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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)

2014-09-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)2014年09月20日(土曜日)

 「カルデアのイメージ」は神が人間をつくる前の地上のことから書きはじめている。「カオス」の状態。

その時 戦士は禿鷹の身体を持ちて、
 人々は人の身体と
大鴉の頭を持てり。人の頭を持てる
 大きく背高き雄牛のたぐいもありき。
日も夜も吠えやまぬ犬は四つの身体を持ち、
 尾は魚の尾なりき。神エアとその他の神は
これらの物を掃滅したまいてから
 楽園に人を置きたまえり。
(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後の一行はアダムとイブのことを書いているのだろうけれど、私は、まったく違う読み方をしてみたくなる。この詩に書かれていることばをまったく違う意味に読み取りたい気持ちになる。
 楽園に「人」を置く前の「カオス(混沌)」の時代の方が「楽園」のように見えないだろうか。「楽園」の定義はむずかしいが、「禿鷹の身体」を持っていたり、「大鴉の頭」を持っていたりする「異形」の「人々」、あるいは「四つの身体」と「魚の尾」を持つ犬という不思議な生き物。その整頓されない形の方が、とてもエネルギーに満ちていて楽しそうではないか。
 人は、その世界で、いろいろな形の生き物に接触し、そこから「生きる」ことを吸収した方がおもしろかったのではないだろうか。可能性がいろいろあったのではないのだろうか。それらの「生き物」を「掃滅」したあとに置かれたのではなんだかつまらない。
 もし、それらが生きていたら、その不思議な生き物といっしょに生きていたなら、イブはヘビにそそのかされなかったかもしれない。ヘビくらいの単純な生き物のことばに耳を傾けなかったかもしれない。

(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後に、括弧の中に隠されるように洩らされる「本音/主観」。それまでの文体が「文語」風なのに対して、この一行は「ことよな」と「口語」的である。「口調」が聞こえる。その口調は、なにかしら「悪」というか、ととのえられる前の「混沌」の方をなつかしがっているような気がする。

 私の読み方は間違っているかもしれない。
 間違いを誘う魅力が、この詩にはある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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