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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(106)

2014-07-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(106)        2014年07月06日(日曜日)

 「古書の中に」は「百年物の古書の中に」はさまれたままになっていた水彩画を見つけたときのことを書いている。水彩画は少年を描いている。男色の相手の少年である。

描かれている少年はただものではない。
世間通用限度内の健全な形式の愛欲で済む者向きの子じゃない。
暗い栗色のひとみ。
顔のこの世にまたとない美、
異常の魅惑の美よ。
理想のくちびる--愛を享ける側の身体に
官能の喜悦を与えるくちびる。
卑俗な倫理が恥を知れという形の
共寝のためにつくられた理想の四肢よ。

 あいかわらずカヴァフィスは「この世にまたとない美」とか「異常の魅惑の美」とか「理想のくちびる」とか、具体的とは言えないことばで「美」(美しいもの)を語っている。こんなことばでは、だれの官能も刺戟されないだろう。「官能の喜悦」ということばも出てくるが、これも具体的ではない。
 少年の「美」は、まったくわからないのだが、この詩では、別のことがわかる。その少年を見たときのカヴァフィスの概念(精神)に起きる変化である。
 「世間通用限度内の健全な形式の愛欲で済む者向きの子じゃない」。「世間」で認められている「健全」な愛というものなど、無視したい。それとは違うことをしたい。概念の運動が欲望を誘う。そのとき「美」が瞬間的に自己主張する。
 そして、そういう「美」に触れたときに、「卑俗な倫理」に対して「恥を知れ」と言いたくなる。「卑俗な倫理」は、カヴァフィスが知っている「美」を知らない。官能を知らない。一度その味を知ったら「世間一般」に通用する倫理などどうでもいい。
 世間はカヴァフィスに対して「恥を知れ」と言うだろうが、カヴァフィスは言い返すのだ。「恥を知るべきなのは世間通用の、卑俗な倫理」なのだと。
 この激しい主張、激しい「主観」が、詩というものである。
 そして、さらにおもしろいのは、そういう「主観」はカヴァフィスが単独で作り上げたものではないということだ。それを作り上げたのは、カヴァフィスというよりも少年なのだ。しかも、「概念」ではなく、肉体、その四肢なのだ。

共寝のためにつくられた理想の四肢よ。

 これは強烈だ。「世間通用」の「卑俗な倫理」が概念であるのに対し、「四肢」は生きて、そこにある肉体。どんな概念(倫理)も肉体の強さには敵わない。「理想の四肢」も抽象的だが、その直前の「卑俗な倫理」「恥」という概念への攻撃があるので、具体的な肉体として迫ってくる。概念の運動と肉体の誘惑が衝突し、ことばが活性化している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

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