詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)

2018-02-11 09:42:11 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)(創元社、2018年02月10日発行)

 「物音」の、最後の二行。

どんな音もおろそかにしない
世界の静けさを信じきって

 きのうの感想で書き落としたことがある。
 「物音」は「明け方」に聞いた「物音」について書いている。「耳(聴覚)」からはじまり、触覚、視覚、嗅覚と感覚を動かしながら「音」に迫っている。「音」を描写している。
 それが最後で「音」とは違うものに触れる。「音」では「ない」ものを「静けさ」と名づけ、「静けさ」という「ことば」にしている。この「静けさ」とは何だろうか。それはすべてを受け入れる「空(虚空)」のようなものではないか、と思った。
 「空」を「音」が満たしていくのか、「音」を「空」が満たしていくのか。
 どちらであるかわからないが、そういう「音」と「空/静けさ」という「矛盾」が拮抗し、同時に支えあい、結晶するものとして「世界」がある。そういうあり方を「信じる」と谷川は書いている。
 「信じる」という「動詞」を見落としていた、と急に気づいた。
 この「信じる」ということばを説明するのはむずかしい。
 「確信している」と言い換えればいいのだろうか。
 「確信している」は「確かである」と「信じる」こと。「信じる」を「確かである」にまで高めること。その「確か」を保障するというか、証明するのが「静けさ」ということばの発見なのだ。「静けさ」ということばをみつけた、そのことばによって世界を生み出した、ということが「確か」ということなのだ。



 きょうは「クラヴサン」を読む。私は「クラヴサン」というものを知らない。はじめて聞く(読む)ことばである。それが何を指すのか、わからないまま、ともかく読む。

曇ってはいたが妙にすきとおった夜
(それは北風のせいだったかもしれない)
僕の心はクラヴサンの音に満ち満ちていた
それは
厳しい幸福の感じだった

明日は晴れる ふと僕はそうおもった

 「曇ってはいた」(曇る)と「すきとおった」(すきとおる)のぶつかりあいは、「厳しい」と「幸福」の結合に変化していく。
 「曇る」はふつうは「不透明」をさすと思う。これを否定するように「すきとおる」ということばが動く。「すきとおる」は「晴れる」ということば(これは最後に出てくる)を暗示させながら動いている。
 その動きが繰り返される。
 「厳しい」は「悲しさ」「さびしさ」「つらいさ」ということばはいっしょにつかわれることが多い。人間があまり好まない状態、否定的な感情といっしょに動くことが多い。それが「幸福」という肯定的なことばといっしょに動く。
 その瞬間、何か「新しいもの」がみえる。それまで「ことば」にならなったものが、そこにあらわれてくる。
 その「ことばにならなかったもの」を「クラヴサンの音」が支えている。
 きのう読んだ詩の「物音」と「静けさ」の向き合い方に似ている。
 「クラヴサンの音」は「静けさ」なのだ。「クラヴサンの音」が「曇る/すきとおる(晴れる)」「厳しい/幸福」という断絶したものを「ひとつ」のものにする。「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」をつらぬく「空」のようにして存在する。「空」を「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」がつらぬく、と言い換えてもいい。
 「満ち満ちる」という「動詞」は、「ひとつにする」「つらぬく」ということだろうと私は読み直すのである。
 「物音」が聞こえるとき「静けさ」が「満ち満ちる」、「静けさ」のなかを「物音」がはてしなく広がっていく(満ち満ちてゆく)。主語がいれかわりながら、「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「確か」になる。
 こういうことを経験して、谷川は「晴れる(幸福)」を「確信する」のだ。「ふと僕はそうおもった」と軽い調子で書かれているが、これは「確信」である。

 ということとは別に。

 私はこの詩を読みながら、こんなことも考えた。
 二行目に「北風」ということばがでてくる。なぜ「北風」なのか。なぜ南風、東風、西風ではないのか。詩を書いたときが冬だから「北風」なのか。
 だが、私は、ちがうものも作用していると感じる。
 「すきとおった」「厳しい」という音のなかにある「き」の音。それが「北風」の「き」の音と響きあっている。「き」のなかの母音「い」は、「満ち満ちていた」のなかにある「い」とも響きあっている。
 意味をはなれた「音」そのものが呼び掛け合っているようにも感じる。
 この「音」の呼びかけあいが、私には「ことばの音楽」に聞こえる。「意味」とは関係なしに、何か、引きつけられる。私は「音読」をしないが、「耳」に「音」が響いてきて、それがとても気持ちがいい。
 「き」あるいは「い」という音は鋭い。一方「クラヴサン」という音には一種のやわらかさがある。濁音が深みを感じさせる。詩の書き出しの「曇る」という動詞に通じるものがあるのだろうと思う。「き」「い」の響きあいが、「クラヴサン」という音で、ふわーっと膨らみに包まれる。
 それは「重い膨らみ」、曇りではなく、やがて「晴れる」ことを予想させる曇りにつながるものも含んでいると思う。曇りながら、晴れていくという感じ。

 「クラヴサン」の音を聞くことがあるかどうかわからない。その音を聞くまで、この詩を覚えていたいなあと思う。



*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



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