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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」

2020-02-03 20:49:47 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」(「現代詩手帖」2020年02月号)

 マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」。ワニ(鰐)と「和邇」は違うのか。この詩を読むと「貝」を「和邇」と呼んでいるようだ。口がぱっくりと開くところが似ているからか。まあ、そんなふうにあいまいに考えておく。
 と、書いて。
 この「あいまいに考えておく」というのが、詩を読むとききっと大事なのだと私は思うのである。厳密に考えない。だいたいのところを中心にして考える。ことばの「定義(意味)」を確立したものとして理解するのではなく、「意味」になる前のようなものがどこかにあると「ぼんやり」と考える。「あいまい」に考える。私自身のもっている「意味」を「半分」捨てる。「和邇」は「貝」かどうかはわからないが、詩のなかには「貝」が出てくるし、ワニと貝が似ているところがあるとしたら、ぱかっと開く口だろうなあ、とかってに思っておく。そして、つづきを読んでいく。
 三連目が、ちょっとおもしろいし、ちょっと気持ち悪い。そして、そのちょっと気持ち悪い部分に「ことば」の「定義」(意味)ではないものが侵入してきて、それが「肉体」を刺戟する。

貝の肉は濡れた和紙のようにちぎれやすい
土の中から引き抜いた貝の先には
小刀の鞘に似た
三角形のとがった貝殻がついている
半回転させながら 貝殻を外すと
貝の肉がぬるりと現れた
少女はそれをぺろりと食べた
「え、あなたもひとつ食べてごらんなさい」
山の貝は 海水にさらされないために
独特の臭みがある
躊躇する私を見て取った少女は
私に渡そうとした貝を自分の口に放り込んだ

 どんな食べ物では「違和感」のあるものがある。目の前の人が食べているのだから、それを食べても死ぬことはない(安全である)とわかっていても、食べる気になれない。
 「意味」はわかるが、それに「同意」してしまうことに、ためらってしまう。何か、自分にとってよくないことが含まれていそう、という感じ。
 こんなものを食べたら腹を壊す(あるいは吐いてしまう)というような予感。
 いや、ただ生理的に「気持ち悪い」だけなのだけれど、こういうことは正直に言うのが難しいから、どうしても嘘を書いてしまう。
 脱線したが。
 こういうい「気持ち悪さ」はだれでも経験をしたことがあると思う。
 で、そういう「反応」というのは、相手につたわる。
 この詩で言えば、

躊躇する私を見て取った少女は

 という、この部分がそれ。そして、この「見て取る」は「見られてしまった」ということでもある。具体的に「交渉」があるわけではないが、瞬時に、その「交渉」がことばを介さないままにおこなわれ、そこに次の行動が重なる。
 これ。
 実際に、気持ち悪い「食い物」ではなくても、いろいろなときに経験したことがあるでしょ? 「躊躇」を見られてしまった。見られただけではなく、それをあざ笑うようにして、相手は自分のできないことを平気でやってみせる。
 このとき、何かが「否定」される。
 それは「否定」というような大げさなものではないかもしれないが。

 このときの「あいまいさ」。

 ことばにするのは難しいが、「肉体」で確実に感じ取ってしまう「ことばにならない意味」。ことばにならないが「肉体」の動きのなかにはそれが鮮明にあらわれている。「見て取る」。そして「渡そうとしたもの」を渡さずに「口へ放り込む」(その人の「肉体のなかへ、ほうりこむ(のみこむ)」。やっぱり、あんたにはむりだね、と「肉体」で言われてしまう。
 こういう微妙な「肉体のことば」を、マーサ・ナカムラは的確に描く。
 ここでは気持ちの悪い貝を食べるかどうか、という「意味」(ストーリー)は、どうでもいい。「意味」をあざわらうように噴出してくる「肉体」の「実感」が、そこにあるかどうか、ということが問題。
 で、こういうことの奥には、実は「新しいことば」ではなく、どちらかというと「古い」ことばというか、積み重ねられてきたことばの(あのいは肉体の)「歴史」のようなものが潜んでいる。貝を和邇(わに)と呼ぶ理由のようなものが。謎解き(?)をすれば、たとえば私がやったように「貝の口も、ワニの口もぱかっと開く」のような言い方をすれば、なんとなく、あっ、そうかと思うような「意識の歴史(どこかで共有してしまった意味)」のようなものがある。マーサ・ナカムラは、こういうものを、しっかりとつかみ取ってくる。日本語のなかから。
 こういうことをする詩人は、最近は少ない。だから、古いのだけれど、とても新しく見える。
 この詩にはまた、

「え、あなたもひとつ食べてごらんなさい」

 という行にみられる「声」が、それに通じるものとして書かれている。
 「え、」というのは、口語である。「意味」は、まあ、あるといえばあるが、ないといえば、ない。何かを言うとき、話者が「これから何かいいます」という「前置き」のようにして発する「あいまい」な何かである。それは「口語」であるから、「意味」というよりも「肉体」に属していて、「肉体」から切り離せないものになっている。無意識になっている。
 無意識、というのは「あいまい」なのもの。
 と、私は、あえて言い直す。そうすると、ほら、私が最初に書いたことと、どこか通じるでしょ?

 そして、ほら。「結論」が生まれそうな気配。

 マーサ・ナカムラは「無意識」になってしまっている「肉体」を、瞬間的に「意識」に変化させて噴出させる。「意識してこなかった肉体」が噴出して、それが「意識」を裏切るように、「意識」に傷を残していく。
 もちろん、こういう「傷」は、黙っていれば(ことばにしなければ)、見えない。
 その「見えない」もの、「隠しておきたいもの」を、あいまいだけれどはっきりしたものを、マーサ・ナカムラは、なんといえばいいのか、「工芸品」のような手触りのあるものとしてことばにしている。

 私は、こうした「肉体」と「意識(ことば)」の関係に踏み込んだ詩が大好きである。叩いても壊れない「強さ」がある。

 と、書きながら、私は「あーあ、結論を書いてしまった」と自分がいやになる。「結論」はそれまで書いてきたことを整理するふりをして「封印」してしまう。「封印」するのではなく、書いてきたことをさらに開いていかないと、書いたことにならない。
 書いたことを叩き壊すために、また、何かを書かないといけない。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(16 )

2020-02-03 10:34:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

白昼の街

夜を
もつと大きな夜を探していると
闇のなかに自らを失う

 「白昼の街」なのに「夜」を探す。「自らを失う」と書いているが、これは過去形ととらえた方がいいだろう。夜、もっと大きな夜を探した。そして自らを失ったという「記憶」をかかえて、いま嵯峨は白昼の街にいる。
 さて。
 「もっと大きな夜」は、どこにあるのか。「夜のなか」にある。それは「空間的な大きさ」ではなく、「意識」としての夜だろう。「夜のなか」のかわりに、嵯峨は「闇のなか」と書く。「意識の闇のなか」に探す。そして「自らを失う」。
 残されたのは「探した」という記憶だけである。あるいは「探す」という行為だけである。








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