詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3-1)

2011-09-13 23:59:59 | 現代詩講座
田村隆一試論(3)(「現代詩講座」2011年09月12日)

 きょうは「帰途」を読みます。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 いままで、感想、第一印象を最初に聞いていたのだけれど、今回は聞きません。感想はことばにしないで、胸にしまっておいてください。いくつか質問をしながら読んでいきます。

質問 どのことばが印象に残りましたか? 1行(文)ではなく、単語だけでこたえてください。
「言葉」「果実の核」「涙と血」「帰途」

 みなさんは、「名詞」を印象に残ったと言ったんですが、私は実は、名詞ではなく1行目の「おぼえる」ということばにとても興味を持ちました。「おぼえる」ということばのなかに田村の「思想」が籠もっていると思いました。
 前回、その前の回、河邉由紀恵の『桃の湯』まで遡ることができるけれど、「知る(知っている)」と「わかる(わかっている)」を区別しながら詩に近づいていきました。今回は、それに「おぼえる」をつけくわえたい。「知る」「わかる」「おぼえる」--このみっつの違いを区別してみると、この詩が鮮明に見えてくると思います。
 このことは、あとで説明します。みなさんの「第一印象(感想)」とおなじように、ぐっと、心のなかにしまいこんで、ゆっくり遠回りしながら詩に近づいてきたいと思います。

 いま、単語だけ、と限定して質問したのには理由があります。この詩につかわれていることばは、とても少ない。
 名詞でいうと「言葉」「世界」「意味」「復讐」「無関係」「血」「眼」「涙」「沈黙」「舌」「苦痛」「果実」「核」「夕暮れ」「夕焼け」「ひびき」「日本語」「外国語」、それに「あなた」「きみ」「ぼく」もありますね。
 形容詞(形容動詞)は「美しい」「静かな」「やさしい」。
 形容詞は「用言」なので、活用して、動詞と同じように動いているものもあります。「よかった」。これは「よい」が変化したものですね。
 動詞は「おぼえる」「なかった(ない)」「なる(ならない)」「生きる」「復讐する」「流す」「だ(である)」「流す」「おちてくる」「眺める」「立ち去る」「立ち止まる」「帰る(帰ってくる)。
 そして、この少ないが何度も何度もつかわれる。「言葉」という単語は書き出しにつかわれているだけではなく、5回も出てくる。4連目以外には必ず出てくる。
 「言葉」という表現ではないけれど、やはり「言葉」をあらわすものがある。

質問 「言葉」という表現をつかわずに、「言葉」をあらわした単語に、何がありますか。
「日本語」「外国語」

 そうですね。最終連の「日本語」「外国語」。これは「日本の言葉」「外国の言葉」ですね。田村は「言葉」という表現を言い換えています。
 私は何度か、ひとは大切なことは繰り返していうということ指摘してきました。この詩でも田村は何度も大切なこと(いいたいこと)を繰り返して言いなおしているのだと思います。
 「言葉」を「日本語」「外国語」というふうに言い換えているように。
 そういう部分をていねいに読んでいくと、田村の考えていることに少しずつ近づいていけると思います。
 もひとつ、「意味」も繰り返し出てくる。4回出てくる。「世界」も4回。「血」は3回。「涙」も3回。
 こんな短い詩のなかで「言葉」5回、「意味」が4回。「世界」が4回。これは、ちょっと「異常」なことだと思う。「言葉」と「意味」と「世界」について、田村が何かをいいたくて仕方がないということが、ここからわかると思う。

 これから、ほんとうにゆっくり詩を読んでいきます。
 1連目。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 2行目の「言葉のない世界」。このあとに「を生きていたら/どんなによかったか」ということばが省略されています。田村は、そう言ってしまいたかったのだけれど、それではわかりにくいと思い、言いなおしています。「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」を、「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と言いなおしています。
 「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」は田村にとって「同じ」ことですね。
 言いなおすときに「言葉」が「意味」ということばにかわっている。
 「言葉」を「意味」という表現に変えたために、そのあとにつづく表現が少し違ってくる。
 言葉の「ない」世界が、意味が意味に「ならない」世界に変わっている。
 ここがとても重要です。
 言葉が「ない」ということと、意味が意味に「ならない」ということが同じである。ひとつのことを言うとき「主語」というか、テーマが変わると、それと一緒に動く「動詞(述語)」も変わる。
 変わるけれども、それは同じこと。

 ちょっとややこしくなってきましたね。
 すこしもどって考え直してみます。

 この1連目を読んでいると、「言葉」と「意味」が何かとても近い関係にあることがわかる。近いけれども、どこか違っていることがわかる。
 ふつう、私たちが「ことば」と言ったり「意味」と言ったりするとき、どんなふうにそれを考えているだろうか。

 「言葉」には「意味」がありますね。
 「意味」の定義はむずかしいけれど、わからない言葉に出会ったとき、「その意味は?」と聞きますね。そのとき「意味」というのは、その言葉をいいなおしたものですね。知っている言葉、わかっている言葉で言いなおす。「意味」というのは「知っていること」「わかっていること」ですね。「知っていること」「わかっていること」が「意味」であり、「わからないこと」は「意味ではない」。だから「わからない」とき、「それはどういう意味?」と聞きますね。
 「知っている言葉」でも、自分の知らないようなつかい方をされると、やっぱり「どういう意味?」と聞きますね。
 逆に「意味」(いいたこと)があって、どう言っていいかわからないとき「なんというんだっけ?」とか聞きますね。「言葉」をたずねる。そういうこともある。
 このとき「意味」は「いいたいこと」ですね。

 言葉のなかには「意味を知っていること」「意味がわかっていること」と「意味の知らない言葉」「意味のわからない言葉」がをる。、そのうち「わかりすぎていること」というのは、言いなおすのがとてもむずかしい。河邉由紀恵の『桃の湯』のなかに出てくる「ふわーっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とか……。みんな、わかっていますね。わかっているから、説明する必要がない。
 「言葉に意味がある」というのも、みんなわかっている。だから、「言葉」と「意味」の関係を、たとえば小学生に説明するとしたら、とてもむずかしい。どう説明していいかわからない。わかっているから、わからない--ということがあると思います。
 ちょっと遠回りしすぎたけれど。
 私たちは、いま、言葉と意味について考えている。

 「言葉に意味がある」--と私は簡単に言ってしまったけれど、ここにもとても重要な問題がある。「……に……がある」という言い方は、机の上にコップがある。あるいはコップのなかに水がある、というようなつかい方をする。「……に」は「場所」をあらわし、そこに「……」がある。
 そうすると「言葉に意味がある」というのは、その「に」と一緒にある場所を示すことばをつかって言うとどうなるだろう。
 言葉の上に意味がある。
 言葉の下に意味がある。
 言葉の横に意味がある。
 言葉の中に意味がある。
 言葉の外に意味がある。
 言葉に意味があるというのは、どうも「言葉の中に意味がある」というのがいちばん落ち着くように思える。「言葉の奥に意味がある」「言葉の内に意味がある」というのは、これに近いですね。「言葉の外に意味がある」というのは「言外に意味がある」とか、「行間に意味がある」ということに通じると思うけれど、それを考えると、「意味」は「言葉」の「なか」か「外」か、まあ、どちらかにあると考えるのが一般的だと思う。

 で、詩にもどります。
 田村は、「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いている。でも、「意味のない世界を生きていたら/どんなによかったか」とは書いていない。
 「意味」の「ある」「ない」を問題にしていない。
 「意味」が「ある」ということが無条件に前提にされている。--これは、ちょっと先走りしすぎた解説なので、わきにおいておきます。

 「意味にならない」が大事。「なる」「ならない」について、田村は書きたいのだと思います。
 田村にとって、「意味」は最初からそこに「ある」(存在する)ものではなく、「なる」ものなんですね。「意味になる」とこによって、そこに「意味がある」という状態がうまれる。
 「なる」というのは、変化ですね。
 ○○さん、結婚してからいっそう美人になったねえ、というときの「なった」(なる)のは「変化」ですね。

 では、「意味」はどうやったら「意味」に「なる」のだろう。
 「意味」が「意味」になる、というのは、「意味」が「意味」として通じる、通用するということもしれないけれど、田村の書いていることは、それとは少し違う。
 あくまで「意味が意味になる(ならない)」。
 で、最初にいった「言葉」と「意味」という単語がこの詩には何度も繰り返され、その区別がちょっとつきにくいところもあるのだけれど、ここで強引に「言葉」という単語をつかって言いなおしてみると。
 「意味が意味にならない」というのは、「言葉が意味にならない」ということになる。
 「言葉」はふつう、「意味」に「なる」。いつでも、「意味」になってしまう。
 「比喩」のことを何回か話しましたが、たとえば「○○さんは花のようだ」といえば、その「花のようだ」という言葉(表現)は「美しい」という「意味」になる。言葉が「意味になる」というのはそういうことだと思う。「言葉が何かを伝える」ということが「意味になる」ということかもしれません。
 どんな言葉も意味になってしまう。
 最近、こんなことがありましたね。鉢呂経産相が「福島は死の街だ」と言った。鉢呂は「人が住んでいない」ということを言ったのかもしれないけれど、それは「福島には人が住めない」という「意味」になり、福島のひとを傷つけることになる。帰りたいと思っている人々を絶望させてしまう。望みを奪ってしまう。
 鉢呂は違った「意味」で言ったつもりでも、「意味」はいつでも言ったひとの思いとは関係なく変化してしまう。
 佐賀知事の発言もそうですね。「真意とは違う」というけれど、「意味」は言った人だけが決めるものではないのです。
 言った人にも「いいたいこと」があるのだろうけれど、「意味」は一人立ちして動いてしまうものですね。

 脱線しました。詩にもどります。
 こんなふうに考えてなおしてみましょう。
 「意味が意味にならない世界」--これを「言葉」という単語だけをつかい、「意味」という単語をつかわずに言いなおすとどういうことになるだろうか。
 「言葉が通じない世界」ということになるかもしれない。「声」は聴こえる。けれど、それが何を指しているかわからない。「意味」というのは「指し示す内容」のことかもしれませんね。言葉が通じなかったら、どうするか。言葉のかわりに、身振り手振りで「意味」を探るということもあるのだけれど--まあ、それは直接、誰かと出会ったときの場合ですね。ふつうは、ほっておきます。なかったことにします。たとえば「アラビア語」で書かれた本。そこには「言葉」がつまっている。「意味」もつまっている。でも、わからない。私にとってはアラビア語の本は「言葉が通じない世界」「意味が意味になってつたわってこない世界」です。そういうとき、そこにどんなことが書かれていても関係ない。知らない。大事な予言が書かれていたって知らない。あとの方に出でくることばを先取りしていうと「無関係」。無関係というのは、田村が書いているように「よい」ものです。たとえばアラビア語でテロの予告が書かれている。もし、アラビア語を知っていて読むことができれば、「意味」がわかれば、それをそのままにしておくことはできない。どこかに知らせなければいけない。書いてある内容を知られたとわかったらテロリストに殺されるかもしれない。「責任」というものが出てくる。これはたいへんです。--これは、極端な例を言ったのだけれど、「意味」を知るというのは「無責任」(無関係)ではいられなくなる、ということだと思います。
 ここから「意味」というのは「関係」というものにかかわっているということがなんとなく推測できると思います。言葉というのは、たとえば「水」を「水」と呼ぶとき、それが「水」であるとわかる人間と「関係」することでもあります。「水をください」という言葉、その「意味」が伝わるのは、そのものを「水」と呼ぶひとのあいだだけです。「水」を「水」と呼ぶとき、こんなことはいちいち考えてはいないのだけれど、誰かと「水」ということばをとおして「関係」ができる可能性があるということですね。「関係」を成立させるものとして「言葉」がある。「言葉」をつかって、人間は「意味(いいたいこと)」を伝えようとしている。
 これは、逆に見ていくと(逆説、というのは田村が好んでつかう手法です)、「言葉」を言うとき、そこには「意味」がある、ということですね。
 1連目を、その視点から読み直すと、

言葉に意味があることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が意味としてきちんと伝わり、そこに関係ができる

 という具合になるかもしれません。「関係ができる」というのは「世界」ができるということ。「関係」と「世界」は似通ったものです。
 さらに、これを、「ある」ではなく「なる」という表現をつかって言いなおしてみる。「意味がある」ではなく、「意味になる」という表現をつかってもう一度読み直してみる。言い換えてみる。そうすると、どうなるか。

言葉が意味になることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が、相手との関係によって別の意味になることがある

 そういうことになるかもしれません。
 こういうことを田村は「そうでなかったら/どんなによかったか」と逆説で書いている。この「逆説」の部分は重要なのだけれど、いまは、とりあえず、「逆説」の部分はおいておいて、言葉と意味と関係と世界ということばで田村があらわしているのも確認しておきます。

 言葉のなかに意味がある。
 言葉の中の意味は相手によって違った意味にもなる。
 言葉を言った人と、言葉を聞いた人の関係によって、同じ言葉でも違った意味になることがある。
 同じ言葉であっても、違う意味として伝わってしまう。
 そういう人と人との「関係」、言葉の意味に影響を与えてしまうの関係そのものが「世界」である。

 1連目では、そういうことが言われていると思います。


*

 田村隆一試論の3回目は長いので3分割してアップしています。
 下欄に3-2、3-3という形でアップしました。
 つづけて読んでください。




田村隆一全集 2 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社

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1 コメント

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Unknown (あや)
2011-09-14 20:31:23
美しい詩ですね。ほんとうに、言葉がなかったらどんなに美しい世界が存在したかもしれないのに。
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