マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」(「現代詩手帖」2020年02月号)
マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」。ワニ(鰐)と「和邇」は違うのか。この詩を読むと「貝」を「和邇」と呼んでいるようだ。口がぱっくりと開くところが似ているからか。まあ、そんなふうにあいまいに考えておく。
と、書いて。
この「あいまいに考えておく」というのが、詩を読むとききっと大事なのだと私は思うのである。厳密に考えない。だいたいのところを中心にして考える。ことばの「定義(意味)」を確立したものとして理解するのではなく、「意味」になる前のようなものがどこかにあると「ぼんやり」と考える。「あいまい」に考える。私自身のもっている「意味」を「半分」捨てる。「和邇」は「貝」かどうかはわからないが、詩のなかには「貝」が出てくるし、ワニと貝が似ているところがあるとしたら、ぱかっと開く口だろうなあ、とかってに思っておく。そして、つづきを読んでいく。
三連目が、ちょっとおもしろいし、ちょっと気持ち悪い。そして、そのちょっと気持ち悪い部分に「ことば」の「定義」(意味)ではないものが侵入してきて、それが「肉体」を刺戟する。
どんな食べ物では「違和感」のあるものがある。目の前の人が食べているのだから、それを食べても死ぬことはない(安全である)とわかっていても、食べる気になれない。
「意味」はわかるが、それに「同意」してしまうことに、ためらってしまう。何か、自分にとってよくないことが含まれていそう、という感じ。
こんなものを食べたら腹を壊す(あるいは吐いてしまう)というような予感。
いや、ただ生理的に「気持ち悪い」だけなのだけれど、こういうことは正直に言うのが難しいから、どうしても嘘を書いてしまう。
脱線したが。
こういうい「気持ち悪さ」はだれでも経験をしたことがあると思う。
で、そういう「反応」というのは、相手につたわる。
この詩で言えば、
という、この部分がそれ。そして、この「見て取る」は「見られてしまった」ということでもある。具体的に「交渉」があるわけではないが、瞬時に、その「交渉」がことばを介さないままにおこなわれ、そこに次の行動が重なる。
これ。
実際に、気持ち悪い「食い物」ではなくても、いろいろなときに経験したことがあるでしょ? 「躊躇」を見られてしまった。見られただけではなく、それをあざ笑うようにして、相手は自分のできないことを平気でやってみせる。
このとき、何かが「否定」される。
それは「否定」というような大げさなものではないかもしれないが。
このときの「あいまいさ」。
ことばにするのは難しいが、「肉体」で確実に感じ取ってしまう「ことばにならない意味」。ことばにならないが「肉体」の動きのなかにはそれが鮮明にあらわれている。「見て取る」。そして「渡そうとしたもの」を渡さずに「口へ放り込む」(その人の「肉体のなかへ、ほうりこむ(のみこむ)」。やっぱり、あんたにはむりだね、と「肉体」で言われてしまう。
こういう微妙な「肉体のことば」を、マーサ・ナカムラは的確に描く。
ここでは気持ちの悪い貝を食べるかどうか、という「意味」(ストーリー)は、どうでもいい。「意味」をあざわらうように噴出してくる「肉体」の「実感」が、そこにあるかどうか、ということが問題。
で、こういうことの奥には、実は「新しいことば」ではなく、どちらかというと「古い」ことばというか、積み重ねられてきたことばの(あのいは肉体の)「歴史」のようなものが潜んでいる。貝を和邇(わに)と呼ぶ理由のようなものが。謎解き(?)をすれば、たとえば私がやったように「貝の口も、ワニの口もぱかっと開く」のような言い方をすれば、なんとなく、あっ、そうかと思うような「意識の歴史(どこかで共有してしまった意味)」のようなものがある。マーサ・ナカムラは、こういうものを、しっかりとつかみ取ってくる。日本語のなかから。
こういうことをする詩人は、最近は少ない。だから、古いのだけれど、とても新しく見える。
この詩にはまた、
という行にみられる「声」が、それに通じるものとして書かれている。
「え、」というのは、口語である。「意味」は、まあ、あるといえばあるが、ないといえば、ない。何かを言うとき、話者が「これから何かいいます」という「前置き」のようにして発する「あいまい」な何かである。それは「口語」であるから、「意味」というよりも「肉体」に属していて、「肉体」から切り離せないものになっている。無意識になっている。
無意識、というのは「あいまい」なのもの。
と、私は、あえて言い直す。そうすると、ほら、私が最初に書いたことと、どこか通じるでしょ?
そして、ほら。「結論」が生まれそうな気配。
マーサ・ナカムラは「無意識」になってしまっている「肉体」を、瞬間的に「意識」に変化させて噴出させる。「意識してこなかった肉体」が噴出して、それが「意識」を裏切るように、「意識」に傷を残していく。
もちろん、こういう「傷」は、黙っていれば(ことばにしなければ)、見えない。
その「見えない」もの、「隠しておきたいもの」を、あいまいだけれどはっきりしたものを、マーサ・ナカムラは、なんといえばいいのか、「工芸品」のような手触りのあるものとしてことばにしている。
私は、こうした「肉体」と「意識(ことば)」の関係に踏み込んだ詩が大好きである。叩いても壊れない「強さ」がある。
と、書きながら、私は「あーあ、結論を書いてしまった」と自分がいやになる。「結論」はそれまで書いてきたことを整理するふりをして「封印」してしまう。「封印」するのではなく、書いてきたことをさらに開いていかないと、書いたことにならない。
書いたことを叩き壊すために、また、何かを書かないといけない。
*
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マーサ・ナカムラ「和邇(わに)」。ワニ(鰐)と「和邇」は違うのか。この詩を読むと「貝」を「和邇」と呼んでいるようだ。口がぱっくりと開くところが似ているからか。まあ、そんなふうにあいまいに考えておく。
と、書いて。
この「あいまいに考えておく」というのが、詩を読むとききっと大事なのだと私は思うのである。厳密に考えない。だいたいのところを中心にして考える。ことばの「定義(意味)」を確立したものとして理解するのではなく、「意味」になる前のようなものがどこかにあると「ぼんやり」と考える。「あいまい」に考える。私自身のもっている「意味」を「半分」捨てる。「和邇」は「貝」かどうかはわからないが、詩のなかには「貝」が出てくるし、ワニと貝が似ているところがあるとしたら、ぱかっと開く口だろうなあ、とかってに思っておく。そして、つづきを読んでいく。
三連目が、ちょっとおもしろいし、ちょっと気持ち悪い。そして、そのちょっと気持ち悪い部分に「ことば」の「定義」(意味)ではないものが侵入してきて、それが「肉体」を刺戟する。
貝の肉は濡れた和紙のようにちぎれやすい
土の中から引き抜いた貝の先には
小刀の鞘に似た
三角形のとがった貝殻がついている
半回転させながら 貝殻を外すと
貝の肉がぬるりと現れた
少女はそれをぺろりと食べた
「え、あなたもひとつ食べてごらんなさい」
山の貝は 海水にさらされないために
独特の臭みがある
躊躇する私を見て取った少女は
私に渡そうとした貝を自分の口に放り込んだ
どんな食べ物では「違和感」のあるものがある。目の前の人が食べているのだから、それを食べても死ぬことはない(安全である)とわかっていても、食べる気になれない。
「意味」はわかるが、それに「同意」してしまうことに、ためらってしまう。何か、自分にとってよくないことが含まれていそう、という感じ。
こんなものを食べたら腹を壊す(あるいは吐いてしまう)というような予感。
いや、ただ生理的に「気持ち悪い」だけなのだけれど、こういうことは正直に言うのが難しいから、どうしても嘘を書いてしまう。
脱線したが。
こういうい「気持ち悪さ」はだれでも経験をしたことがあると思う。
で、そういう「反応」というのは、相手につたわる。
この詩で言えば、
躊躇する私を見て取った少女は
という、この部分がそれ。そして、この「見て取る」は「見られてしまった」ということでもある。具体的に「交渉」があるわけではないが、瞬時に、その「交渉」がことばを介さないままにおこなわれ、そこに次の行動が重なる。
これ。
実際に、気持ち悪い「食い物」ではなくても、いろいろなときに経験したことがあるでしょ? 「躊躇」を見られてしまった。見られただけではなく、それをあざ笑うようにして、相手は自分のできないことを平気でやってみせる。
このとき、何かが「否定」される。
それは「否定」というような大げさなものではないかもしれないが。
このときの「あいまいさ」。
ことばにするのは難しいが、「肉体」で確実に感じ取ってしまう「ことばにならない意味」。ことばにならないが「肉体」の動きのなかにはそれが鮮明にあらわれている。「見て取る」。そして「渡そうとしたもの」を渡さずに「口へ放り込む」(その人の「肉体のなかへ、ほうりこむ(のみこむ)」。やっぱり、あんたにはむりだね、と「肉体」で言われてしまう。
こういう微妙な「肉体のことば」を、マーサ・ナカムラは的確に描く。
ここでは気持ちの悪い貝を食べるかどうか、という「意味」(ストーリー)は、どうでもいい。「意味」をあざわらうように噴出してくる「肉体」の「実感」が、そこにあるかどうか、ということが問題。
で、こういうことの奥には、実は「新しいことば」ではなく、どちらかというと「古い」ことばというか、積み重ねられてきたことばの(あのいは肉体の)「歴史」のようなものが潜んでいる。貝を和邇(わに)と呼ぶ理由のようなものが。謎解き(?)をすれば、たとえば私がやったように「貝の口も、ワニの口もぱかっと開く」のような言い方をすれば、なんとなく、あっ、そうかと思うような「意識の歴史(どこかで共有してしまった意味)」のようなものがある。マーサ・ナカムラは、こういうものを、しっかりとつかみ取ってくる。日本語のなかから。
こういうことをする詩人は、最近は少ない。だから、古いのだけれど、とても新しく見える。
この詩にはまた、
「え、あなたもひとつ食べてごらんなさい」
という行にみられる「声」が、それに通じるものとして書かれている。
「え、」というのは、口語である。「意味」は、まあ、あるといえばあるが、ないといえば、ない。何かを言うとき、話者が「これから何かいいます」という「前置き」のようにして発する「あいまい」な何かである。それは「口語」であるから、「意味」というよりも「肉体」に属していて、「肉体」から切り離せないものになっている。無意識になっている。
無意識、というのは「あいまい」なのもの。
と、私は、あえて言い直す。そうすると、ほら、私が最初に書いたことと、どこか通じるでしょ?
そして、ほら。「結論」が生まれそうな気配。
マーサ・ナカムラは「無意識」になってしまっている「肉体」を、瞬間的に「意識」に変化させて噴出させる。「意識してこなかった肉体」が噴出して、それが「意識」を裏切るように、「意識」に傷を残していく。
もちろん、こういう「傷」は、黙っていれば(ことばにしなければ)、見えない。
その「見えない」もの、「隠しておきたいもの」を、あいまいだけれどはっきりしたものを、マーサ・ナカムラは、なんといえばいいのか、「工芸品」のような手触りのあるものとしてことばにしている。
私は、こうした「肉体」と「意識(ことば)」の関係に踏み込んだ詩が大好きである。叩いても壊れない「強さ」がある。
と、書きながら、私は「あーあ、結論を書いてしまった」と自分がいやになる。「結論」はそれまで書いてきたことを整理するふりをして「封印」してしまう。「封印」するのではなく、書いてきたことをさらに開いていかないと、書いたことにならない。
書いたことを叩き壊すために、また、何かを書かないといけない。
*
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