「哀歌」の書き出しは不思議だ。
「晴朗の正午」に星が見えることはない。「星の輪が風にふるへる。」のも見ることはできないだろう。そうした見えないものを「見える」かのように書いたあと、すぐ「我が心も見えざる星と共にふるへる。」と西脇は書く。「見えない」のに「見える」かのように書いて、それを否定している。
これは何のためだろう。
「ふるへる」という音を書きたかったのだと、私は思う。「ふるへる」という音の繰り返しの中に、すべてが吸収される。矛盾はかき消える。そのとき、「薔薇よ、汝の色は悲しみである。」の「悲しみ」が「ふるへる」ように私には感じられる。「悲しみ」がふるえている。
でも、この「悲しみ」とは何?
「触れて曲れる音」、その「曲れる」が「悲しみ」である。そして、「淋しさ」(淋しい)である。
このことを、私は論理的に説明できないのだが、そう思う。
「曲がる」はしばしば西脇の詩にでてくる「美」の基準である。まっすぐではなく、「曲がっている」(ゆがんでいる)。それは、何かからはじき出されてそこに存在する。はじき出されたものが、全体をながめる。その瞬間に、「淋しさ」が「美」としてあらわれる。
「曲がる」は形である。視覚でとらえた世界である。けれど、私は、その「曲がる」を支えているものが、深いところで「音」のような気がしてならない。視力だけで「曲がる」(曲がったもの、ゆがんだもの)をとらえているとき、そこに「淋しさ」「悲しさ」があるかどうか、すこし疑問に思っている。視力ではないものが、その奥にあるとき、視力はその視力以外のものにふれて、「淋しい」「悲しい」「美」になるのだと感じてしまう。
この詩でいえば、
という1行の中にある「ふ」の音。それは「ふるへる」の「ふ」とも呼び合っている。「ふるえる」という音と、「曲れる」という音が呼び合い、それこそ私には「反響」している音のように感じられる。「ふるへる」ものは、その瞬間「曲がっている」という感じがする。まっすぐにふるえるのではなく、曲がってふるえる。
それから、その行に先立つ「この晴天、この夏の首、この夏の眠り、/このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。」の「この」のくりかえし、さらにいえば「の」のくりかえしも好きだ。「の」を中心にして(?)、存在が「曲がる」。まっすぐにことばが、音が動くのではなく、曲がりながら動く。「の」は曲がったところから、またもとへ戻るための「の」でもある。「の」がまっすぐにつながっていて、その「の」のあいだのものが曲がる。ふるえる。そして、それは「見える」だけではなく、「視力」に「音」として聞こえる。
いま、私が書いていることは、論理でも説明でもなく、私の意識・感覚の錯乱なのかもしれない。けれど、その錯乱の瞬間、私は、とても気持ちがいい。
この気持ちのよさは、私の場合、西脇を読んでいると起きる。
この「静かな宝石である。」のくりかえしも、私には、不思議な印象呼び起こす。「天気」の「覆された宝石」から遠く離れて、孤立している宝石を感じさせる。
「覆された宝石」は「やかましい」。その「やかましさ」から離れて「静か」なのだ。それは「やかましさ」のなかにあって、「ささやいて」いるのだ。まったく別の音楽を。
*
「天気」に戻っての、補足。
「覆された宝石」のすぐとなりに「ささやく」という「音」がある。「やかましさ」のとなりの「ささやく」。その異質な音の出会い。ここで出会っているのは、目で見えるものではなく、「音」なのだと思う。
西脇は最初から「音」の詩人、音楽の詩人だと、私は思う。
薔薇よ、汝の色は悲しみである。
髪はふるへる。
この晴朗の正午に微風が波たつ。
星の輪が風にふるへる。
我が心も見えざる星と共にふるへる。
「晴朗の正午」に星が見えることはない。「星の輪が風にふるへる。」のも見ることはできないだろう。そうした見えないものを「見える」かのように書いたあと、すぐ「我が心も見えざる星と共にふるへる。」と西脇は書く。「見えない」のに「見える」かのように書いて、それを否定している。
これは何のためだろう。
「ふるへる」という音を書きたかったのだと、私は思う。「ふるへる」という音の繰り返しの中に、すべてが吸収される。矛盾はかき消える。そのとき、「薔薇よ、汝の色は悲しみである。」の「悲しみ」が「ふるへる」ように私には感じられる。「悲しみ」がふるえている。
でも、この「悲しみ」とは何?
この晴天の首、この夏の眠り、
このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。
彼の夢はトリトンの貝殻より反響する音に
触れて曲れる音を吹く。
「触れて曲れる音」、その「曲れる」が「悲しみ」である。そして、「淋しさ」(淋しい)である。
このことを、私は論理的に説明できないのだが、そう思う。
「曲がる」はしばしば西脇の詩にでてくる「美」の基準である。まっすぐではなく、「曲がっている」(ゆがんでいる)。それは、何かからはじき出されてそこに存在する。はじき出されたものが、全体をながめる。その瞬間に、「淋しさ」が「美」としてあらわれる。
「曲がる」は形である。視覚でとらえた世界である。けれど、私は、その「曲がる」を支えているものが、深いところで「音」のような気がしてならない。視力だけで「曲がる」(曲がったもの、ゆがんだもの)をとらえているとき、そこに「淋しさ」「悲しさ」があるかどうか、すこし疑問に思っている。視力ではないものが、その奥にあるとき、視力はその視力以外のものにふれて、「淋しい」「悲しい」「美」になるのだと感じてしまう。
この詩でいえば、
触れて曲れる音を吹く。
という1行の中にある「ふ」の音。それは「ふるへる」の「ふ」とも呼び合っている。「ふるえる」という音と、「曲れる」という音が呼び合い、それこそ私には「反響」している音のように感じられる。「ふるへる」ものは、その瞬間「曲がっている」という感じがする。まっすぐにふるえるのではなく、曲がってふるえる。
それから、その行に先立つ「この晴天、この夏の首、この夏の眠り、/このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。」の「この」のくりかえし、さらにいえば「の」のくりかえしも好きだ。「の」を中心にして(?)、存在が「曲がる」。まっすぐにことばが、音が動くのではなく、曲がりながら動く。「の」は曲がったところから、またもとへ戻るための「の」でもある。「の」がまっすぐにつながっていて、その「の」のあいだのものが曲がる。ふるえる。そして、それは「見える」だけではなく、「視力」に「音」として聞こえる。
いま、私が書いていることは、論理でも説明でもなく、私の意識・感覚の錯乱なのかもしれない。けれど、その錯乱の瞬間、私は、とても気持ちがいい。
この気持ちのよさは、私の場合、西脇を読んでいると起きる。
彼の思考は静かな宝石である。
彼のパイプの音は静かな宝石である。
彼の眠りは静かな宝石である。
この「静かな宝石である。」のくりかえしも、私には、不思議な印象呼び起こす。「天気」の「覆された宝石」から遠く離れて、孤立している宝石を感じさせる。
「覆された宝石」は「やかましい」。その「やかましさ」から離れて「静か」なのだ。それは「やかましさ」のなかにあって、「ささやいて」いるのだ。まったく別の音楽を。
*
「天気」に戻っての、補足。
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。
「覆された宝石」のすぐとなりに「ささやく」という「音」がある。「やかましさ」のとなりの「ささやく」。その異質な音の出会い。ここで出会っているのは、目で見えるものではなく、「音」なのだと思う。
西脇は最初から「音」の詩人、音楽の詩人だと、私は思う。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |