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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(180 )

2011-02-08 12:21:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。次の部分にも「意味」と「音楽」が同居する。

竹藪になげこまれた石のふためき
鍬にあたる隕石のさけび
旅人の帽子に残るやぶじらみ
パウンドののどだんごの動き
土のついた
タビラコの
にがい根を
かじりながら
逃走する

これらは何も象徴しない
象徴しないものほど
人間を惹きつける
生きていることは
よくきこえないものを聴くことだ
よくみえないものを見ることだ
よくたべられないものを食うことだ

 異質なものの出会い。それらは「何も象徴しない」のではなく、何かを象徴しようとしているが、その象徴をあらわすことばにならない。ことばはまだそこまできていないということだろう。
 象徴は「意味」ということでもある。「もの」と「意味」。その二元論に対して、西脇は「二元論」以前が人間を「惹きつける」というのである。それは「意味」の否定であり、「意味」の破壊である。そして、「音楽」の誕生に耳をすますことである。

生きていることは
よくきこえないものを聴くことだ

 このあと「みる」(見る)「たべる」(食う)とつづくのだが、まず「聴く」から始めるのが西脇である。
 「よくきこえない」(みえない、たべられない)のはなぜか。なにが「きこえない」という状態をつくりだしているのか。「よく」があるところから判断すると、少しはきこえ、みえ、またたべられる。けれど「よく」それができない。
 この「よく」を判断するのは「意識」であろう。「意味」をつくりだす運動であろう。そういうものが邪魔をする。その結果、「よく」きこえない、みえない、たべられない、という状態になる。
 「よし・あし」の判断を捨てて、「肉体」にもどる。そのとき何も象徴しない「もの」に出会う。「肉耳」「肉眼」「肉口(舌?歯?)に人間がもどるとき、世界がはじまる、というのかもしれない。




西脇順三郎全集〈第10巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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