池井昌樹『冠雪富士』(15)(思潮社、2014年06月30日発行)
「秋天」に書いてあることは単純だ。しかし、そのどこに詩があるのか、それをうまく言えるかどうかはこころもとない。「ここ」と強く感じるけれど、その「ここ」を説明しようとすると、うーん、説明がしにくいなあ、と思ってしまう。
秋の運動会。そのことを思い出している。秋、空が晴れ渡ったいまごろ。「秋天」と呼ばれるその季節。
その「いまごろ」は、「いま」ではない。でも「いまごろ」という。過去なのに「いま」と呼ぶ。そして、それを「ほんとだったら」と引き寄せようとするとき、引き寄せられないものがある。「いま」とは絶対に重ならないものがある。そのために「ほんと」が「ほんと」にならない。だから「だったら」と言わないといけない。
この、日本語の文法破りの、「論理」では説明できない部分に、池井の詩がある。
これを、どう言えばいいのかなあ。
なぜ、「ほんと」じゃないのか。
そのことを池井は3連目で言いなおしている。
いや、言いなおそうとして、言いなおせなかったと言うべきなのか。
「ほんと」は子どものときの、あの秋の日の運動会にある。母がいて、運動場の隅の模擬店で「おやつ」を売っている。どのおやつにしようか、百円を握り締めて(東京オリンピックのころ、百円玉が登場したな)、迷っている。その迷いを母が見ている。あのときが「ほんと」であって、「いま」は「ほんと」じゃない。
施設に入っている母--それは、「ほんと」じゃない。
けれど、それは「現実」。
「ほんと」と呼ばれているのは「現実」ではない。
では、過去なのか。あの運動会の一日が「ほんと」か。
うーん、どうも、それも違う。
「ほんと」は「現実」ではなく、「幸福」のことなのだ。
なのだ。
これはもう一度言い換えて、
と読み替えると、池井が「ほんと」ということばで語ろうとしているものがわかる。
「幸福」と「いま」が堅く結びついている。「いま」という瞬間が「幸福」と結びついて「いま」を越えて「永遠」になる。それが「ほんと」。池井の言う「ほんと」。それが「時間(いま)」を越えているものだからこそ、それから何十年もたった「いま」も、あのときの「いま」をそっくりそのまま、肉体で感じてしまう。あの「秋天」の光を思い出すだけで、「永遠」に「肉体」が包まれる。
いまある、どんな現実も「幸福(永遠)」と結びつかない限り「ほんと」ではない。
施設にいる母、仕事を失いそうな池井--それは「現実」だが、「幸福」ではない。「幸福」を傷つける。だから、そういうものを「ほんと」と言ってはいけない。
「幸福」だけを「真実(ほんと)」として追い求める池井の切実さが「ほんとだったらいまごろは」という不思議にねじれた日本語になっている。
もう六十歳をすぎた池井が、小学校の運動会で走っているというようなことは「現実」的には不可能である。それでも、あのときを「ほんとだったら」と呼び寄せてしまう力、「幸福」のとろけるような時間をいつでも感じてしまう力、その何と言えばいいのだろう、甘えん坊なのか、欲張りなのかよくわからないが、不純なものがいっさいない力--それが現実とぶつかる瞬間の動き、ぶつかってことばがねじれる瞬間に、詩、と呼ぶしかないものが動いている。
「幸福」は、どこにある。
だれかと(母と)「一緒に」いる、それが池井にとっての「ほんと(幸福)」である。愛してくれるひとと一緒でない時間は、全部、まちがっている。
母のつくったおむすびのぬくもりは、炊いたごはんのぬくもりであると同時に、それを握った母の手のぬくもりでもある。その手のぬくもりを、池井は食べていた。それが「ほんと」。そういう暮らしが「ほんと」なのだ。
いま、池井の遠くにあって、その「ほんと」は池井を見つめている。
それに見つめられて池井は「幸福」であり、同時に「不幸」である。「ほんと」が遠くにあることがわかるから、かなしい。どんなに遠くに離れても、「ほんと」は池井の肉体から消えることはない--それが、「間違い(ほんとの反対)」だらけの現実のなかで、より哀しみをかき立てる。
そして、池井はこの詩を書くとき(書いているとき)、その「哀しみ」がまた「いま」を越えて存在する「永遠」であるということも知っている。
「幸福の永遠」と「哀しみの永遠」が、この詩のなかで出会っている。
「秋天」に書いてあることは単純だ。しかし、そのどこに詩があるのか、それをうまく言えるかどうかはこころもとない。「ここ」と強く感じるけれど、その「ここ」を説明しようとすると、うーん、説明がしにくいなあ、と思ってしまう。
ほんとだったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ
こうていのくさむらで
かけっこれんしゅうしていたな
こおろぎいっぱいはねてたな
ひゃくえんまでときめられた
おやつはどれにしようかな
しろいまえかけしめたはは
もぎてんにいてわらったな
ほんとだったらいまごろは
秋の運動会。そのことを思い出している。秋、空が晴れ渡ったいまごろ。「秋天」と呼ばれるその季節。
その「いまごろ」は、「いま」ではない。でも「いまごろ」という。過去なのに「いま」と呼ぶ。そして、それを「ほんとだったら」と引き寄せようとするとき、引き寄せられないものがある。「いま」とは絶対に重ならないものがある。そのために「ほんと」が「ほんと」にならない。だから「だったら」と言わないといけない。
この、日本語の文法破りの、「論理」では説明できない部分に、池井の詩がある。
これを、どう言えばいいのかなあ。
なぜ、「ほんと」じゃないのか。
そのことを池井は3連目で言いなおしている。
だからほんとじゃないんだな
いなかのしせつにいるははも
とかいでくさっているぼくも
つとめがなくなりそうなのも
ほんとはほんとじゃないんだな
いや、言いなおそうとして、言いなおせなかったと言うべきなのか。
「ほんと」は子どものときの、あの秋の日の運動会にある。母がいて、運動場の隅の模擬店で「おやつ」を売っている。どのおやつにしようか、百円を握り締めて(東京オリンピックのころ、百円玉が登場したな)、迷っている。その迷いを母が見ている。あのときが「ほんと」であって、「いま」は「ほんと」じゃない。
施設に入っている母--それは、「ほんと」じゃない。
けれど、それは「現実」。
「ほんと」と呼ばれているのは「現実」ではない。
では、過去なのか。あの運動会の一日が「ほんと」か。
うーん、どうも、それも違う。
「ほんと」は「現実」ではなく、「幸福」のことなのだ。
幸福だったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ
なのだ。
これはもう一度言い換えて、
小学時代の、秋のいまごろ、
うんどうかいのはなびがはじけるころ、
あのときは幸福だった
と読み替えると、池井が「ほんと」ということばで語ろうとしているものがわかる。
「幸福」と「いま」が堅く結びついている。「いま」という瞬間が「幸福」と結びついて「いま」を越えて「永遠」になる。それが「ほんと」。池井の言う「ほんと」。それが「時間(いま)」を越えているものだからこそ、それから何十年もたった「いま」も、あのときの「いま」をそっくりそのまま、肉体で感じてしまう。あの「秋天」の光を思い出すだけで、「永遠」に「肉体」が包まれる。
いまある、どんな現実も「幸福(永遠)」と結びつかない限り「ほんと」ではない。
施設にいる母、仕事を失いそうな池井--それは「現実」だが、「幸福」ではない。「幸福」を傷つける。だから、そういうものを「ほんと」と言ってはいけない。
「幸福」だけを「真実(ほんと)」として追い求める池井の切実さが「ほんとだったらいまごろは」という不思議にねじれた日本語になっている。
もう六十歳をすぎた池井が、小学校の運動会で走っているというようなことは「現実」的には不可能である。それでも、あのときを「ほんとだったら」と呼び寄せてしまう力、「幸福」のとろけるような時間をいつでも感じてしまう力、その何と言えばいいのだろう、甘えん坊なのか、欲張りなのかよくわからないが、不純なものがいっさいない力--それが現実とぶつかる瞬間の動き、ぶつかってことばがねじれる瞬間に、詩、と呼ぶしかないものが動いている。
「幸福」は、どこにある。
ほんとだったらいまごろは
そろそろべんとうをひらくころ
ははのむすんだおむすびの
ぬくもりのまださめぬころ
だれかと(母と)「一緒に」いる、それが池井にとっての「ほんと(幸福)」である。愛してくれるひとと一緒でない時間は、全部、まちがっている。
母のつくったおむすびのぬくもりは、炊いたごはんのぬくもりであると同時に、それを握った母の手のぬくもりでもある。その手のぬくもりを、池井は食べていた。それが「ほんと」。そういう暮らしが「ほんと」なのだ。
いま、池井の遠くにあって、その「ほんと」は池井を見つめている。
それに見つめられて池井は「幸福」であり、同時に「不幸」である。「ほんと」が遠くにあることがわかるから、かなしい。どんなに遠くに離れても、「ほんと」は池井の肉体から消えることはない--それが、「間違い(ほんとの反対)」だらけの現実のなかで、より哀しみをかき立てる。
そして、池井はこの詩を書くとき(書いているとき)、その「哀しみ」がまた「いま」を越えて存在する「永遠」であるということも知っている。
「幸福の永遠」と「哀しみの永遠」が、この詩のなかで出会っている。
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