西脇順三郎の一行(66)
詩の中で「がまぐち」を書いた人が何人いるか知らないが、こういう俗っぽいことばをつかうのが西脇は得意である。--というより、そういう俗っぽいことばがでてきたとき、私は衝撃を受ける。
「詩は高尚なものである」という考えに私はまだまだ汚染されていて、その「高尚」がぱっと突き崩されることに驚く。その驚きの中で、私は、あ、そうか、どんなことばでも詩になるのだ。そこにあることばとぶつかり、新鮮な音を響かせれば、それが詩なのだとあらためて気づくのである。
中井久夫のカヴァフィスの訳を私はふと思い出す。中井久夫の訳のなかでは、現代の標準語(書きことば?)、雅語(古くおごそかなことば)、巷の口語(俗語)がまじりあう。やくざな口調が乱入する。そうすると、そこに見たことのない人間が突然「音楽」としてあらわれる。そういうおもしろさ、新鮮さがある。
西脇のことばにも、そういうものを感じる。
このがま口の音は、
と、視覚を新鮮に洗いなおしもする。ことばといっしょに「肉体」が変化する感じが、私にはとても楽しい。
「えてるにたす Ⅱ」
がまぐちのしまる音 (78ページ)
詩の中で「がまぐち」を書いた人が何人いるか知らないが、こういう俗っぽいことばをつかうのが西脇は得意である。--というより、そういう俗っぽいことばがでてきたとき、私は衝撃を受ける。
「詩は高尚なものである」という考えに私はまだまだ汚染されていて、その「高尚」がぱっと突き崩されることに驚く。その驚きの中で、私は、あ、そうか、どんなことばでも詩になるのだ。そこにあることばとぶつかり、新鮮な音を響かせれば、それが詩なのだとあらためて気づくのである。
中井久夫のカヴァフィスの訳を私はふと思い出す。中井久夫の訳のなかでは、現代の標準語(書きことば?)、雅語(古くおごそかなことば)、巷の口語(俗語)がまじりあう。やくざな口調が乱入する。そうすると、そこに見たことのない人間が突然「音楽」としてあらわれる。そういうおもしろさ、新鮮さがある。
西脇のことばにも、そういうものを感じる。
このがま口の音は、
風とともに
野原の中へ去つた
と、視覚を新鮮に洗いなおしもする。ことばといっしょに「肉体」が変化する感じが、私にはとても楽しい。