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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

牟礼慶子『夢の庭へ』(3)

2009-06-26 00:04:27 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)

 「夢の庭へ」という作品が、私はとても好きだ。私は牟礼のことを個人的には何も知らない。『夢の庭へ』を亡くなった「あなた」への相聞歌として読んでいるけれど、「あなた」がいつ亡くなったのか、そのことも知らないで私は書いている。
 「夢の庭へ」の1連目。

ふり向くな
制止の声に同意せず
わたしはあの日から
一本のネムの木だっだ
古い風と新しい風が
わたしの背中で入れ替り
今年のネムの花が
淡い紅の蕾を
梢に掲げるのを仰ぎ見ている

 この詩は私には「ほのかな紅を」と重なって見える。重ねて読んでしまう。
 ネムの木を見上げると、きっと「わたし」はひとりきりになる。世界から切り離されてしまう。世間の人は、そんなふうに「ひとりきり」になってはいけないと制止する(注意する)けれど、「わたし」はネムの木を見つめていたい。それは、きっと牟礼にとってとても大切な木である。「あなた」の思い出がいっぱいつまっている木である。「あなた」は「わたし」を「ネムの木」と呼んでくれたのかもしれない。きっと、そうだろうと思う。
 ネムの木を見上げ、「わたし」はひとりきりになる。「ネムの木」と呼ばれた懐かしい、いとしい時間。その瞬間にかえる。
 そして、「ひとりきり」の「あなた」に出会うのだ。「わたし」を「ネムの木」と呼んだとき、「あなた」は「ひとりきり」だった。つまり、「わたし」を「ネムの木」と呼ぶ人は、「あなた」以外にいなかった。
 そして、その「あなた」はこの世界から旅立って、別の意味で「ひとりきり」である。
 だから、「わたし」が「あなた」に寄り添う。そして、寄り添うとき、「わたし」は「あなた」になり(「ムネの木」と呼んでくれた「あなた」が「わたし」の中でいきいきとよみがえり)、「あなた」が「わたし」に寄り添うとき(「あなた」が「わたし」を「ネムの木」と呼ぶとき)、「あなた」のその声の中で、「わたし」がよみがえる。
 「入れ替」るとは、そういうことをいう。切り離せないいのちになる。入れ替わるとは、「一体」になることである。
 2連目。

遠くで鳴る
振鈴の合図に促されて
あの 夢の庭のほうへ
わたしは今日を歩き始める
わたしを誘うのは
わたしの腕でなく
誰の腕でもなく
若いネムの木だったわたしの声

 「若いネムの木だったわたし」。「わたし」と「ネムの木」が「一体」である。その瞬間と「いま」が「一体」になる。すべてが「ネムの木」とともに存在する。「ネムの木」をとおり、遠いむかしも、いまも、いまここにいない「あなた」も「一体」になる。
 この「一体感」を牟礼は、語りつづける。

この世に定められている時の掟
その境界の越え方を
わたしはいつ覚えたのだろう
向う側と
こちら側の風景を隔てて
整列している木々の淡い緑
非在の者と
存在する者とが
同じ場所に留まる術を
わたしはどこで学んだのだろう

 「あなた」との愛の暮らしで学んだのだと、私は教えてもらった。この詩集で、牟礼から。すばらしい愛の詩集だ。ありがとう。

日日変幻 (1972年) (現代女性詩人叢書〈6〉)
牟礼 慶子
山梨シルクセンター出版部

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