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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)

2014-09-15 08:35:45 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)2014年09月15日(月曜日)

 「長所」はユリアノスの秘書だったヒメリオスのことばを踏まえてアテネ人の長所を書いている。二連構成の詩だが、詩の行頭が二行目だけ飛び出るような形。引用は、行頭をそろえた。

どの土地にもその特産がある。
馬と騎手はテッサリアにかなわず、
いくさの時はスパルタ人がすぐれる。
ペルシャはその

立派なご馳走が有名。
頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。
だがアテネのすぐれた標徴は
その言語と人である。

 カヴァフィスは史実を題材にした詩をたくさん書いている。この詩も、「テッセリア人」と「アテネ」については、ヒメリオスの「論理」(意味)とまったくかわらない。意味が同じなのに、なぜ、カヴァフィスは、そういうことを書くのだろう。
 はっきりとはわからないが、同じ「論理/意味」を書いているということから、ふたつのことが推測できる。
 ひとつは、その「論理/意味」に同意している。だから、そのまま書く。別につけくわえることはない。
 もうひとつは「論理/意味」はどうでもいいと思っている。反対意見があるわけではないが、その「論理」を絶対的に正しいとも信じていない。同じことをことばのリズム、音の響きをかえていうとどうなるのか、それを確かめたい。
 カヴァフィスは、たぶん後者だ。
 別の言い方、別の音で、「論理」はどんな具合に「肉体的」(主観的)になるか。「意味」ではなく、そのことばを語っている人そのものになるか。ことばは「意味」ではなく、その「人」なのである。「人」を感じさせないことばはことばではない。
 アテネのすぐれたものは「言語と人」と一セットで語られるのは、そういうことを意味していると思う。ソクラテスを想像するといいかもしれない。ソクラテスの「ことば」はソクラテスといっしょに動く。「哲学」は「意味」だけで動いているように見えるかもしれないが、「意味」により「人間」そのものが動いている。「ことば」を通して「意味」以上に「人間」が見えてしまう。
 カヴァフィスは「人間」が見える詩を書きたいとここでは静かに語っているのかもしれない。中井久夫は詩人の意図を口語、「頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。」の「……となると」「……じゃ」という口調で伝えている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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