『旅人かへらず』のつづき。
一五一
折にふれ人知れず
争ふ夫婦の舌のとがり
永遠の暗黒にもどり
古の土の思ひ
物いはず
落葉をふむ
互いにはぐくむ庭に
ひよどりの鳴く
1行目の「折にふれ」がさまざまな音楽に変奏されていく。「折り」は「舌のとがり」「暗黒にもどり」の「とがり」「もどり」。そして最終行に突然復活する「ひよどり」。
「とがり」「もどり」は「が」を鼻濁音で発音すると、ときには「とまり」「もどり」のようになるから、そこには「ま行(?)」の口蓋、鼻腔の感覚が交錯する。(鼻濁音を上手に言えない幼い小さい子どもが「手紙」を「てまみ」は発音することを思い出してほしい。)文字で見るだけではわからない音がある。(とは言うものの、私は西脇の詩を音読はしたことがない。しかし、黙読のとき、自然に、口蓋、鼻腔が反応する。それほど西脇のことばは「音」が美しいのだと思う。)
夫婦喧嘩(?)の様子を描いているようで、それはみせかけ。音を動かしてみたかったのだけだ。「折にふれ人知れず/争ふ夫婦」などという奇妙な表現は「わざと」でないと出てこないだろう。
「ふれ」の「ふ」を中心にした「は行」は「ふれ」「ふうふ」「あらそふ」「いにしへ」「おもひ」「いはず」「ふむ」「はぐくむ」「ひよどり」とにぎやかである。
「ひよどり」のなかには「どり」(り)と「は行」がそろっているのも愉しい。
一五四
座敷の廊下を行くと
とざされたうす明りの
障子に映る花瓶に立てられた
山茶花の影の淋しき
3行目「障子に映る花瓶に立てられた」のリズムが、なんとも不思議である。私なら「障子に映る/花瓶に立てられた」と書いてしまいそうである。さらに言えば「障子に映る」は2行目と、「花瓶に立てられた」は4行目と一緒にしたい意識がある。私の無意識の文法は、そんなふうに行のことばを割り振っている。その無意識の割り振りを破壊して、西脇のことばは動く。私の文法意識は破壊される。この瞬間が、くすぐったくて、愉しい。
こういうリズムのあとでは「さざんか」という「ん」を含む音のすばやさが気持ちがいい。「障子に映る花瓶に立てられた」ということばが「わざと」(むりやり?)凝縮されて1行に押し込められているのだから、次のことばもぎゅっと凝縮された漢字がいい。長音のある花だときっと「影」は映らないし、「淋しさ」もぼやけるだろうと思う。
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