斎藤恵子「遡る日」、秋山基夫「薄田泣菫」(「どぅるかまら」27、2020年01月10日発行)
斎藤恵子「遡る日」と秋山基夫「薄田泣菫」を読んで「ことばの枠組み」というものについて考えた。
斎藤の作品は、
と、はじまり、「カラスが世界を制する日もまぢかじゃ」とつづいていく。このおばあさんの話している部分に詩があるのだが、それを締めくくるようにして、この詩は閉じられる。
おばあさんがカラスを語っている内に、おばあさんがカラスになってしまった。カラスがおばあさんになってしまった。
わかるのだけれど、こういうことって「種明かし」されるとつまらなくないだろうか。
私はあえて引用しなかったが、どうか「どぅるかまら」27で確かめてほしい。「枠組み」が詩を窮屈にしてしまって、なんだかがっかりするのである。
秋山基夫「薄田泣菫」は薄田泣菫を利用している。
いま、だれがこんなことばを語るだろうか。だれも語らないだろう。薄田泣菫がこんなふうに語るかどうかは知らないが、いま、誰も語らないが「昔の詩人」なら語ってもかまわないだろうという気がする。
そして、あ、これが「生きのびる」ということなのだと思うのである。
で、こう書きながら、私の書いた「生きのびる」は私が発見したものではない、と書き加える。
秋山の詩の他の部分に、こういうことばがある。
そうか、「生きのびる」のは「薄田泣菫という形式」なのか、と思い、そう思った瞬間、さっき斎藤の詩について書いたことを否定したくなる。
斎藤が書いた「枠組み」はつまらない。だが、そういう「枠組み」が生き延びているからこそ、その「枠組み」のなかでことばが自由に動く。つまり、その部分がおもしろい詩になるということが起きる。
薄田泣菫の詩を私はきちんと読んだことはないが、「象徴派」の代表者だろう。象徴というのは具体を借りながら、それを抽象化していく(ことばから「具体」を剥奪していく)ことで「意味」を純粋化する。それが「枠組み」。そのとき「生きのびる」のは「実現された意味」ではなく、きっと「純粋化する」という運動の「枠組み」なのだ。秋山は「ことばのイメージを美化」するという運動なのだ。秋山は、それを引き継ぎながら、「純粋」をさらに「純粋」にしてしまう。「論理」にしてしまう。そうすると、あ、美しいのは「純粋」ではなく、むしろ「論理」を汚す(飾る?)不純物、「論理」のために捨てていくことばの方なのか、と考えたりする。この詩で言えば、「足裏」とか「わずかに浮かせ」とか、よくわからない「板に身を倒して」ということばが、それにあたる。「板の上に寝る」ですみそうなところを、「板に身を倒して」と言い直すと、「寝る」という動き自体が、何か「肉体の本能」を切り捨てるような行為に思えてくる。
もし、そうなら。
でも、どっちが「生きのびた」のかなあ。
*
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斎藤恵子「遡る日」と秋山基夫「薄田泣菫」を読んで「ことばの枠組み」というものについて考えた。
斎藤の作品は、
おばあさんは九三歳だといい皓い歯を見せわらった
糟尾の髪はふさふさとして襟足で切り揃えられている
わたしに教えるように話す
と、はじまり、「カラスが世界を制する日もまぢかじゃ」とつづいていく。このおばあさんの話している部分に詩があるのだが、それを締めくくるようにして、この詩は閉じられる。
おばあさんの泣く声
と思うと
カラスが喉を鳴らしている
からだがうらがえされている
おばあさんがカラスを語っている内に、おばあさんがカラスになってしまった。カラスがおばあさんになってしまった。
わかるのだけれど、こういうことって「種明かし」されるとつまらなくないだろうか。
私はあえて引用しなかったが、どうか「どぅるかまら」27で確かめてほしい。「枠組み」が詩を窮屈にしてしまって、なんだかがっかりするのである。
秋山基夫「薄田泣菫」は薄田泣菫を利用している。
過ぎし世に還りゆき西日に照らされて
わが影を追い林をよぎり竹藪をめぐり
古刹の門をくぐり石の回廊に歩み入る
足裏をわずかに浮かせ夕闇に溶けこみ
板に身を倒して燻る薫りに眠りました
いま、だれがこんなことばを語るだろうか。だれも語らないだろう。薄田泣菫がこんなふうに語るかどうかは知らないが、いま、誰も語らないが「昔の詩人」なら語ってもかまわないだろうという気がする。
そして、あ、これが「生きのびる」ということなのだと思うのである。
で、こう書きながら、私の書いた「生きのびる」は私が発見したものではない、と書き加える。
秋山の詩の他の部分に、こういうことばがある。
世紀を超えわたしの徹底は生きのびる
否定した者はおのれの徹底も否定した
彼らも彼らを継ぐ者も消えさるだろう
そうか、「生きのびる」のは「薄田泣菫という形式」なのか、と思い、そう思った瞬間、さっき斎藤の詩について書いたことを否定したくなる。
斎藤が書いた「枠組み」はつまらない。だが、そういう「枠組み」が生き延びているからこそ、その「枠組み」のなかでことばが自由に動く。つまり、その部分がおもしろい詩になるということが起きる。
薄田泣菫の詩を私はきちんと読んだことはないが、「象徴派」の代表者だろう。象徴というのは具体を借りながら、それを抽象化していく(ことばから「具体」を剥奪していく)ことで「意味」を純粋化する。それが「枠組み」。そのとき「生きのびる」のは「実現された意味」ではなく、きっと「純粋化する」という運動の「枠組み」なのだ。秋山は「ことばのイメージを美化」するという運動なのだ。秋山は、それを引き継ぎながら、「純粋」をさらに「純粋」にしてしまう。「論理」にしてしまう。そうすると、あ、美しいのは「純粋」ではなく、むしろ「論理」を汚す(飾る?)不純物、「論理」のために捨てていくことばの方なのか、と考えたりする。この詩で言えば、「足裏」とか「わずかに浮かせ」とか、よくわからない「板に身を倒して」ということばが、それにあたる。「板の上に寝る」ですみそうなところを、「板に身を倒して」と言い直すと、「寝る」という動き自体が、何か「肉体の本能」を切り捨てるような行為に思えてくる。
もし、そうなら。
でも、どっちが「生きのびた」のかなあ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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