「慰安婦」問題(情報との向き合い方)
自民党憲法改正草案を読む/番外284(情報の読み方)
いま、「韓嫌派」のひとたちにもてはやされている動画ある。韓国の学者・イ・ウヨンが「慰安婦像はそれ自体が歴史歪曲」と語る動画である。そのなかで、イは、「慰安婦は性奴隷ではなかった。売春業が存在していた朝鮮であえて強制連行する必要がない。希望すれば朝鮮に帰れた。高額の賃金が与えられていた。奴隷とは呼べない」という具合に語っている。
私が問いたいのは、「高額な賃金が与えられれば性奴隷とは呼べない」という「認識」が人間の尊厳について語るときふさわしいものかどうかである。
女性を性の対象としか見ない、性の対象としてのみ取り扱う。これは人権侵害である。金を払えば人権侵害がなくなるかといえば、そうではないだろう。金を払うからこそ人権侵害であるという論理も成り立つ。人間の尊厳を金に換算しているのだから。
いまの人権感覚ではなく、「売春業が存在していた」当時の朝鮮の「認識」から見るべきだとイは言うかもしれないが、「当時」女性の人権に対する認識が不十分だったからそれでいいとはいえない。「いま」から見て間違っているのなら、それは間違っている。言うとするなら、「当時は間違った認識しか持てなかったので、女性たちは売春業を受け入れてしまった」ということだろう。そして、それが間違っていると気づいたからこそ、「慰安婦」たちは告発する。
どんな告発でも、「間違い」に気づいたときが出発点だ。気づいたからこそ、「過去」に遡って告発するのであって、それを「過去の時点」では「間違いではなかった」というのは反論にならない。
「慰安婦」は極限状況(戦争)のなかで起きたが、戦争のない「現代」の社会を見ても、告発は気づいた段階でおこなわれることは、だれにでもわかるはずだ。たとえばトランプは過去にセクハラをした。アメリカの女優たちはプロデューサーからセクハラをされた。最近はプラシド・ドミンゴもセクハラで訴えられている。「過去」に遡って訴えられている。「過去」にならないと(時間が経たないと)、訴えられないこともあるのだ。被害者自身がどう自分の傷を癒すか(立ち直れるか)という問題もあるし、訴えが社会に共有されるかどうかという問題もある。
人間には、つねに「いま」しかない。「いま」を生きるだけである。つまり、それは単に「過去」を告発しているのではなく、「いま」をも告発している。性被害を受けた女性と社会はどう向き合うべきなのか、それを問いかけている。
「売春業が存在していた朝鮮」「賃金が与えられた」というような「過去」を持ち出してきて、人権侵害を「正当化」してはいけない。
という問題のほかに、もうひとつ奇妙な問題が残る。
「韓嫌派」のひとたちは、ことあるごとに韓国人を否定する。日本に特別永住権を持っている人たちをも攻撃する。論理的というよりは、「生理的」に排除する。
その一方で、イのような韓国人の発言を正しいものとして絶賛する。
それまでの「韓嫌」はどこへ消えた? と思ってしまう。あなたの脳は、いまイという韓国人になっているのだけれど、それで平気?
そんなことに、たぶん気づいていない。イの発言をシェアしている人は。
人間の脳は「自己中心主義」である。自分に都合のいいことだけ、選択して受け入れる。イの主張は「慰安婦は存在しない」という「韓嫌派」のひとにとって都合がいいから、それを受け入れ、その瞬間にはイが韓国人である不都合な事実を忘れてしまうのだ。
これは、とくに「韓嫌派」の人にかぎられた特徴ではないだろうと思う。多くの人が、自分が共感できた意見だけを選んで「シェア」する。あたかも自分で考えた意見であるかのように。シェアすれば、自分がその意見を考え出した人間であると思うのかもしれない。脳は自己中心主義だから、そう思うことには抵抗を感じない。
「コピー&ペースト」の時代にあって、「意見」というものを振り返ってみる必要があると思う。いたるところに意見があり、「コピー&ペースト」(シェア)した瞬間、それは自分と一体化したように見える。でも、それでいいのか。
シェアはシェアで「共有」という新しい感覚を呼び覚ますが、「共有」に頼るのではなく、自分の「ことば」を動かすことが大事ではないだろうか。「共有感覚」は、本来拡散していくはずのものなのに、ネットでおこなわれている「共有」は、同じ意見のもの同士が「とじこもる」ための砦になっている気がする。
もし「共有」が「連帯」につながるのだとしたら。
韓嫌派の人たちは韓国を排除しようとしながら、イという韓国人と連帯している。そのとき韓嫌派の人は、ほんとうに韓嫌派? 韓嫌派の人たちは韓嫌派のままであり、イは韓国人でありながら韓嫌派ということになるのか。でも、イが「韓嫌派」であることを、どうやって確かめるだろうか。
ややこしいでしょ?
結局、「人」ではなく、「ある運動(ことば)」とだけ、ひとは「連帯」する。「思想」と「連帯」する。
だとしたら、連帯するべき人を「人種」とか「国籍」で選別してはいけないのだ。「思想」とのみ「連帯」すべきなのだ。
女性を性の対象としてのみ取り扱うことは、人間として正しいのか。間違っているのか。「慰安婦」が突きつけてくる問題は、それだけである。「慰安婦」が存在していいたのが「過去」であるかどうかではない。いまでも女性を性の対象としてした認めない風潮がある。「人権」というのは、いつでも「いま」の問題である。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
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自民党憲法改正草案を読む/番外284(情報の読み方)
いま、「韓嫌派」のひとたちにもてはやされている動画ある。韓国の学者・イ・ウヨンが「慰安婦像はそれ自体が歴史歪曲」と語る動画である。そのなかで、イは、「慰安婦は性奴隷ではなかった。売春業が存在していた朝鮮であえて強制連行する必要がない。希望すれば朝鮮に帰れた。高額の賃金が与えられていた。奴隷とは呼べない」という具合に語っている。
私が問いたいのは、「高額な賃金が与えられれば性奴隷とは呼べない」という「認識」が人間の尊厳について語るときふさわしいものかどうかである。
女性を性の対象としか見ない、性の対象としてのみ取り扱う。これは人権侵害である。金を払えば人権侵害がなくなるかといえば、そうではないだろう。金を払うからこそ人権侵害であるという論理も成り立つ。人間の尊厳を金に換算しているのだから。
いまの人権感覚ではなく、「売春業が存在していた」当時の朝鮮の「認識」から見るべきだとイは言うかもしれないが、「当時」女性の人権に対する認識が不十分だったからそれでいいとはいえない。「いま」から見て間違っているのなら、それは間違っている。言うとするなら、「当時は間違った認識しか持てなかったので、女性たちは売春業を受け入れてしまった」ということだろう。そして、それが間違っていると気づいたからこそ、「慰安婦」たちは告発する。
どんな告発でも、「間違い」に気づいたときが出発点だ。気づいたからこそ、「過去」に遡って告発するのであって、それを「過去の時点」では「間違いではなかった」というのは反論にならない。
「慰安婦」は極限状況(戦争)のなかで起きたが、戦争のない「現代」の社会を見ても、告発は気づいた段階でおこなわれることは、だれにでもわかるはずだ。たとえばトランプは過去にセクハラをした。アメリカの女優たちはプロデューサーからセクハラをされた。最近はプラシド・ドミンゴもセクハラで訴えられている。「過去」に遡って訴えられている。「過去」にならないと(時間が経たないと)、訴えられないこともあるのだ。被害者自身がどう自分の傷を癒すか(立ち直れるか)という問題もあるし、訴えが社会に共有されるかどうかという問題もある。
人間には、つねに「いま」しかない。「いま」を生きるだけである。つまり、それは単に「過去」を告発しているのではなく、「いま」をも告発している。性被害を受けた女性と社会はどう向き合うべきなのか、それを問いかけている。
「売春業が存在していた朝鮮」「賃金が与えられた」というような「過去」を持ち出してきて、人権侵害を「正当化」してはいけない。
という問題のほかに、もうひとつ奇妙な問題が残る。
「韓嫌派」のひとたちは、ことあるごとに韓国人を否定する。日本に特別永住権を持っている人たちをも攻撃する。論理的というよりは、「生理的」に排除する。
その一方で、イのような韓国人の発言を正しいものとして絶賛する。
それまでの「韓嫌」はどこへ消えた? と思ってしまう。あなたの脳は、いまイという韓国人になっているのだけれど、それで平気?
そんなことに、たぶん気づいていない。イの発言をシェアしている人は。
人間の脳は「自己中心主義」である。自分に都合のいいことだけ、選択して受け入れる。イの主張は「慰安婦は存在しない」という「韓嫌派」のひとにとって都合がいいから、それを受け入れ、その瞬間にはイが韓国人である不都合な事実を忘れてしまうのだ。
これは、とくに「韓嫌派」の人にかぎられた特徴ではないだろうと思う。多くの人が、自分が共感できた意見だけを選んで「シェア」する。あたかも自分で考えた意見であるかのように。シェアすれば、自分がその意見を考え出した人間であると思うのかもしれない。脳は自己中心主義だから、そう思うことには抵抗を感じない。
「コピー&ペースト」の時代にあって、「意見」というものを振り返ってみる必要があると思う。いたるところに意見があり、「コピー&ペースト」(シェア)した瞬間、それは自分と一体化したように見える。でも、それでいいのか。
シェアはシェアで「共有」という新しい感覚を呼び覚ますが、「共有」に頼るのではなく、自分の「ことば」を動かすことが大事ではないだろうか。「共有感覚」は、本来拡散していくはずのものなのに、ネットでおこなわれている「共有」は、同じ意見のもの同士が「とじこもる」ための砦になっている気がする。
もし「共有」が「連帯」につながるのだとしたら。
韓嫌派の人たちは韓国を排除しようとしながら、イという韓国人と連帯している。そのとき韓嫌派の人は、ほんとうに韓嫌派? 韓嫌派の人たちは韓嫌派のままであり、イは韓国人でありながら韓嫌派ということになるのか。でも、イが「韓嫌派」であることを、どうやって確かめるだろうか。
ややこしいでしょ?
結局、「人」ではなく、「ある運動(ことば)」とだけ、ひとは「連帯」する。「思想」と「連帯」する。
だとしたら、連帯するべき人を「人種」とか「国籍」で選別してはいけないのだ。「思想」とのみ「連帯」すべきなのだ。
女性を性の対象としてのみ取り扱うことは、人間として正しいのか。間違っているのか。「慰安婦」が突きつけてくる問題は、それだけである。「慰安婦」が存在していいたのが「過去」であるかどうかではない。いまでも女性を性の対象としてした認めない風潮がある。「人権」というのは、いつでも「いま」の問題である。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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