『誤解』(1978年)の巻頭は「毎朝 数千の天使を殺してから」という詩である。
この書き出しはとても気持ちがいい。田村の感動がそのままリズムになっている。田村は、矛盾が好きである。破壊が好きである。「天使を殺す」ということばのなかにある常識とは逆のベクトルに田村が反応したのはよくわかる。田村でなくても、誰でも、そのことばに反応するだろう。
異質なものの出会いが詩である--という定義に従えば、この1行は、独立して、完璧に詩である。他に余分なことばはいらない。田村が少年の書いたほかの「詩の言葉は忘れてしまつたが」と書いているが、これは逆説である。ほかのことばは必要ないからおぼえなかっただけなのだろう。
田村の感動が強烈だったことは、
という2行に強烈にあらわれている。「さわやかな」ということばは「題」を修飾することばだが、その「題」には直接かからず、「おぼえている」という動詞により近づいた形で、「おぼえている」という行に含まれている。
田村は「題」をおぼえているというよりも、「さわやかさ(な)」をはっきり記憶しているのである。田村は「題」と向き合っているのではない。「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合っている。さらに言えば「意味」と向き合っているのではない。感覚と向き合っているのである。「意味」--ことばで伝えられる情報ではなく、ことばを拒絶して輝く新鮮な力としての感覚と向き合っているのである。
ことばは、詩は、「意味」を伝える(流通させる)道具ではない。ことばは、ことばになる前の感覚をあらわすための方法なのだ。「未分化」なものを「分化」して、切り取る運動なのである。
先の引用につづく部分は、次の行である。
「新聞」--その「流通言語」は、「人間の悲惨も/世界の破滅的要素も/月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない」。月並み--は、「さわやかな」と対極にある状態のものをさしている。そういう「流通言語」は信用できない。「意味」は信用できない、と田村は、別の表現で表明していることになる。
このあと、田村は、想像のなかで少年と対話する。少年の詩の「題」の「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合い、ことばをさがす。少年のさわやかさと向き合える田村自身のことばを。
最終連。少年に田村は、語らせている。田村自身の「意味」ではない、「意味」と対極にあることばを。
「馬」は「意味」ではない。つまり象徴でも比喩でもない。「天使」のように、少年の肉眼に見えるもの、生きているなまなましい馬である。少年には、そこに書いてある通りのことが見える。見てしまう。「意味」ではなく、「意味」を拒絶した情景そのものが見えるのだ。
その馬が死に、白骨になる、土になる。
そのあと。
仕事をしに行くのではない。なにか、世界のために役立つことをするために行くのではない。「遊びに行く」。
「意味」が「未来」だとすると、「遊び」は「自由」である。少年が求めているのは、「自由」だけである。
「毎朝 数千の天使を殺してから」。そのことばが「さわやか」なのは、それが「自由」を切り取っているからである。数千の天使を殺した後、世界がどうなるかという「未来」は考慮されていない。「天使」のように、何か、人間に対して「意味」を持っているものをただ拒絶する。そのとき、「自由」があらわれる。剥き出しになる。だれも「未来」を保証しない。そのことの「自由」。
「性的興奮」のように、まったく無意味(「未来」にとって、という意味だが……)、ただ、いまが輝くだけ、「いま」という時間からさえも逸脱していく力。「自由」。
「遊び」のなかに、人間の力がある。
何度か、田村の矛盾は(対立は)、止揚→発展ではなく、破壊、解放というようなことを書いたが、それは「遊び」のなかにある「自由」に通じるものである。「意味」から遥かに遠く、解放された力--どんな「未来」(発展)をも目指さないエネルギー。それを田村は、ことばでつかみ取ろうとしている。
「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまつたが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか
この書き出しはとても気持ちがいい。田村の感動がそのままリズムになっている。田村は、矛盾が好きである。破壊が好きである。「天使を殺す」ということばのなかにある常識とは逆のベクトルに田村が反応したのはよくわかる。田村でなくても、誰でも、そのことばに反応するだろう。
異質なものの出会いが詩である--という定義に従えば、この1行は、独立して、完璧に詩である。他に余分なことばはいらない。田村が少年の書いたほかの「詩の言葉は忘れてしまつたが」と書いているが、これは逆説である。ほかのことばは必要ないからおぼえなかっただけなのだろう。
田村の感動が強烈だったことは、
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか
という2行に強烈にあらわれている。「さわやかな」ということばは「題」を修飾することばだが、その「題」には直接かからず、「おぼえている」という動詞により近づいた形で、「おぼえている」という行に含まれている。
田村は「題」をおぼえているというよりも、「さわやかさ(な)」をはっきり記憶しているのである。田村は「題」と向き合っているのではない。「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合っている。さらに言えば「意味」と向き合っているのではない。感覚と向き合っているのである。「意味」--ことばで伝えられる情報ではなく、ことばを拒絶して輝く新鮮な力としての感覚と向き合っているのである。
ことばは、詩は、「意味」を伝える(流通させる)道具ではない。ことばは、ことばになる前の感覚をあらわすための方法なのだ。「未分化」なものを「分化」して、切り取る運動なのである。
先の引用につづく部分は、次の行である。
おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
おれが信用しているのは
株式欄だけだ
総資本のメカニズムと投機的思惑だけが支配する
空白の一頁
「新聞」--その「流通言語」は、「人間の悲惨も/世界の破滅的要素も/月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない」。月並み--は、「さわやかな」と対極にある状態のものをさしている。そういう「流通言語」は信用できない。「意味」は信用できない、と田村は、別の表現で表明していることになる。
このあと、田村は、想像のなかで少年と対話する。少年の詩の「題」の「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合い、ことばをさがす。少年のさわやかさと向き合える田村自身のことばを。
最終連。少年に田村は、語らせている。田村自身の「意味」ではない、「意味」と対極にあることばを。
ぼくがいちばん性的に興奮する場面を知つていますか?
いつのまにか大きな橋が消えると
黒い馬が一頭あらわれる
だれも乗つていない
馬だけが光りの世界を横切つて
陰の世界の方へゆつくりと歩いて行く
力がつきて
黒い馬は倒れる 獣の
涙をながしながら腐敗もしないで
そのまま骨になつて
純白の骨になつて
土になる
すると
夜が明けるんです
ぼくは遊びに行かなくちや
数千の天使を殺し
数千の天使を殺してから
「馬」は「意味」ではない。つまり象徴でも比喩でもない。「天使」のように、少年の肉眼に見えるもの、生きているなまなましい馬である。少年には、そこに書いてある通りのことが見える。見てしまう。「意味」ではなく、「意味」を拒絶した情景そのものが見えるのだ。
その馬が死に、白骨になる、土になる。
そのあと。
ぼくは遊びに行かなくちや
仕事をしに行くのではない。なにか、世界のために役立つことをするために行くのではない。「遊びに行く」。
「意味」が「未来」だとすると、「遊び」は「自由」である。少年が求めているのは、「自由」だけである。
「毎朝 数千の天使を殺してから」。そのことばが「さわやか」なのは、それが「自由」を切り取っているからである。数千の天使を殺した後、世界がどうなるかという「未来」は考慮されていない。「天使」のように、何か、人間に対して「意味」を持っているものをただ拒絶する。そのとき、「自由」があらわれる。剥き出しになる。だれも「未来」を保証しない。そのことの「自由」。
「性的興奮」のように、まったく無意味(「未来」にとって、という意味だが……)、ただ、いまが輝くだけ、「いま」という時間からさえも逸脱していく力。「自由」。
「遊び」のなかに、人間の力がある。
何度か、田村の矛盾は(対立は)、止揚→発展ではなく、破壊、解放というようなことを書いたが、それは「遊び」のなかにある「自由」に通じるものである。「意味」から遥かに遠く、解放された力--どんな「未来」(発展)をも目指さないエネルギー。それを田村は、ことばでつかみ取ろうとしている。
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