詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(35)

2020-02-22 11:15:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (無自覚で 空白で 自分を捨てたとき)

一つの言葉が
ぼくの心の奥を掠めた

 このときの「一つの言葉」とはどんなことばだろうか。具体的には何だろうか。花や鳥といった具体的なことばか。愛や祈りというような抽象的なことばだろうか。
 私は、どちらでもないと思う。
 「言葉」としか呼べないもの、まだ具体的なことばにはなっていない何か、だと思う。
 嵯峨が詩人だから「言葉」と感じるのであって、音楽家なら「音」、画家なら「色」、彫刻家なら「形」かもしれない。
 その人を、肉体の奥から揺さぶる「本質的なもの」、生まれる前の「真実」のようなもの。
 「それ」とか「あれ」としか呼べないもの。
 しかも、それは「掠めていく」だけなのだ。希望のように。あるいは絶望のように。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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コロナウィルス「妄想」

2020-02-22 08:42:19 | 自民党憲法改正草案を読む
コロナウィルスについて、いろいろ言われている。
一番の不思議は、安倍が(政府が、ではない)、さまざまな検査を渋っていることである。
テレビ報道(私はテレビを見ないので、ネットで得たテレビ情報であるけれど)では、検査は簡単にできる。問題は保険適用がされないということらしい。しかし、この保険適用は、厚労省が「認可」すればすむことらしい。

ここからかわる簡単な事実。

コロナウィルスに感染しているかどうか、多くの民間機関はすぐにでも検査ができる。
それをしないのは、安倍の「お友達(安倍に献金している検査機関なり、製薬会社なり)」の「準備」が整っていないからだ。
いま、厚労省が「保険適用」を決定すれば、準備の整っている民間機関には検査依頼が殺到する。そういう機関は、ことばは悪いが、金もうけになる。けれど、安倍の「お友達」はこの「金もうけの契機に、金もうけができない」。これが問題なのだ。
「安倍のお友達」が金もうけできるようになるまで、(準備が整うまで)、保険適用をしないだろう。「安倍のお友達」が金もうけができるようになれば、認可する。

たぶん、安倍の「お友達機関」は、他の民間機関よりも有名。どうしても「有名」な機関を人は選びがちである。いま検査できる民間機関ではなく、安倍の「お友達機関」、さらには「安倍のお友達医療関係会社」がより多くの利益を確保できる「体制」が整えば、安倍は「保険適用」を指示する。
「金もうけ」のためなら国民の健康など二の次、というのが安倍の基本姿勢である。

「安倍のお友達」がもうかれば、それだけ安倍への献金が増え、安倍がもうかる。

安倍はことあるごとに、「民主党政権下の暗黒時代」というような言い方をするが、その具体的な事実は、民主党政権下では安倍への献金(安倍の闇の収入)が減ったというだけである。
いまは、安倍への献金が増えている。だから、安倍は「幸福」である。
安倍は、自分の「利益」しか考えていない。
その「お坊っちゃま性格」がそのまま、新型肺炎問題にも反映していると見るべきだろう。

私の書いていることは、「事実の裏付け」などない。
単なる「妄想」だが、私はこういう「妄想」を書くことを「はずかしい」とは思わない。
「妄想」でしかたどりつけない「事実」というものがある。
とくに、いまのように、あらゆる「事実」が隠蔽され、改竄され、廃棄される時代には、「事実」を裏付けるものが何もないのだから、国民が「妄想」を抱く権利は肯定されるべきだと思う。

新型コロナウィルスの検査が保険適用されるようになったとき、どの「医療関係機関(製薬会社や、検査機器製造会社など)」がいちばんもうけたか、ということが明らかになる。
そのとき、私の「妄想」が「妄想」か、そうでないかが明らかになる。

安倍はいろいろなものを隠蔽し、改竄し、廃棄するが、どこの企業がもうけたかという「事実」は隠蔽も改竄も廃棄もできない。
明確な「証拠」として、社会に公になる。
(他の政策でも、どの企業が、どのような政策でもうけたかということを分析すれば、安倍のやっていることがすべて明確になる。消費税問題では、すでに消費税増税で一般国民は生活が苦しくなっているが、大企業は輸出分の還付を受けるなど「特典」があることが指摘されている。)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(34)

2020-02-21 06:17:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

人間小史

ぼくの魂しいに灯をともすと
言葉の上を
死んだ女の影が通りすぎる


 「魂しい」と「言葉」は、嵯峨にとっては同義である。「魂しい」の火が「影」を生み出す。それが「言葉」の上に落ちるのだが、逆に「ぼくの言葉に灯をともすと/魂しいの上を/死んだ女の影が通りすぎるにもなる」。詩は、どうしても女を魂のなかに呼び寄せるのだ。
 また「言葉」と「女の影」を入れ替えることもできる。つまり、それは同義であるとこを意味する。「死んだ女の影の上を/言葉が通りすぎる」は「死んだ女の上を/言葉の影が通りすぎる」でもある。
 「魂しい」「言葉」「影」は「灯」と「影」に入れ代わり、照らしたり影を落としたりする。「魂しい」「言葉」「影」は「照らす/影を生み出す」という矛盾した運動をとおして「三位一体」になる。



*

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池井昌樹「泉」

2020-02-20 11:50:41 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「泉」(「森羅」21、2020年03月09日発行)

 「森羅」21には、池井の詩が三篇。きのうまで「ぼくの詩は」について書くつもりでいたのだが、きょうになってみると気持ちが変わった。「泉」を読んでみる。

あなたの詩は
なぜひらがなで?
そう問われたら
あのはなは
なぜあんないろ?
そうこたえます

 禅問答にはなっていないが、禅問答のようなものだろう。問いの抱え込んでいる「既成のもの(問いの定型)」を拒絶して、あらたなことばの運動をはじめる。「問い」に対する「答え」ではなく、池井自身が世界と向き合ったときに生まれることばそのもので答える。
 もう一度繰り返される。

あなたの詩
なぜ七音(ななおん)?
そう問われたら
あのはねは
なぜななつぼし?
そうこたえます

 「問い」の「なな」が、「答え」に利用されている。言い直すと、ここでは「問いの定型」を叩き壊す、「問い」を無効にするということはおこなわれていない。もちろん逆にいうこともできる。「なな」を取り込むことによって、「問い」を「無意味」にする。
 そのうえで、池井は、こうつづける。

なぜひとは
なぜ?
と問うのか
たんぽぽの
たんぽぽのいろを
てんとうむしの
ななほしを
おさなごが
じってとみている
いやみていない
なにひとつ
わけなんかない
なにもない
こころのなかに
こんこんと
わきでるいずみ

 ここに、私は「反感」と同時に「共感」も覚える。
 反感から書いておこう。
 「おさなご」が私は嫌いだ。池井自身を「おさなご」にしてしまっている。「おさなご」を否定できるひとはいないだろう。そういう「否定できない」ものの「定型」がここに顔を出している。こういう「論理」野あり方は、私が一番嫌いなのものだ。
 「おさなご」は確かに「定型」をもっていない。けれど、思考の(認識の)「定型」をもっていないということと、「思考の定型」を壊すということとは別のことではないか。必要なのは「破壊」であって、「無垢」を引き継ぐことではない。「無垢」には「無垢」の「定型」というものがある。
 「おさなご」が「なぜ」に対して「なぜなら」という「わけ」をもっていないのは、まだ「ことば」が未熟だからである。「わけなんか/なにもない」というのは「おさなご」の「ことばの世界」のことであって、池井の「ことばの世界」ではない。「おさなご」を利用せずに、「池井のことば」にしないといけない。

じっとみている
いやみていない

 この対のなかにある「いや」の速度。即座の反応。私が「共感」を覚えるのは、ここだ。「即座」の「即」は「色即是空」の「即」である。全体的な「肯定」。
 何を見ていないか。「世界」を見ていないのではない。タンポポやてんとう虫を見ていないのではない。それがタンポポであり、これがてんとう虫であるという「区別」を見ていない。タンポポはタンポポであり、てんとう虫はてんとう虫であるという世界ではなく、タンポポを見るときそれはタンポポではなく「世界」である。てんとう虫を見るときそれはてんとう虫ではなく「世界」である。どのような細部も「世界」そのものである。そして、そういうとき、それを見る人自身が「自分」と「世界」の区別を失う。「世界」にとけこんでしまう。「世界」になる。
 この、「世界」になるの「なる」を「おさなご」は自分の意志で「なる」わけではない。そこは「区別」しないといけない。そうしないと「詩」ではなく、「おさなご絶賛」になってしまう。

こころのなかに
こんこんと
わきでるいずみ

 これは、タンポポでもてんとう虫でもいいが、そういうものが「世界」そのものとして休むことなく、憩うことなく、溢れ出てくることを「説明」している。
 池井の詩は、そうやって「生まれてくる」。

 これは「意味」としては、「わかる」。
 でも、私の「実感」から言うと、そういう「世界」は「おさなご」の世界ではない。ここからまた、私の反感ははじまる。私は「おさなご」のときのことを正確に覚えているわけではないが、私は、

じっとみている
いやみていない

 ということをどうしても思い出せない。私は「見ていない/いやじっと見るようになった」としてしか思い出せない。
 私にとって、世界とは、まずそこに「あった」。たとえば庭があり、柿の木があり、畑があり、いろいろなものが植えられている。「いろいろ」と私は書いたが、それが「いろいろ」になるのは「ことば」を覚えてからである。「庭」も「柿の木」も「畑」も、ことばを覚える前は、ただ「ある」にすぎない。
 「私」にしろ、父や母にしろ、それは「ある」何かであって「私」でも「父」でも「母」でもない。私は「自意識」というものが芽生えるのが遅かったのかもしれないが、小学校に入学する前の日、父が「名前くらい書けないといけない」といって「ひらがな」で名前の書き方を教えてくれたとき、あ、ものに名前があるのだと気づいたのだと思う。(これは、もちろん、いま考えていることであって、6歳のときに、そう考えたわけではない。ただ、名前を書くということを教えられ、非常にびっくりしたことを覚えている。)
 私はそれまで「もの」に名前があると意識していなかった。「ごはん」と言えば、「ごはん」というものが、そのとき「世界」のなかから「意味」があるものとして「見えてくる」けれど、そのことばを聞くまでは、そこに「ある」けれど、ただ「ある」だけのものにすぎない。「柿」にしろ「庭」にしろ「畑」にしろ、そこに「ある」けれど「柿の木」「庭」「畑」と「区別」しないかぎりは、ただそこに「ある」だけである。
 「ものの名前」を覚えることで、この「ある」が少しずつかわってくる。「みていない」をつづけられなくなる。「みている」にならないと、どうも、ひとと話ができないということがわかってくる。そして、成長するにつれ「みている」だけになる。つまり、あらゆるものを「区別」して「みる」。それを「わかる」ということだと思い始める。
 しかし。
 ここから「みていない」へ戻るためには、「おさなご」を持ち出してきて「じっとみている/いやみていない」というだけでは、私には不可能に思えるのだ。
 だいたい「みていない」とき(私が何もみていなかったとき)、そこに「ある」もの(世界)は「こんこんと/わきでる」という形では動いていなかった。何一つ「うみだす」(うまれる)必要がなかった。私の家は貧乏で、ものは何もなかったのだけれど、その「ない」ということさえ、ことばを知る前は存在せず、「ある」だけがあった。つまり「完璧」だった。
 池井のつかってる表現を借りて言えば、ことばを覚える、名前を覚える、ということをとおして「世界」が「こんこんと/わきでる」ということが生じた。いま、「世界」はそういう「名前(区別)」であふれている。「渾沌」としている。ここから、すべての「名前」と取り払い、「世界」をとらえなおすには「おさなご」という「比喩」は、なんだか、嘘っぽいのである。「ことば」を知ってしまった人間が、「おさなご」に戻るために、どうすればいいのかが書かれていないと、いらだってしまう。
 このいらだちがあって、きのうは、この詩について書きたいとは思わなかった。しかし、きょうは、このいらだちのために感想を書いておきたいと思ったのだ。








*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(33)

2020-02-20 09:46:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む



どこを叩いても鐘は鳴らぬ

沈黙にすつぽり覆われているのか
魂しいの不在か

 「沈黙に覆われる」と「魂しいの不在」が同等なもの(比喩として交換可能なもの)として書かれている。
 「覆う」という動詞に注目すると、不思議なものが見えてくる。
 「覆う」は「外側から覆う」、つまり「内部を覆う」ということ。「魂」は一般的に「肉体の内部」にあると考えられている。「魂」が不在ならば、それを「覆う」ということは不可能である。
 また「内部(魂)」が不在なら、「覆う」という動詞は、動詞のままでは存在し得ない。運動を封じられる。動くことができない。これが「沈黙」である。何かが、動こうとして動かない。そういう緊張が「鐘」という「もの」になっている。



*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(32)

2020-02-19 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

パズルに隠れている死

死ぬことは大地の上でしかできない
空高く通つている鳥たちも大地に落ちて死ぬ

 これは「理屈」である、と私は思う。
 「理屈」を拒絶するだけのものを私は持たないが、こういうことばを読むと、私は引きつけられるよりも反発を感じる。しかもその反発というのは、私が近づいていくことを拒んでいる、私はここに書かれていることばに拒まれている、という感じと一緒に生まれる。
 「違う」と私のなかの何かが叫んでいる。




*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(31)

2020-02-18 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

花束のように

大きな花束のように
ぼくの全部をいま手に重く持つてみたい


 「花束」は「ぼく」の比喩である。そして「花束」は「美しい」ではなく「重い(重く)」ということばに結晶していく。この「重い」は「美しい」よりも、はるかに「奢り」というものを感じさせる。そして、それは悪い意味ではない。思わず、ほ「ほーっ」とため息が漏れる。みとれてしまう。
 自分の生を「重い」と感じ取れるいのちの強さ。
 しかも、この詩は「青春」の詩ではない。嵯峨の晩年の詩である。嵯峨のなかに残る「青春」が、この詩貫いている。



*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(30)

2020-02-17 09:13:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ここは何処なのか

遠いことはいいことだ
愛が 憎しみが 心だつて
なにもかもが遠くなる

 「ここが何処なのか」わからないを「遠い」と言い直している。ただ「遠い」のではなく「遠いこと」。「遠いところ」ではなく「遠いこと」。
 「どこかわからない場所」にも「わかるもの」はある。道とか家とか、あるいは扉、窓。しかし、それぞれの「もの」が抱え込んでいる「歴史(それまでに起きたこと)」がわからない。これが「遠いこと」なのだ。
 そのとき「わかること」というのはなんだろうか。自分自身か。しかし、これもよく考えると「わからない」。「ここは何処なのか」は、すぐに「私はだれなのか」にかわる。そして、それは「何をしているか」(何をしたか)にかわる。

ああ 在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか

 この最終行は「在りし日にぼくは何を彷徨っていたのか」ということになる。




*

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細田傳造「不幸」

2020-02-17 08:46:46 | 詩(雑誌・同人誌)
細田傳造「不幸」(「DONC」3、2020年02月15日発行)

 細田傳造「不幸」は、こうはじまる。

不幸だなあ
このとしで目がよく見えるということは
二百メートル先の堤防の角から
こっちへ歩いてくる娘っこの
唇が薄すぎるのが見える

 目が悪い私には、その不幸がうらやましい。でも、まあ、ふつうに考えて、そんな遠くの娘の唇の薄さが見えるとは考えられない。で、この「考えられない」ということが重要。「考えられない」けれど、それが「ありうる」ということは、ある。どうしてか。細田がその「娘」を知っているときである。遠くても、歩き方とか、全体の感じで「ああ、あの娘だ」と「わかる」ときがある。そして、それが「わかる」ということは細田が「娘」を知っているからだ。同じことを繰りかえしてしまったが、この「知っている」ことが「肉体」に跳ね返ってくる、ということが大事なのだ。「肉体」は何かを「覚えている」。それが「知っている」ということでもある。それが「よく見える」ということなのだ。
 この「知っている」(わかる)は、詩の後半でこう変わっていく。

この年で目がよく見えるということは
とても不幸だ
(略)
おまけに
鼻がよすぎるということは
ほとんどアウトだ
市谷に住んでいる孫の顔を見に行けない
五月のある夜の空襲に
牛込川田窪の所在の牛小屋に於いては
牛のきんたま総員丸焼けで
臭くって臭くって堪らなかった
アメリカ火喰(ひじき)の残臭を
このとしまで覚えていることは
とても不幸だ
ガスマスクをして
河田町の交番の前を通ったら
つかまるねぜったいに
不幸だなあ

 「覚えている」というよりも「忘れられない」である。「肉体」は体験したことを忘れられない。自転車に乗れる、泳げる。そういうひとは、長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいなくても、いざとなったら自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」とは、そういうものである。英語の単語を覚えるというのとは違う。
 そして、この「肉体」で「覚えたもの」(忘れられないもの)が人間をつくっていくのである。つまり、思想をつくる。ことばをつくる。
 最近読んだ川越宗一『熱源』は、ことばがすらすらと動く。つまずくことなく整然としている。だから、どんなに大事な「思想」を書いても、そこから「肉体」が見えてくることはない。そこには何が書かれていても、それは「頭の思想」でしかない。
 でも、細田のことばは違う。「牛のきんたま総員丸焼けで/臭くって臭くって堪らなかった」には、いわゆる「思想のことば」(ヨーロッパの現代思想のことば)など少しも含まれていないが、そういうもの拒絶して「肉体」の覚えていることをさらけだすことによって「思想」になっている。もう二度と、そういう匂いを嗅ぎたくない。この反応が「思想」だ。
 このあとが、しかし、おかしいね。
 「肉体」が覚えていることは「現実の街」にそのまま残っているわけではない。だから「ガスマスク」をしても、その匂いは細田を襲うはずだ。言い換えると、「ガスマスク」が効力を発揮するのは「肉体の外」にある匂い(物質)に対してであって、「肉体の内部」にあるものに対しては無効である。だから「ガスマスク」なんかつけて細田が歩くわけがない。それなのに「ガスマスクをして/河田町の交番の前を通ったら/つかまるねぜったいに」とあり得ないこと、つまり「嘘」を書く。ここに「文学」のおもしろさがある。
 「嘘」が、細田の覚えていること、「肉体の記憶」をより鮮やかにする。そして、存在しないものを存在させる。「いま/ここ」に牛の金玉が丸焼けになる悲惨さを出現させる。

 さらりと軽く書き流しているようで、非常に綿密に構築されたことばの運動だ。しかも、その構造の強さを感じさせない。じいさんの「無駄口」のような、なんというのか、「暮らし」(つかいこんだ肉体)だけを感じさせるところが、とてもいい。






*

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池田清子「いないということ」、青柳俊哉「円輪」

2020-02-16 15:56:28 | 現代詩講座
池田清子「いないということ」、青柳俊哉「円輪」(朝日カルチャー講座、2020年02月03日)


いないということ     池田清子

それは
川のように
遠くではないよ

紙一重というけれど
そんなに厚くもないよ

薄-----------い膜の
右 と 左

 「いない」。でも、「いない」と「実感」できない。むしろ「いる」と感じる。「いない/いる」の違いはなんだろうか。
 一連目の「川のように」という比喩は、さまざまに読むことができる。
 いま、ここにいない。そして、その「いない」をみつめるとき、窓の向こう、遠くの景色が見える。そこには川があることを知っている。その川までの「距離」を知っている。その知っている「距離」ほどには遠くない。「もっと近くにいる」
 二連目は「遠く」の逆を書いている。「近く」にいる。しかも、その「近く」というのは、説明がとてもむずかしい。「紙一重」というのは、隔てるものがほとんどない状態を指すが、その「紙一重」という比喩でさえ「厚み(距離)」を感じさせるので、適切ではない。
 三連目で、二連目の「厚さ(距離)」を言い直す。「薄-----------い膜」と。でも、それは言いたいことではない。言いたいのは「いる」と感じるときの、その感じ方。「前と後ろ」「上と下」ではなく、「右と左」。隣り合っている。並んでいる。そういう感じ方こそを言いたい。
 「いない」けれど「いる」と感じる。そして、そのとき二人は右と左に並んでいる。ほんとうは「いない」のだから、「いる」私と、「いない」あなたの距離はとても遠い。川よりも遠い。けれどあなたが「いる」と感じるとき、その「いる/いない」のあいだの距離はとても短い。密着している。しっかりと結びついている。
 一連目の「川のように」は「三途の川」ということばも思い出させる。あなたが「いない」のは彼岸へ行ってしまったからだ。川ということばは「岸」と結びついて、そういうことも連想させる。
 「いない」ということは、「いる」ということを「実感」することである。「いる」のは、いつでも「近く」である。そして、そのとき二人はいつも並んでいる。
 「川」「紙一重」「薄い膜」。現実と比喩が静かに交錯する。短いけれど、情がこもったことばが動いている。


円輪(えんりん)        青柳俊哉

大沼の岸辺を歩きながら
空からふる深い
枯葉をふみしめ
かれらの声と感覚につつまれている
きのう雪の結晶であったものを
きょうは緑の羽をつけたちいさい少年が
足もとの葉から葉をわたって
水のうえに無数の円をえがいている
わたしたちにきざまれる幸福なしるし
遠い水平線から一羽の鳥がこちらへむかってやってくる
少年とよく似た陰影をもつ鳥
鳥は岸辺をしばらく並走したかとおもうと
わたしのかげにかさなり
大沼をつつみこむ霊気の中にきえた 
引かれているのだ 
大気にうずまく無数の輪の中に
ふりつもる枯葉の声と感覚につつまれ
空と水をわたっているのだ

 詩のなかほどの「遠い水平線から一羽の鳥がこちらへむかってやってくる」という一行が印象的だ。「ふる」という動詞は「空からふる」とつかわれている。上から下への動きである。「ふみしめる」も垂直の動き。「かれら(枯葉)の声」「雪」も上からやってくる。そして、その上から下への動きに向き合うように「足もと(下)」から動いていくものがある。垂直に上へ向かうのではないが、鳥のように浮かび上がりながら動いていく。静かな上昇運動だ。
 そうした動きを切り開く、新しい動きを世界にもたらすようにして鳥が「遠い水平線」からやっている。それは「水平線」のように横に広がる動きである。
 この動きによって、垂直と水平が交錯し、世界がより立体的になる。
 「少年とよく似た陰影を持つ鳥」の「陰影」とは何か。受講生から疑問の声が出た。「わかりにくい」。しかし、こういうことは作者に「答え」をもとめてもおもしろくない。「陰影」とは何かは、自分の知っている「ことば」のなかへ引き返していきながら、そこからつかみとってこないといけない。
 池田の詩を読んだとき「川」は「三途の川」につながる、と書いた。「川」をつかってことばを動かすとき、「三途の川」ということばがあらわれる。さらに「川」から「岸」ということばが連想され、「彼岸/此岸」ということばも思い浮かぶ。そして、そう思ったとき、池田の「いない」というのは、相手が亡くなってしまって「いない」ということなのだと伝わってくる。「誤読」かもしれないが、そういう「つたわってくる何か」を感じること、自分で何かをくみ取るということが読むということなのだと思う。
 同じように「陰影」についてもことばを動かしてみる。「陰影」ということばを、どういうふうにつかうか。「他人が」ではなく、「自分は」どうつかうか。「もの」そのものに対しては「陰影」とことばを重ねるよりも「影」と単独でつかう。木の影、人の影。でも「陰影のある人だね」というときは、どうだろうか。「肉体」ではなく「こころ」とか「雰囲気」を思い浮かべる。「肉体」につながるものでも、たとえば「陰影のある声」とは言うかもしれない。「陰影のある表情」は言いそうで言わないかも。しかし、ひとの「表情(顔色の変化)」などは「陰影」と呼べそうである。何か「こころ」とか「気持ち」が動いているとき、「陰影」ということばをつかいそうである。
 そうであるなら「少年とよく似た陰影をもつ鳥」というのは「少年のこころ/気持ちと重なる鳥」ということになる。少年は、遠い水平線からやってくる一羽の鳥を「自分自身」と思ってみつめていることになる。
 「わたし」(わたしたち)は大沼の岸辺を歩いている。枯葉がふってくる。枯葉を踏む。音が聞こえる。そういう「現実」がある一方、歩きながら「現実」とは少し違うことも「夢想」する。「いま/ここ」にないものを思い描く。「いま/ここ」にある「しあわせ」と「いま/ここ」にない「しあわせ」。夢、理想。そういうものが、遠くから「鳥」のようにやってくる。それは「わたし」のなかの「少年」が生み出した何かだろう。
 「わたし」は「少年」であり、また「鳥」である。それは「並走」し、「重なる」。「かげにかさなる」とは「こころにかさなる」でもあるだろう。「こころ」が「かさなる」ことで「わたし/少年/鳥」は「ひとつ」になる。言い換えると、ことばを動かすことで自分が自分ではなくなってしまう。新しい自分に生まれ変わる。最後の三行は、そういう「生まれ変わったわたし」の姿である。「わたし」でも「少年」でも「鳥」でもなく、「空と水をわたる」何か、不思議な「感覚」(霊気)になって世界を動いていく。
 しかし、「霊気」ということばは、この詩にぴったりとは言えない。青柳は「霊気」と感じているのだろうけれど、あまりにも抽象的でつかみどころがない。あるいは、「意味」が強すぎて、「現実」としては見えてこないと言えばいいのかもしれない。
 池田の詩に戻ろう。最終行の「右 と 左」。こう書くとき「いる」「いない」は「右」か「左」か区別がつかない。つまり、どちらが池田で、どちらが「あなた」かわからない。わからなくもいい。区別がなくてもいい。「一体」(ひとつ)になっているから、そういうことは区別しないのである。「右 と 左」と書いたとき、池田は「あなた」を失った池田ではなく、もう一度「あなた」と一緒に生きている池田に生まれ変わっている。そういう「現実」が、そこにある。
 「現実」を表現するのは、「霊気」というような抽象的なことばでは弱すぎる。「説明」になってしまう。「霊気」ではなく「冷気」、あるいは「光」「色」というようなことばに書き換えるだけでも、詩の世界は「現実」としてあらわれてくると思う。「霊気」が「現実」を「意味」にしてしまっているように思う。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(29)

2020-02-16 13:56:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


箴言

なにかを疑うということは
泥沼の遠い道でゆき暮れることではないか

 という二行は、こう言い直される。

あるいは
大きな机の前でひどく思案に余ることではないか

 「言い直し」と書いたが似ているのか、「あるいは」ということばに導かれるように反対のこと(似ていないもの)が書かれているのか。
 いくつかの言い直しのなかで「遠い」と「ひどく」は「苦しさ」という共通項を持っている。客観的な「距離」が、肉体的な「実感」で言い直されていると思う。










*

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なぜ、皇室問題?

2020-02-16 09:04:00 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ、皇室問題?
             自民党憲法改正草案を読む/番外312(情報の読み方)

 2020年02月16日の読売新聞(西部版・14版)を見て(読む前に)、驚いてしまった。一面のトップ(見出し)は、

女性・女系天皇 議論せず/政府方針 皇位継承順位 維持/立皇嗣の礼後に確認

 二番手のニュースが「新型肺炎」。「和歌山 院内感染か」と報じている。
 日本中が「新型肺炎」を気にしているのに、なぜ「天皇問題」なのか。
 どうみても、ここには、安倍擁護の姿勢が見える。新型肺炎患者は急増している。そのひとつの理由に、医療機関が診察を拒否したという問題がある。発熱、咳の症状で医療機関へ行っても、「中国への渡航歴がない」「中国人との接触がない」と新型肺炎かどうか検査しない(検査対象外だと告げられる)ということが、すでにいろいろなところで語られている。検査しないことで、患者と認定しないという方法を、安倍政権は、これまでとってきた。検査に必要なものがそろわない、金がかかるなどを理由に。しかし、医療関係者からは、検査はすぐにできる。体制はすぐに整う、という声も出ている。ようするに、安倍は、新型肺炎問題を「隠蔽」したかっただけなのだ。検査をしないでほうっておけば、そのうちに患者数は減る、と考えていたのだろう。横浜のクルーズ船が、その典型である。即座に全員を検査して、安全な場所で発症しないかどうかを確認すればいいのに、船内に閉じこめておいた。そうすることで、日本国内の感染者数(見かけ)をおさえようとした。(クルーズ船内の感染者数は、日本国内の数にはカウントしない、というめちゃくちゃな「手法」さえ取り入れている。数えなければ、存在しないというわけではないのに、である。)その「クルーズ船」の状態が全国に広がっている。それを明るみに出したのが「屋形船」というのは、なんとも皮肉である。密閉ではなく、開放された船であっても、人の接触(しかも短期間)によって新型コロナウィルスによる感染は起きている。密閉されたクルーズ船内なら、感染拡大はもっと激しいだろう。感染者がいる、ということを「隠蔽」したのが間違いのはじまりだ。
 検査を実施すればするほど、感染者数は増えてくる。きっと月曜日には、患者数は急増するだろう。ただ数えてこなかっただけなのだ。数えさせることを拒否してきただけなのだ。死者が出たから、もう、そういう隠蔽工作はできなくなった。そのために安倍は大慌てしている。
 安倍以上に、国民は、もっと慌てている。困惑している。どうしていいか、わからないでいる。

 脱線したが。
 今回の「天皇問題」も、新型肝炎対策から目をそらすための「隠蔽工作(誘導作戦)」のひとつだろう。だいたい「政府方針」というのだから、正式発表でもなんでもない。きょうニュースにする必要はない。そんなことを、わざわざ一面のトップで報道する必要はない。いまの天皇は即位したばかり。後継者に不安があるわけではない。秋篠、悠仁と、天皇がつづいていくこと、天皇制が「維持」されていくことに対する疑問(心配)が表面化しているわけではない。
 傑作なのは、つぎの部分だ。

性別に関わらず天皇の直系子孫を優先した場合、皇室継承順位は①愛子さま②秋篠宮さま③真子さま④佳子さま⑤悠仁さま⑥常陸宮さま--の順になる。秋篠宮さまの皇嗣としての地位見直しにつながるだけでなく、悠仁さまが天皇につけない可能性も出てくる。そうなれば、「皇室の安定性を損ないかねない」(政府関係者)と判断した。

 「皇室の安定性」とは、何か。悠仁が天皇になることが「皇室の安定性」か。それは「皇室の安定性」ではなく「男系天皇制の維持」にすぎない。言い換えると、何としても「男尊女卑」をつらぬきたい、悠仁を天皇にしたいということにすぎない。
 で、「悠仁を天皇にしたい」ということについてなら、これは、平成の天皇の「強制生前退位」の時からもくろまれていたことである。悠仁天皇を誕生させ、その誕生を推進した人間として権力をふるいつづけることをもくろんでいる人間がいる。もちろん、安倍のことである。悠仁天皇を誕生させ、あやつることで、絶対権力を手に入れようとするもくろみである。
 「政府関係者」という「新聞用語」は安倍を指すものではないと考えるのが一般的だろうが、安倍以外のだれが、いま、この時期に「皇室の安定性」を語る必要があるだろう。みんな天皇制(皇室)のことなんか、気にしていない。自分が病気になったらどうしようしか考えない。桜を見る会も、森友も加計も、IR汚職も、もろもろの「隠蔽工作」も関係ない。自分の命が心配。そして、国のトップが一番心配しなければならないのは、国民の命だろう。
 国民の命ということを考えるならば。
 なぜ、いままで、新型肺炎問題を放置してきたのだ。なぜ、検査体制の確立を急がなかったのか。責任者はだれだ。安倍に決まっている。そういう方向へ、国民の目が向かうのをそらすための記事としか思えない。

 ほんとうに聞きたい。
 だれが、天皇制(皇位継承順位)を、いま、気にしているだろうか。天皇だって、そんなことを考えてはいないだろう。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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川越宗一『熱源』

2020-02-16 00:03:42 | その他(音楽、小説etc)


川越宗一『熱源』(文藝春秋社、2019年08月30日発行、2020年01月25日第5刷)

 川越宗一『熱源』は第百六十二回直木賞受賞作。芥川賞の古川真人「背高泡立草」にがっかりしたので、こちらはどうかと読んでみた。新聞などで読んだ「選評」は好意的だったし、少数民族 (マイノリティー) と「ことば」を題材にしていることにも引きつけられた。テーマが「現代的」である。
 しかし読み進むうちに、テーマの「現代性」よりも、いま、「文学」はすべて「村上春樹化」しているのかという印象だけが強くなってくるのだった。読みやすいが、その読みやすさゆえに、なんだかがっかりしてしまう。「現代性」(現実)って、こんなにわかりやすくっていいのか。(現実といっても「舞台」は2020年ではないが。)
 古川真人「背高泡立草」の文体が「昭和の文体」なら、川越は「村上春樹以降の文体」とでも言えばいいのだろうか。

  240ページ、小説のなかほどに、こういう文章がある。唇の周囲に入れ墨を入れた妻(チュフサンマ)に対して、夫のブロニスワフが驚く。妻はアイヌの習慣に従ったのだ。その習慣を夫は好きになれない。しかし、こう思う。

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「自分がだれであるかを、自分自身で決定する」というのが、この小説のテーマであり、「自分がだれであるかを決定する」もののひとつが「ことば」である。妻は、「ことば」ではなく「肉体」そのもので「自分がだれであるかを決定した」という点では、同じテーマを支えていることになる。伏線というと少し違うが、「本流」を決定づける「支流」のひとつといえる。
 こういう「わかりやすい支流」がつぎつぎにあらわれて、作品全体を「本流」へむけて動かしていく。小説には複数の登場人物があらわれ、そのひとりひとりの動きが「支流」のように集まってくる。「本流」が見えたとき、では、それは「だれの流れ」なのかということが、実は特定できない。それは自然の川の流れと同じである。どの「支流」が欠けても「本流」の形は変わってしまう。
 そういう点から見ると、文句のつけようがない。「完璧」に構成された作品である。

 それはそれで、よくわかるのだが。私には、とても物足りない。
 
自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 ここに書かれている「何よりも」とは「何」? それがわからない。「何」は特定できないと言われればそうなのだろうが、その「ことば」にならない「何」をことばにしないかぎり「文学」とは言えないのではないだろうか。
 その前の部部から引用し直そう。

「入墨、入れたのか」
「わたしは、アイヌだから」
 チュフサンマの言葉は言い訳ではなく、決意に思えた。
「やっぱり、嫌?」
「いや」と答えた震えているのは、自分でもわかった。
「きれいだ。きみは、美しい」
 正直なところは、好きになれない。嫌悪はまったくないが、慣れない料理のような感覚がある。だが、自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「好きになれない」「慣れない料理のような感覚」であるけれど、それを否定していくだけの「美しさ」がある。「決意」の美しさである。そういう「意味」はわかるが、それはあくまでも「意味」である。「頭」で理解する「美しさ」である。
 ひとが「何よりも」というときは、もっと「生理的」なのものであると、私は思う。「頭」ではなく「肉体」の反応だと思う。その、「肉体」の反応が欠けていると思う。
 「慣れていない料理」ということばがあるが、「慣れていない」けれど、口にした瞬間に吐き出したいと思ったけれど、吐き出せない。舌にひろがり、のどに流れ込んだ何かが意識を裏切るように「料理」をむさぼる。そういう感覚があるとき、それを「おいしい(美しい)」と言うのだと思う。自分の信じていたものが叩き壊され、自分が自分でなくなってしまう。そういうときが「何よりも」というときではないのか。
 別なことばでいうと「敗北感」がない。あ、私は妻に負けてしまったというような敗北感(妻は自分が自分であるということを決定することができるのに、自分はできない。自分にできないことを妻がやってしまったという敗北感)が具体的に書かれないかぎり「何より」という「感覚」は生まれない。そういうものを書かずに「何より」ということばで処理してしまっている。そこが、つまらない。

 たいへんな情報量があり、それがとても巧みに処理されている。それは理解できるが、どこまで読んでも「わくわく」しない。登場人物の「肉体」に出会った感じがしない。ストーリーを読んでいるという気持ちにしかなれない。手応えがない。つまずかない。ことばが「ストーリー」に従事しすぎている。
 私は欲張りな読者なのかもしれないが、この登場人物はどうしてこんなことを考え、こんな行動をするのか、わからない。わからないけれど、あ、それをやってみたいと思うことを読みたい。「わからない」が噴出して来ない文章はおもしろくない。
 こう書くと「何より」がわからないと書いているじゃないかと言われるかもしれないが、川越の書いている「何より」は「存在しない何より」である。つまり、

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、美しいと思った。

 に過ぎないのに、それをむりやり強調して、価値のあるもののようにみせかけている。いま書き直したように「何より」がなくても「意味」が通じる文章なのだ。言い換えると「何より」は「頭」でつくりだした「強調」であって、具体的な「何か」(言葉にならない何か)ではないということだ。
 これでは文学ではない。巧みな「粗筋(ストーリー)」なのだ。下書きなのだ。この下書きを破壊して噴出する「だれも書かなかった肉体としてのことば(詩)」が暴れ回るとき、それは文学が生まれるのだ。



(補足)
 なぜ「自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。」の一行にこだわるか。それは、「自分がだれであるかを決定する」というのが、この作品のテーマであるからだ。「自分のことば」「自分の文化」を自分で選び取る。引き継ぐ。そういう一番大事なことを象徴的に語る部分に「何より」という「強調の慣用句」が無意識につかわれている。この小説が非常に読みやすいのは「文体」が鍛えられているというよりも、「文体」が「慣用句」によって推進力を得ているからである。
 「慣用句」が悪いというわけではないが、文学の「文体」は、読者をつまずかせるものでないといけない。立ち止まり、考える。考えることで登場人物と一体になることが文学の醍醐味なのだ。あるいは逆に、登場人物の「ことば」のスピードにひっぱられて予想外のところまではみだしてしまう。予想外の所へ行ってしまう、という一体感が文学なのだ。つまり、完全な「孤」になる一瞬にこそ、文学がある。
 その完全な「弧」を、しかもテーマに重なる大事な部分の「孤」を、「慣用句」で処理してしまっては「味気ない」としか言えない。












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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(28)

2020-02-15 10:52:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
生きるということ

 生きるということは「一回かぎり」と書いたあとで、こんなふうに行を展開する。

ぼくは素直に生きようと思う
空気の教え 水の諭し 光りの導きによって

 「光り」が登場するから明るい印象がある。しかし、そのすぐあとに

ああ 人間は自己の影を越えて先きへ進むことはできない

 という一行がある。「光り」と「影」が交錯する。「生きる」ということは、相反するものの交錯を生きることか。
 晩年の作品だが、矛盾のなかに青春を感じる。









*

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「新型肺炎」の情報(その2)

2020-02-15 08:16:07 | 自民党憲法改正草案を読む


 2020年02月15日の読売新聞(西部版・14版)一面。「国内感染拡大/新型肺炎 1月から発生か/政府、上昇か防止に重点」という見出し。その記事のなかで、菅官房長官はこう言っている。

「現時点において、『流行している』と判断するに足る疫学的情報が集まっているわけではない」

 これは逆に読むべきである。政府が「疫学的情報を集めようとしなかった」、あるいは「疫学的情報を過小評価している」。つまり「情報捜査(ごまかし)」をしている。
 きのう私は神奈川の死亡女性と都内の感染者(タクシー運転手)が「親族」であるという「情報(見出し)」はミスリードにつながるのではないか、和歌山の感染医師が「外科医」であることを隠した「情報(見出し)」はミスリードにつながるのではないか、と指摘した。感染ルートは「親族」、あるいは「医師と患者」という密接な関係以外にあるのではないかと指摘した。
 そしてきょうの一面を読むと、その疑いがさらに濃厚になる。「6都道県 新たに7人」という3段見出しにつづく記事のひとつに、横浜の救急隊員の記事がある。「(クルーズ)船の感染者搬送」という見出しがついている。しかし、本文にはこう書いてある。

男性は横浜市消防局の救急隊員で、10日午後3時から約40分間、(略)感染者を病院に搬送する仕事をしていた。搬送時はゴーグルとマスクを着用していたという。10日夜に発熱し、14日に医療機関を受診。検査で陽性と判明した。/同省(厚生労働省)は「発熱までの時間が短いので、搬送時に感染したとは考えにくい」としている。

 このニュースも重要な部分は「船の感染者を搬送した横浜の救急隊員が感染した」ではない。見出しにはとられていない後半の部分が重要だ。「搬送時に感染したとは考えにくい」、つまり、それ以前に、他のルートで感染していた可能性が高い。
 一方、読売新聞の記事は、都内のタクシー運転手は「都内の屋形船」での新年会で感染した可能性について報じている。そして、タクシー組合の従業員と、新年会会場の屋形船の従業員も感染していることが判明した。屋形船では

新年会の数日前に中国・武漢市からの旅行者を接客したという

 とも書かれている。ざっくりと読むと、①屋形船での「中国・武漢市からの旅行者」から②屋形船の従業員に感染し、さらに③タクシー運転手に感染後、④タクシー組合の従業員という「ルート」が浮かび上がるが、ほんとうにこれで正しいのか。
 武漢市の旅行者が屋形船を利用したのは新年会が開かれる「数日前」。なぜ「数日」とあいまいなのかわからないが、「数日前」に接している従業員の発症(発熱)は読売新聞の3面のチャート図によれば「新年会(18日)」の3日後の「21日」であり、タクシー運転手の発症(発熱)は「29日」である。屋形船の従業員の発熱が「新年会前」ならば①「武漢市の旅行者」②従業員③タクシー運転手という「径路」は想定されうるが、従業員の発熱が新年会後なら、別のルートがあるかもしれない。ここには、もしかすると「武漢市の旅行者」が感染源という「先入観」が働いているかもしれない。これも、危険だ。差別につながると同時に、事実を見落としてしまう可能性もある。ふたりはまったく別のルートで感染したが、たまたま「屋形船」という共通点が見つかったというだけなのかもしれない。これは死亡した女性とタクシー運転手がたまたま「親族」だったという関係に似ている。

 さらに社会面の記事を読むと、別の疑問点も浮かぶ。読売新聞の記事は「屋形船」をキーワード(感染のポイント)にしているのだけれど。
 タクシーの運転手は妻と一緒に新年会に出席していた。そして「運転手の妻は新年会に出席したあと、義母と日帰りで外出していた可能性があるという。」この「可能性」というのは何なのだ。妻から聴けば「可能性」か「事実」かわかるはずなのに、なぜ「あいまい」なのか。
 もし一緒に外出していたとして、その場合、妻は「ウィルス」は持っているけれど発症しなくて、「ウィルス」の橋渡しをしたことになるのか。さらに運転手と義母の症状の変化を見ると、
 18日新年会 22日義母、倦怠感 2月1日肺炎 13日死亡
 18日新年会 29日運転手、発熱 2月3日肺炎
 と大きな違いがある。これは「体力差」によるものなのか。さらに引き返して、妻に症状が出ないのも「体力差」なのか。妻は「感染者」だけれど、発症しないのか。そういう人が他人に与える影響力というものは、どの程度なのか。
 もし、症状が出ないまま、別の人にウィルスだけを引き渡しという人がいるなら、これはとても深刻だ。「警戒」のしようがない。「熱があるから外出するのを控えよう」ということも起きないし、「咳をしていない、熱もなさそうだから、一緒にいても大丈夫」ということにもならない。「体調が悪いなら、休んだら?」と助言することもできない。

 いずれにしろ、「屋形船」とは関係なさそうな人にまで感染が拡大しているのだから、(屋形船の関係者が多数発症しているわけではないのだから)、「①武漢市の観光客②屋形船③タクシー運転手」とルートを限定するのは、あまりにも危険な気がする。多くのことを見落とすことにつながるのではないか。
 菅が言った表現を借りれば、

「流行している」と判断するに足るほど「感染ルート」が多いわけではない。

 とは言えないことになる。そしてそれは「感染ルート」がわからない。「感染ルート」を追跡する態勢が整っていないということを意味するだけだ。感染ルートが少ないわけではない。限定されているわけではない。全国各地、どこででも発生するのだ。

 するべき仕事をしていない、集めるべき情報を集め、分析していない。それを棚に上げて「流行していない」と言うのは、あまりにも危険だ。あまりにも無責任だ。
 もう「感染ルート」を特定に目を向ける段階ではなく、感染ルートは無数にあるということを前提に、どうすれば拡大を防げるか、それを考えるときなのではないか。

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