詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田由紀乃「窓の外は夜」

2016-07-17 14:05:01 | 現代詩講座
山田由紀乃「窓の外は夜」(現代詩講座、2016年07月14日)

 詩にひかれるとき、全体にひかれるというよりもある一行にひかれ、それだけでその作品が好きになるというものがある。山田由紀乃「窓の外は夜」は、私とにっては、そういう作品だ。

窓の外は夜     山田由紀乃

花屋の店先から溢ふれながら
濡れた舗道を照らしている
ゆりの白ミモザの黄色カーネーションのピンク

鬱蒼とした街路樹をつたい
小雨をよけて歩いた
夕暮れの街角
パーマ屋の二階の画廊はもうそこ

狭い部屋に大きなテーブルがあったり
段差があったり 集まった人が静かに
没後二十年武満徹についての講演を聞いている

肩を寄せ合って座る空間に
陰影深くひっそりとその人が居る

ギターリストによる演奏があった
ビートルズのヘイ・ジュウド武満徹編曲だ

狭い部屋は熱気が立ちこめ
窓を開けて外気を入れた
窓の外は夜 小雨を飛ばして車が走る
ヘイ・ジュウドは佳境にある

ふいに音が近づきわたしを抱きしめた
濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか
長いこと忘れていた抱擁 ひとを愛すること
赤ん坊を抱いた子どもを抱いた友を抱いた
恋人を抱いた母を抱いた

そしてわたしも抱きしめられた
窓の外の夜の音もこの部屋に流れている

 私が好きになった行は七連目の「濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか」。特に「音は息を吐いたのか止めたのか」がとてもすばらしい。音が何かに驚いている瞬間が描かれている。音が自分の音に驚いたのか。音楽を聴いているひとの「呼吸」に驚いたのか。どちらなのかわからないが、音と音楽を聴くものが「一体」になっている。その感じがとてもいい。あ、そうか。音も音楽を聴いているひとの「呼吸」を、感情の動きを聞いているのか。聞きながら変化しているか。そして、その行の強さが、その後のことばの展開を切り開く。(先の行を別のことばで言い直す。)そのときのゆるぎなさが、とてもいい。

 この作品を受講者は、どう読んだだろうか。

<受講者1>「ヘイ・ジュード」なのにジャズが流れている。
      いま/ここにいながら、心がいろんなところに行く感じ。
      音に強いひと、敏感なひとだと感じた。
      「音は息を吐いたのか止めたのか」がいい。
      こんなふうに感じたことがない。
      音への感じが新鮮。
<受講者2>後半がいい。音が聞こえてくる。音楽を聴いている感じになる。
      ただ、前半と分裂している感じがする。
<受講者3>音楽が聞こえてくる。静かだ。
      音楽が山田さんを抱きしめる。いいなあ。
      小さな部屋全体が音楽の空気に満ちている。
      最初の二連があって、夜がある。
      「小雨をよけて歩いた」がとてもいい。
      情景を描くことで、後半への期待感が生まれる。期待感がある。
      説明のようだけれど、「情景」になっている。
<受講者4>幸福感があって、きれい。
      七連目の「抱擁」「抱く」がいい。特に「母を抱いた」がいい。
<受講者3>いいよねえ。
<受講者4>最終連がいい。
      特に最終行「窓の外の夜の音もこの部屋に流れている」が音楽。
      気になったのが「パーマ屋」ということば。
      いま、こういうかなあ。
<受講者3>パーマ屋を書くことで、時間を超える感じ。

 全員が後半に感動している。
 前半は、私も、ひとりの受講者が言ったように、気に食わないのだが、別の受講者が言った「情景」という指摘はすばらしいと思う。
 夜を歩いていく。小さなコンサートに向かう。そのときの「期待感」が、いつもの街をちがったふうに見せる。気持ちが、いつもと違った街を見つけ出す。何気なく素通りしてしまう花屋の花も、一本一本があざやかに見えてくる。それが「肉体」にはねかえってきて「小雨をよけて歩いた」という動きになる。
 あ、美しい。
 他人と一緒に詩を読むと、見落としていたものが見えてくるからうれしくなる。
 ただ、私は「鬱蒼とした」という表現が気になった。「鬱蒼とした」ということばに頼って、街路樹を見ていない。書かれている「意味」はわかるが、何が書かれているのか「具体的なこと」がわからない。
 一連目の「ゆり」の一行と比較すると、その違いがわかる。「ゆり」の行では「具体的な花の色」がわかる。見える。でも、その「意味」はわからない。いや、「意味」は書かれていないが、書かれていないがゆえに「わかる」。美しい、華やか、いきいき……いろいろな感じが花の色の描写から「わかる」。もし、ここに「華麗な色彩のハーモニー」と書いてあれば「意味」はもっと簡単に「わかる」けれど、なんだか「意味」を押しつけられたような感じで、きっと引いてしまう。「意味」を書かないことによって、「わかる」が深まる。読者が、「わかる」という方向へ加担していく。「わかりたい」とのめりこんで行くのだと思う。「鬱蒼とした」では「鬱蒼とした」以外の意味が動かない。のめりこめない。
 同じことは六連目の「ヘイ・ジュウドは佳境にある」の「佳境」についても言える。「意味」が簡単に特定されてしまっている。そこでは作者のことばではなく、「流通言語」が動いている。「説明」が動いている。
 私が感動した「音は息を吐いたのか止めたのか」は、「わかる」けれど、「説明」はできない。私は音楽と聴衆の呼吸が一体になると言ってしまったが、それは私の「誤読/思い入れ/作者の感じていることへの加担」であって、正しいかどうかわからない。「鬱蒼」や「佳境」のように、辞書で引いて、それで「わかる」ということがらではない。
 この「わからない呼吸」のようなものが、そのあとで「抱擁/抱いた/抱きしめられた」と言い直されているのも、とても美しい。「音は息を吐いたのか止めたのか」と書くことで、「説明」にならない何か、だれも語らなかった「真実」が、強く動きはじめる。
 「抱擁/抱いた/抱きしめられた」そのとき、ひとは「息を吐くのか止めるのか」。たとえば、母を抱いたとき、母は息を吐いたのか、止めたのか。山田自身は息を吐いたのか、止めたのか。どちらも一瞬。深い深い、一瞬だ。そのとき、ひとは、音楽を聴くのかもしれない。音が聞こえるのかもしれない。それは、やはり簡単にはことばにできない「音」だろう。
 そういう「音/音楽」が「ヘイ・ジュード」「ギター」「武満徹」を超えて静かに聞こえてくる。
 最終連/行も、とても気持ちがいい。
 楽器が奏でる音、ひとがつくったメロディーだけが音楽なのではない。街にあふれる「ノイズ」もまた音楽である。それはひとがつくった「音楽」を抱きしめるのか、あるいはひとが「音楽」をつくり「ノイズ」を抱きしめるのか。どう語っても同じところにたどりつくかもしれない。すべては「抱擁」する。「抱擁」のなかに、世界が「生まれる」。
 詩を書くとは、何かを「生み出す」ことなのだ。詩からは何かが「生まれる」。 

(次回は8月3日水曜日、18時から、福岡市中央区薬院、リードカフェ、地下鉄「南薬院」そば)    

*

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