詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)

2017-09-26 08:13:12 | 詩(雑誌・同人誌)
金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)は「恋愛詩」なのかもしれない。しかし、詩について語ったこと、比喩とは何かということを語った作品としても読むことができる。

君が私を白樺と呼んで去った後、私は白樺になった
誰かを何かと呼ぶことが
どれほど苦しく時には危険なのか知っているのだが
白樺や草花などと呼ぶために
自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法
誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする
私たちが互いを何かと呼んでやるならば
私たちは喜んでその何かになり暗い路地や
戦場でも明るい街灯や花として夜通し燃え上がって待とう
夜明けが来る足音もそうやって待とう
君が私を白樺と呼んでくれたように
君を星だと呼んであげたとき暗い白樺の森の上に
君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 私には私の名がある。君には君の名がある。けれど、それとは違う名で相手を呼ぶ。「白樺」「星」と。この名前は、特別な名前だ。二人だけの間で通じる名前だ。愛しているときに、そういうことが起きる。
 愛は「苦しく時には危険」である、というのは常識かもしれない。しかし、ひとは、こういう誰もが知っているところをとおって生きる。
 で、そのあと

自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 この一行が美しいなあ。
 「魂の唇を整える」というのは、私の実感からは遠い。私は「魂」というものを知らない。ひとがそういうことばをつかうのは聞くが、自分では言わない。他人のことばを引用するときにはつかうけれど。なぜ「魂」をつかわないかといえば、存在を実感できないからだ。見たことがない。さわったことがない。
 それでもこの一行を美しいと感じるのは、「魂」を「唇」という「肉体」であらわした後、

整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 とつづくからだ。「整える」「練習する」という「動詞」があるからだ。「動詞」は私自身の「肉体」で反復することができる。私の唇を整え、ことばを練習する。こういうことは、よくやる。美しく「発声」できるかどうかはわからないが、美しくしたいという気持ちはある。そういうことを思い出すから。
 「意味」に「頭」が反応するのではなく、「ことば」に「肉体」が反応して、私の「肉体」のなかに眠っていたものが動き始める。
 特別な名前ではなく、ただその人の名前であるだけで、それを呼ぶときにどきどきすることもある。初恋のとき。友人がなんでもない調子で呼んでいる、その名前。それを呼ぶことができない。あのとき、どこかで私は無意識に唇を整え、声の出し方を練習している。
 でも、愛というのは、かならずしも実らない。詩は、そういうことも書いている。

君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

 というのは、別れた後だから言えることばかもしれない。「意地を張る」が「唇を整えて数えきれないほど練習した」と向き合っているようで、せつない。「意地を張ったりしないだろう」と否定形、否定形の推量として書かれているところが、かなしい。ここに「感情の整え方」がある。
 そして、感情を整えた後、最後の一行。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 「白樺」と呼ばれているときは、まだ「私」でもあった。君が去って、「白樺」と呼ばれなくなったときに、「白樺」と呼ばれることの「意味」がわかったということだろう。「白樺になった」と「白樺と呼ばれることが私にどういう意味があるのかわかった」と言い換えるられるだろう。

 それにしても。

 不思議なことだが、私がおもしろいと感じる作品には李國寛が訳していることが多い。どこかで「ことば」を共有しているのかもしれない。韓国語を習うなら、この人から学ぶと、私の場合は納得しやすいかもしれない、というような、詩とはあまり関係ないことも考えた。
 しかし、意外と重要な問題があるかもしれない。
 たとえば、詩に限らず、あるひとの「翻訳」がどうにもなじめないとか、逆にあるひとの「翻訳」が読みやすいと感じるのは、たぶんことばの感覚がどこかで通じているのだろう。

誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする

 こういう向きを変えながら反復するような、まだるっこしいことばの展開のしかたにも強くひかれる。(原文もまだるっこしいのだろうけれど、それをそのまま日本語にする「呼吸」にひかれる。)
 「意味」だけではない何かがある。「正確」かどうかだけでは判断できない何かがあるということだろう。特に詩は、そうだろうと思う。詩は「意味」だけをつたえるものではない。詩は「意味」として語ることのできない何か、客観化できない何かを語る。そのことばに触れることで、自分自身のことばを作り替えを求められるのが詩だ。(哲学とは、文学というのは、そう定義できるだろうけれど、詩の場合、特にその要素が大きい。)
 このとき、何かが「共有」されていないと、その作り替えがうまくいかない。というか、作り替えへと、ことばが動いていかない。「共有」されていると、自分のことばを作り替えたいという欲望が動き始めるといえばいいのか。

 他の人の訳で、気に入る作品はないだろうか。
 探してみなければ、と思う。


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