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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(66)

2014-01-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(66)

 「えてるにたす Ⅱ」

がまぐちのしまる音                       (78ページ)

 詩の中で「がまぐち」を書いた人が何人いるか知らないが、こういう俗っぽいことばをつかうのが西脇は得意である。--というより、そういう俗っぽいことばがでてきたとき、私は衝撃を受ける。
 「詩は高尚なものである」という考えに私はまだまだ汚染されていて、その「高尚」がぱっと突き崩されることに驚く。その驚きの中で、私は、あ、そうか、どんなことばでも詩になるのだ。そこにあることばとぶつかり、新鮮な音を響かせれば、それが詩なのだとあらためて気づくのである。
 中井久夫のカヴァフィスの訳を私はふと思い出す。中井久夫の訳のなかでは、現代の標準語(書きことば?)、雅語(古くおごそかなことば)、巷の口語(俗語)がまじりあう。やくざな口調が乱入する。そうすると、そこに見たことのない人間が突然「音楽」としてあらわれる。そういうおもしろさ、新鮮さがある。
 西脇のことばにも、そういうものを感じる。

 このがま口の音は、

風とともに
野原の中へ去つた

 と、視覚を新鮮に洗いなおしもする。ことばといっしょに「肉体」が変化する感じが、私にはとても楽しい。

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