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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(1)

2014-03-23 23:59:59 | カヴァフィスを読む
カヴァフィスを読む(1)               2014年03月23日(日曜日)

 中井久夫訳『カヴァフィス全詩集 第二版』(みすず書房、1991年04月25日発行)を読み返してみる。「壁」。(引用ではルビは省略した。)

こころづかいも あわれみも 恥さえなくて
私のまわりを高い壁で囲んだ奴等。

今は腰をおとし ただ絶望する私。
ひたすら考える、魂をさいなむこの悲運。

そとでやりたいことは 山ほどあった。
壁をきずかれて気づかなんだ 迂闊な私。

だが気配すらなかかった。音ひとつせなんだ。
こっそりと私を外界からしめだした奴等め。

 「壁」に閉じ込められている。壁は現実の壁か、象徴としての壁か。どちらにしろ外界と遮断されて、あれこれと思っている。「奴等」に対する怒り、自分自身に対する後悔がいりまじっている。絶望もまじっている。
 この詩で私がいちばんひかれるのは、「壁をきずかれて気づかなんだ 迂闊な私。」という行の「気づかなんだ」という口語の調子である。同じ口調は「音ひとつせなんだ。」というところにもある。
 「気づかなかった。」「音ひとつしなかった。」と訳しても「意味」は同じだが、受ける印象はまったく違う。「気づかなかった。」「しなかった。」ということばでは「文章」という印象がする。きちんとしすぎている。「気づかなんだ」の「ん」の音、母音の欠落が、ことばにスピードを与えている。思いが「肉体」のなかで一気に動いた感じがする。「文章」にする暇がなかったという感じがする。
 このスピードと、たとえば「迂闊な私。」では、スピードがまったく違う。「迂闊な」ということばは、どこか「頭」を経由してきたという感じ、自分だけのことばではなく、ひとが話していることば(流通している正式なことば)という印象がある。「迂闊」というとき、そこには何か「意味」の共有を求める意識があって、そのことばを選んでいる感じがする。「恥」や「絶望」もそうである。他人に何かを伝えようとしている。
 けれども「気づかなんだ。」「せなんだ。」には、他人と共有しようとするものがない。ただ、「私」のなかだけで起きたことを、「私」にだけ向かって言っている。そのためにことばは最短距離を動く。「ん」という母音を欠落した口語を動く。
 このことばの緩急が、そこにいる「私」の思いの乱れのようなものをそのまま具体化している。
 中井久夫の訳は、描かれているひとの「こころ」のできごと、こころのなかで何が起きているかを、ことばのリズムとして再現している。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

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