西脇の詩のおもしろさに、ふいに飛びこんでくる口語の響きがある。「ジュピーテル」の、釣りをする部分。カマスを狙っているのだが……。
淡紅色のみみずを入れておく桃の
ブリキのカンはヴィーナスにみえた
時々風草をつんで風の方向をさぐる
「なんだまた鮒の野郎か」
「なんだまた鮒か」ではなく「鮒の野郎か」。その「野郎」のなかに、ふいに連れの男の過去が噴出してくる。それはみみずを「淡紅色」と描写したり、わざわざ空き缶を「桃の/ブリキのカン」と描写する感覚とは違っている。そのために、ことばが乱入してきたという印象がある。そして、その乱入によって、ことばの動きがいきいきとする。ことばは、ことばに出会うために存在している、そのために動いているということがわかって楽しくなる。
最後の数行。
こんどもこのギリシャ人をさそって
またソバ屋でお礼の木杯を巧みに
あげようと思つて夕暮に
天使のまねをして翼をつけて
訪ねてみた
「端午の節句でヒロセという村へ
行かれました」
「それはどうも」
男は留守だった。応対した女(たぶん)は、「(夫は)ヒロセという村へ/いかれました」と「敬語」をまじえてしゃべっている。その敬語につられて「それはどうも」と、なんともあいまいな反応をする西脇(たぶん)。
このリズムと、前にでてきた「鮒の野郎か」の違い。落差。
ことばは、それぞれ「過去」をもっている。そして、その「過去」は、「口語」でこそ、くっきりと出てくる。ヴィーナスやギリシャにも「過去」というものがあるが、そういう「土地」を離れたことばではなく、その「土地」に生きている人間の「過去」。「肉体」というものが、ふいにことばのなかに乱入してきて、「文語」を破壊する。
その瞬間に、私はおもしろみを感じる。
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