近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」(「現代詩手帖」2014年12月号)
近藤久也「オープン・ザ・ドア」(初出『オープン・ザ・ドア』2014年09月)。幼かったとき、両親が家を空ける。兄弟だけで留守番をしている。見知らぬひとが尋ねてくる。「誰が来ても決してドアをあけないように」と言われている。そのときの不安な状況を描いている。居間から、奥の小さな部屋にゆく。
この「もっと奥にもっと小さな部屋があればと思った。」が「みつかりたくない」という気持ちをしっかりとつかまえている。「もっと」「もっと」が切実だ。
*
最果タヒ「きみはかわいい」(初出『死んでしまう系のぼくらに』2014年09月)。
この書き出しは、象徴的でおもしろい。このあと「きみが無駄なことをしていること。 /きみがきっと希望を見失うこと。/そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかもしれないし、それを、だれも待ち望んですらいないかもしれない。」という青春が語られる。
「きみ」はだれだろう。この場合詩集のタイトルになっている「ぼく(ら)」に従えば、「ぼく」から見た「きみ」だが、わたしには「ぼく」を「きみ」と二人称で呼ぶことで、自分を相対化しようとしているように思える。
で、タイトルにもどると……。
なぜ最果は「ぼく(ら)」という呼称、一般的に男が自分を呼ぶときにつかう呼称を詩集全体のタイトルにしたのだろう。最果が自分を客観的(相対化して?)に把握したいと思っているからかもしれない。そして、その思いが、この詩でも「わたし(ぼく)」でもなく「きみ」という「二人称」を選ばせている。
詩を書いている「ぼく」を最果と考えると、「ぼく」は仮構された存在、そしてこの仮構された存在が誰かを「きみ」と呼ぶとき、それが同じように仮構された「ぼく」自身であるなら、仮構された「きみ」は女であり、その女は「最果」ということになるかもしれない。仮構のなかでことばを動かしながら、最果は仮構されない自分(女の自分)に語りかけているのかもしれない。
そういう仮構するこころ(精神)の動きとビルの赤い灯は、どういう関係にあるのか。これはちょっと考えただけではわからない。考えても、わからないのだけれど……。
「深い時間」と「赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線」ということばが、「きみ」「ぼく」「わたし」という「主語」の「仮構」と交錯し、あ、その「赤い地平線」の「ぽつぽつ」のひとつひとつが「きみ=最果自身」のように感じられる。最果の「肉体」のなかで動いているもの、「肉体」の深い深いところまでおりていくと見える最果の本質のように感じられる。
最果は東京で「他人」に出会い、その出会いのなかで、最果自身と同じように、「肉体」の「深い」ところで「常時ついている赤いランプ」を感じたのかもしれない。それは、ふつうの時間(日常の時間)には見えない。残業も何もかも終わって、「わたしという肉体」にもどった瞬間、それがあることに気づくというものかもしれない。そして、その「赤い灯」を「肉体の深いところ」でともしているひとは、遠く離れて、「ぽつぽつ」と生きている。「肉体のふかいところ」へ帰ったとき、その「ぽつぽつ」が「ばらばら」な存在ではなく「地平線」のように連続して見える。
「ぼく」「きみ」「わたし(書かれていないのだけれど……)」という仮構のなかで、最果は孤独と連帯する。
「ぼく」「きみ」「わたし」という相対化(客観化)は自分自身の深いところ(孤独)へおりてゆく方法なのかもしれない。
書き出しで「東京」と書かれていた街が「とうきょう」を経て、もう一度「東京」にもどる。ここにも「ぼく」「きみ」「わたし」の主語の交錯と同じものがある。「ぼく」は仮構した「わたし(最果)」であり、「きみ」は「ぼく」の仮構した「わたし」であり、仮構を繰り返すことで「ぼく」は「わたし(最果)」にもどる。
「東京」は「赤い灯」という「現実」を中心に「仮構」の都市「とうきょう」になる。その「仮構」されることで見えるものをもう一度語り直すとき、「とうきょう」は「東京」にもどる。その運動のなかで、最果は最果自身を見つめている。自分を見つめることが他人とつながる唯一の方法だと発見している。自分をみつめると、おのずと「ぼくら」になるということを発見していると言いかえてもいい。
*
近岡礼「鴇色に爆発する」(初出『階段と継母』2014年09月)。行頭ではなく、行末がそろえられた形式詩。行頭をそろえて引用すると印象が違ってしまうのだが、ネットではうまく表記スタイルを再現できないので、行頭をそろえた形で引用する。正確な詩は詩集で読み直してください。
何のことかわからないが「断定している」ということだけはわかる。行頭の上の「空白」を飛び越して、ただ断定する。飛躍の肯定と言いかえるとき、「詩の定義」が突然よみがえる。詩とはかけ離れた存在を結びつける行為。--あまりにもまっとうすぎて、「はい、その通りです」という感想しか思いつかない。批判的に言いかえると、「古い」ということ。時代が逆戻りしたような錯覚に陥る。
近藤久也「オープン・ザ・ドア」(初出『オープン・ザ・ドア』2014年09月)。幼かったとき、両親が家を空ける。兄弟だけで留守番をしている。見知らぬひとが尋ねてくる。「誰が来ても決してドアをあけないように」と言われている。そのときの不安な状況を描いている。居間から、奥の小さな部屋にゆく。
奥の小さな部屋の電灯に兄は来ていたセーターをまき
つけ、ベルトでしばった。電灯の真下だけがぼおーと明る
くて、とんでもなく心細かったが我慢した。もっと奥に
もっと小さな部屋があればと思った。
この「もっと奥にもっと小さな部屋があればと思った。」が「みつかりたくない」という気持ちをしっかりとつかまえている。「もっと」「もっと」が切実だ。
*
最果タヒ「きみはかわいい」(初出『死んでしまう系のぼくらに』2014年09月)。
みんな知らないと思うけれど、なんかある程度高いビルに
は、屋上に常時ついている赤いランプがあるのね。それ
は、すべてのひとが残業を終えた時間になっても灯り続け
ていて、たくさんのビルがどこまでも立ち並ぶ東京でだけ
は、すごい深い時間、赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地
平線が見られる。
この書き出しは、象徴的でおもしろい。このあと「きみが無駄なことをしていること。 /きみがきっと希望を見失うこと。/そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかもしれないし、それを、だれも待ち望んですらいないかもしれない。」という青春が語られる。
「きみ」はだれだろう。この場合詩集のタイトルになっている「ぼく(ら)」に従えば、「ぼく」から見た「きみ」だが、わたしには「ぼく」を「きみ」と二人称で呼ぶことで、自分を相対化しようとしているように思える。
で、タイトルにもどると……。
なぜ最果は「ぼく(ら)」という呼称、一般的に男が自分を呼ぶときにつかう呼称を詩集全体のタイトルにしたのだろう。最果が自分を客観的(相対化して?)に把握したいと思っているからかもしれない。そして、その思いが、この詩でも「わたし(ぼく)」でもなく「きみ」という「二人称」を選ばせている。
詩を書いている「ぼく」を最果と考えると、「ぼく」は仮構された存在、そしてこの仮構された存在が誰かを「きみ」と呼ぶとき、それが同じように仮構された「ぼく」自身であるなら、仮構された「きみ」は女であり、その女は「最果」ということになるかもしれない。仮構のなかでことばを動かしながら、最果は仮構されない自分(女の自分)に語りかけているのかもしれない。
そういう仮構するこころ(精神)の動きとビルの赤い灯は、どういう関係にあるのか。これはちょっと考えただけではわからない。考えても、わからないのだけれど……。
「深い時間」と「赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線」ということばが、「きみ」「ぼく」「わたし」という「主語」の「仮構」と交錯し、あ、その「赤い地平線」の「ぽつぽつ」のひとつひとつが「きみ=最果自身」のように感じられる。最果の「肉体」のなかで動いているもの、「肉体」の深い深いところまでおりていくと見える最果の本質のように感じられる。
最果は東京で「他人」に出会い、その出会いのなかで、最果自身と同じように、「肉体」の「深い」ところで「常時ついている赤いランプ」を感じたのかもしれない。それは、ふつうの時間(日常の時間)には見えない。残業も何もかも終わって、「わたしという肉体」にもどった瞬間、それがあることに気づくというものかもしれない。そして、その「赤い灯」を「肉体の深いところ」でともしているひとは、遠く離れて、「ぽつぽつ」と生きている。「肉体のふかいところ」へ帰ったとき、その「ぽつぽつ」が「ばらばら」な存在ではなく「地平線」のように連続して見える。
「ぼく」「きみ」「わたし(書かれていないのだけれど……)」という仮構のなかで、最果は孤独と連帯する。
「ぼく」「きみ」「わたし」という相対化(客観化)は自分自身の深いところ(孤独)へおりてゆく方法なのかもしれない。
きみはそれでもかわいい。
とうきょうのまちでは赤色がつらなるだけの夜景がみられ
るそうです。まだ見ていないなら夜更かしをして、オフィ
スの多い港区とかに行ってみてください。赤い夜景、それ
は故郷では見られないもの。それを目に焼き付けること、
それが、きみがもしかしたら東京に、引っ越してきた理由
なのかもしれない。
書き出しで「東京」と書かれていた街が「とうきょう」を経て、もう一度「東京」にもどる。ここにも「ぼく」「きみ」「わたし」の主語の交錯と同じものがある。「ぼく」は仮構した「わたし(最果)」であり、「きみ」は「ぼく」の仮構した「わたし」であり、仮構を繰り返すことで「ぼく」は「わたし(最果)」にもどる。
「東京」は「赤い灯」という「現実」を中心に「仮構」の都市「とうきょう」になる。その「仮構」されることで見えるものをもう一度語り直すとき、「とうきょう」は「東京」にもどる。その運動のなかで、最果は最果自身を見つめている。自分を見つめることが他人とつながる唯一の方法だと発見している。自分をみつめると、おのずと「ぼくら」になるということを発見していると言いかえてもいい。
*
近岡礼「鴇色に爆発する」(初出『階段と継母』2014年09月)。行頭ではなく、行末がそろえられた形式詩。行頭をそろえて引用すると印象が違ってしまうのだが、ネットではうまく表記スタイルを再現できないので、行頭をそろえた形で引用する。正確な詩は詩集で読み直してください。
階段は幻想し
鴇色に爆発する
わたしはわたしであってわたしでなく
あなたはあなたであってあなただ
どうせ一度は灰になるものなら
この静止は必定の予言者だ
何のことかわからないが「断定している」ということだけはわかる。行頭の上の「空白」を飛び越して、ただ断定する。飛躍の肯定と言いかえるとき、「詩の定義」が突然よみがえる。詩とはかけ離れた存在を結びつける行為。--あまりにもまっとうすぎて、「はい、その通りです」という感想しか思いつかない。批判的に言いかえると、「古い」ということ。時代が逆戻りしたような錯覚に陥る。
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