「薄田泣菫」

2020-02-06 10:32:40 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「遡る日」、秋山基夫「薄田泣菫」(「どぅるかまら」27、2020年01月10日発行)

 斎藤恵子「遡る日」と秋山基夫「薄田泣菫」を読んで「ことばの枠組み」というものについて考えた。
 斎藤の作品は、

おばあさんは九三歳だといい皓い歯を見せわらった
糟尾の髪はふさふさとして襟足で切り揃えられている
わたしに教えるように話す

 と、はじまり、「カラスが世界を制する日もまぢかじゃ」とつづいていく。このおばあさんの話している部分に詩があるのだが、それを締めくくるようにして、この詩は閉じられる。

おばあさんの泣く声
と思うと
カラスが喉を鳴らしている
からだがうらがえされている

 おばあさんがカラスを語っている内に、おばあさんがカラスになってしまった。カラスがおばあさんになってしまった。
 わかるのだけれど、こういうことって「種明かし」されるとつまらなくないだろうか。
 私はあえて引用しなかったが、どうか「どぅるかまら」27で確かめてほしい。「枠組み」が詩を窮屈にしてしまって、なんだかがっかりするのである。

 秋山基夫「薄田泣菫」は薄田泣菫を利用している。

過ぎし世に還りゆき西日に照らされて
わが影を追い林をよぎり竹藪をめぐり
古刹の門をくぐり石の回廊に歩み入る
足裏をわずかに浮かせ夕闇に溶けこみ
板に身を倒して燻る薫りに眠りました

 いま、だれがこんなことばを語るだろうか。だれも語らないだろう。薄田泣菫がこんなふうに語るかどうかは知らないが、いま、誰も語らないが「昔の詩人」なら語ってもかまわないだろうという気がする。
 そして、あ、これが「生きのびる」ということなのだと思うのである。
 で、こう書きながら、私の書いた「生きのびる」は私が発見したものではない、と書き加える。
 秋山の詩の他の部分に、こういうことばがある。

世紀を超えわたしの徹底は生きのびる
否定した者はおのれの徹底も否定した
彼らも彼らを継ぐ者も消えさるだろう

 そうか、「生きのびる」のは「薄田泣菫という形式」なのか、と思い、そう思った瞬間、さっき斎藤の詩について書いたことを否定したくなる。
 斎藤が書いた「枠組み」はつまらない。だが、そういう「枠組み」が生き延びているからこそ、その「枠組み」のなかでことばが自由に動く。つまり、その部分がおもしろい詩になるということが起きる。
 薄田泣菫の詩を私はきちんと読んだことはないが、「象徴派」の代表者だろう。象徴というのは具体を借りながら、それを抽象化していく(ことばから「具体」を剥奪していく)ことで「意味」を純粋化する。それが「枠組み」。そのとき「生きのびる」のは「実現された意味」ではなく、きっと「純粋化する」という運動の「枠組み」なのだ。秋山は「ことばのイメージを美化」するという運動なのだ。秋山は、それを引き継ぎながら、「純粋」をさらに「純粋」にしてしまう。「論理」にしてしまう。そうすると、あ、美しいのは「純粋」ではなく、むしろ「論理」を汚す(飾る?)不純物、「論理」のために捨てていくことばの方なのか、と考えたりする。この詩で言えば、「足裏」とか「わずかに浮かせ」とか、よくわからない「板に身を倒して」ということばが、それにあたる。「板の上に寝る」ですみそうなところを、「板に身を倒して」と言い直すと、「寝る」という動き自体が、何か「肉体の本能」を切り捨てるような行為に思えてくる。
 もし、そうなら。
 でも、どっちが「生きのびた」のかなあ。







*

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estoy loco por espana (番外47)

2020-02-06 09:07:25 | estoy loco por espana
Paco Casalの作品




ことばが過去のなかを通っていく
過去にもいくつもの通りがあり、
平行し、また交差する。つまり
曲がり角というものがある。
目印がある。
きみがことばにし、ことばがそれを記憶し、
いまというものがあるのだけれど、
それは過去のことであり
過去はぜったいに過去でありつづけることを
決意して
固有名詞を消す。
目印という
意味を、
ふいにあらわれる
教会の塔として。
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(19)

2020-02-06 08:27:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

エスキス

どの言葉も遮蔽されていて
そこを通りすぎる者を閉じこめる
ついに心も
石も

 この詩にはつづきがある。しかし、私は、ここで立ち止まる。「心も/石も」閉じこめられたものとして読む。
 閉じこめられた心(ことば)は石になる、と。

 さて、「そこ」とはどこか。無意識に嵯峨がつかみとっている「そこ」。そして、その「そこ」は「そこ」としか書かれていないのだが、たぶん、誰にでも共有される。だれでもことばが遮蔽され(つまり、ことばを聞いてもらえず)、こころを石のように固く閉ざしたことがあるからだろう。







*

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